045 星を拾う
しかしジェレフは居なかった。
ギリスは夜の庭から派閥の
主だった者たちは誰もおらず、それもそのはずで、晩餐の身支度をするべき時刻なのだった。
皆まさか、あの泥酔のまま
大人とは恐ろしいものだとギリスは思った。
飲みすぎて前後不覚になると、ギリスは何も覚えていなかった。
そんな状態で
サリスファーを探している暇もない。
スィグル・レイラスの居室の準備ができるのか、確かめる
王族たちの区画は遠い。そこへは正装で走っていくわけにもいかず、もう向かわねばならない。
ギリスは迷ったが、諦めて王族の居室があるほうへ向かった。
英雄たちの区画には、もう正装の着付けが終わった者たちが、揺れる髪飾りをつけて通路に
序列の低いものが先に到着して待ち、
序列の高いものは、後からゆっくり来る仕来たりだ。
王族の殿下がやってくる前に官吏や将軍や博士たちが
族長リューズは気さくな
晩餐の初めには序列があるが、途中で抜け出したり、途中でやって来るのは
昔は
今でも出陣式や、重要な法令の発布のような場合にはその習慣が残っているが、日常の儀礼は一度叩頭するだけで良いことになった。
当初はそれに太祖以来の宮廷の儀礼に反するとして、強く反対した者もいたと
さっさと食い、さっさと話し合うべきことが当時は今以上に多かったのだろう。
タンジールが陥落しようかという時に、何度も立ったり座ったりして頭を下げている場合ではなかった。
一礼に敬意をこめられぬ者に、三度
それを聞くとギリスには納得しか湧かなかったが、
たとえ太祖アンフィバロウの末裔とはいえ、そんなに出来る男がいるわけがないとギリスは思っていた。
きっと何か裏があるに違いない。
第十六王子スィグル・レイラスにしても、確かに容貌は美しく、博士が言うには賢いのだろうが、魔法はまだまだだし、背もちびっこい。王族でなければ、ちょっと出来のいい
魔法戦士の
ギリスはそう腹を
もちろん相変わらず
「今日は殿下に何もお変わりはなかったか」
俺は射手だぞという態度で、ギリスは胸を張って衛兵に尋ねた。
四人いる
「何も」
「誰か来たか」
「詩人が参りました。殿下の御所望で」
「詩人……?」
「宮廷詩人です。ご心配には及びません。一曲
無表情に伝えて、兵の一人が室内に続く伝声管に、エル・ギリスの来訪を知らせた。
侍女が現れ、朝と同じ青ざめた顔で、怖々のようにギリスを通した。
新星は、ギリスがやってきたら通せと命じていたようだった。侍女は部屋に聞きに戻らなかった。
扉をくぐり、玄関の控えの間から中の広間に通って、ギリスは居間にいた新星スィグル・レイラスに叩頭した。
もちろん一度だけだ。
「エル・ギリス」
新星はもう正装して待っていた。
王族の衣装を着るには時間がかかる。早めに着付けさせたのだろう。
今回は文机ではなく、ちゃんと客を出迎えるための主人の座にスィグル・レイラスがいた。
背後の壁には二人分の弓と矢が飾られ、美しい
名を呼ばれたら近づいてよい作法だ。
ギリスは一度立って、主人の座のそばまで行き、そこにあった客座に座ってもう一度叩頭した。
新星レイラスはなんとも言えない表情で苦笑していた。何を笑っているのか。
「ちょっと見ない間に、えらく
スィグルも
そういえばその通りだ。このところ、酔っても疲れても、ろくに寝付けず、眠ると嫌な夢を見た。
どんな夢かも憶えてはいないのに、ひどく苦悶する夢で、息苦しさで目覚めるほどだったのだ。
もう死ぬのかもしれないなと内心思っていた。それでもしょうがないと、どこか投げやりな気持ちでいたかもしれなかった。
死ねば楽園に行けるだろう。
唯一の心残りは新星のことだった。
射手になれというのが
それをまだ果たしてはいない。
死んでちゃまずいだろうと、今はそう思えた。
「腹が減ってるだけだ。それに昨夜から
ギリスが尋ねると、王族の赤い礼装を着たスィグルは含み笑いした。
殿下の
その
平服の時は感じないが、王族の衣装を着ると、えらく有難い。華やかな殿下だった。
「お前には悪いけど僕は昼寝をしたよ。宮廷詩人を呼んで、お前の
スィグルは笑ってそう言ったが、ギリスは複雑な気分だった。
人の
「悪夢って?」
「
スィグルは空中のどこかを見ている目線で、ギリスにそう教えた。
夢を見ず眠れる薬がいるのではないかと、ギリスは案じた。眠れなきゃ
新星の健康もギリスが預かるところだった。
そんなの放っときゃ食うだろうと思うのに、族長があまり食わないと、胃に優しいものを出せだの、体が冷えるゆえ氷菓を控えさせろなどと指示していた。
まるで子供でも世話するようだった。
しかし今となると
族長リューズ・スィノニムが
それがいつまでも強く輝き皆を照らし続けるように、
自分もそうしなくてはならないだろう。自分の体以上に、このひょろっとちびっこい殿下の身が大事なのだ。
「殿下はよく寝て、よく食べた方がいい。そんな弱そうな体じゃ戦えない」
「僕は戦わない」
頑固そうに新星レイラスは言った。
そういえば、そういう話だった。
それでも王宮での戦いもあるだろう。とにかく、新しい星がいつも頑健であることが部族のために必要だった。
それをどうやって伝えればいいのか。ギリスはぼんやりと悩んだ。
それを眺めて、スィグル・レイラスは暗い顔をしていた。
「ギリス。今日の晩餐に行く前に、お前に
さらりと言って、新星レイラスはそれが大したことではないような態度に見えた。
ギリスは答えを思いつかなかった。
「賭けてない。お前のためには。俺は魔法戦士で、部族のために戦うのが義務だ。他にできることはない。戦うべきだったから戦ったまでだ。お前の救出はついでだった。ヤンファールの攻略に価値があった。何百年も奪われていた土地を取り戻せたんだから」
スィグルは頷いてギリスの話を聞いていた。
「そうだな。でも今はヤンファール平原の半分は森エルフ領だ。お前が命賭けで取り戻した土地は、今また部族領の外にある。お前も僕に腹が立つだろう。なぜ助けてくれるんだ」
ギリスは思いがけない話に、顔を
なぜ?
そんなことは、こっちが聞きたい。
「お前はずっと僕に怒っているだろう。最初に会った時からそうだった。
スィグルが言う話は、ギリスの頭の中を素通りした。どう思っていいか分からなかったのだ。
何を言っているのかと、何となく呆然とした。
ずっとろくに眠れず飯も食えていないので、疲れて
とにかく手が冷たい。もう半分、死んだような気分だった。
黙っていると、新星レイラスが勝手に話した。
「でもお前の好むような新星とやらには、僕はなれないよ。それでもいいのか、ギリス。後悔していないか、ヤンファールで戦ったことを」
「後悔? してない。お前は何を言い出すんだ。
「お前が
青ざめた顔で新星レイラスが聞いてきた。ギリスは
「本当だ。全部取れたんじゃない。まだちょっとくっ付いてた。でないとジェレフが取れた足を探さないといけないだろう? そんなもんが簡単にすぐ見つかるような状況じゃないんだ。何もかもがぐちゃぐちゃで、誰の足かなんか分からない」
「その足は本当にお前のなのか」
スィグルは暗い顔で聞いてきた。
「えっ……そうだと思うよ?」
ギリスは心配になって答えた。
本当のところ、ジェレフが助けに来たところまでしか記憶はないのだ。気づいたら陣に戻っており、足は両方そろっていて無傷で、生きていた。
ジェレフはもう、再出撃した後だった。双子の殿下を救いに行ったのだ。
ジェレフは命の恩人じゃないか?
ギリスは今さらぼんやりと思った。
いつもそういうことに後から遅れて気づくのだ。自分はもっとジェレフに感謝すべきだったのではないのか。
「ごめん。冗談だよ。悪い冗談だよね。僕の悪い癖だ」
スィグル・レイラスは後ろめたそうにもじもじして言った。
「言いにくいんだけど、僕にとっては今はお前だけが頼りだ。他にあてがない。お前が求めるような新星ではないし、そうなるような努力もできないが、僕なりの頑張りで妥協してくれないか。僕に尽くしてくれ。父上みたいに、お前に新しい
なんと言うべきか、やはり分からない。
うまい
仕方なく、ギリスは自分の心のままに語った。
「良かったよな。助かって。お前も……あの弟も。生きてて良かったよ」
ギリスがそう言うと、スィグル・レイラスは言葉を失ったように、ただ
「よく考えたんだけど、俺も別に戦は好きじゃないかもしれない。
ギリスが話す取り留めもない話を、スィグルは黙って聞いていた。
「でも、俺たち魔法戦士には、
ギリスが話ても、スィグルは困った顔で俯いただけで、もう
頑固そうな
「何かは要るよ、スィグル。それをお前の賢い頭で考えてくれ。仕事がいるんだ、俺たちには。戦いがないなら、百年かけて砂漠の砂粒を数えるのでもいいんだ。それを
ギリスが思いつくまま言うと、スィグル・レイラスは意味が分からないのか、顔を強張らせてギリスをまた見つめてきた。呆れてるのか、驚いているのかも分からない表情で。
「今日、
「思うよ」
ギリスが頼み込む気持ちで言うと、新星レイラスは頷いた。
「分かった。何か考えよう。まだ思いつかないけど、お前たちの命を無駄にはしないよ、ギリス」
スィグルは約束するように言って、そして言い淀んだ。
でも結局、ギリスの目を見て、新星レイラスは言った。
「だからお前も自分の命を大事にしてくれ。戦って死んでもいいとは思わないでくれ。なるべく長く生きて、部族と僕に
スィグルは自信がないように、
まるでアンフィバロウの末裔らしくない。特にあの族長リューズとは、スィグルは全く似ていなかった。
「
「父上みたいに?」
「いや、お前みたいにでいいよ」
ギリスがそう
「なぁんだ。それでいいなら出来そうだよ。ありがとうギリス。とりあえずお前の功労に毎日感謝することにしよう」
「なんで?」
なぜそうなるのか分からず、ギリスは
新星レイラスはふふふと含み笑いした。
「だって僕に言ったろ? あと百回ぐらい感謝されたいって」
「言った⁉︎」
ギリスは憶えていなかった。
「言ったよ。
照れ臭そうにスィグルは言っていた。
冗談のつもりなのかもしれなかった。
笑って良いのか、ギリスは全くわからなかった。
「とりあえずその百日、僕に
スィグルがしたり顔でそう言うので、ギリスは笑った。
何が
このところ、ずっと
暗い砂漠を
そう思い、ギリスはそれが自分にしては詩的な考えではないかと思えた。
自分もいつか、
ならないのかもしれないが、それはそれでも良いのではないか。
新星レイラスはリューズ・スィノニムとは違うし、この射手もエル・イェズラムのようにはならないだろう。
でもこの星は、違うふうに輝いてもいいのではないか。
それを守る任務がある限り、自分も生きていける気がした。
新星スィグル・レイラスの射手として。
「で? 今日はどんな忠義を尽くしてくれたんだ、ギリス? 内容によってはもう一回分、ありがとうって言ってもいい」
憎ったらしい高慢な態度で、新星レイラスが聞いてきた。
なんだと、この野郎。ギリスは笑ってそう思ったが、笑って返事を待っているスィグル・レイラスの顔は、満足げな笑みで、やけに輝いて見えた。
「ゆっくり話してもいいか。とても一口に言えないぐらいだ」
「それはいいね。どうせ晩餐は長いんだから、いくらでも聞こうじゃないか」
それにギリスが満足した時、
「殿下、晩餐の呼び出しの侍従が参られました。どうぞ
まだ青ざめた顔の侍女たちが、新星レイラスを呼びにきた。
スィグルはギリスの顔を見て、驚いたように目を開き、それからにっこりと笑いかけてきた。
「ありがとう、ギリス。
「
満足して微笑み、ギリスは叩頭した。
それは今までにしたどんな叩頭よりも、ギリスの心に叶うものだった。
栄光の
これから続く幾千の夜の、最初の一夜として、ギリスは立ち上がった。この新しい星を導くために。
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