042 忠誠
「サリスファー、よくやった」
女どもの
エレンディラが寄越した新星への献上品だ。
新星昇る。そういう
同じ茶の贈り物でも、それとこれとは大きな違いだった。
「それ、なんで新星昇るっていうの?」
ギリスはそれを新星にくれてやる前に聞いておきたくて尋ねた。
サリスファーは絹に包まれた茶入れを抱えて歩きながら、きょとんとして見えたが、ギリスが知らなくても、もう怒って驚きはしていないようだった。
諦めたのだろう。物分かりの良い
「当代の族長が即位された折に調合されたお茶です。とても有名なものですけど、普通は玉座にまつわるお祝いの席でしか飲まれないものです」
「普通じゃない席って?」
「ですから
「運があるな、お前」
ギリスは
英雄に必要なのは運だ。
そして運とは、どう
天使からの授かり物だ。
そういう意味で言ったのだが、
「そうですね。たまたま知らなかったら、
「知ってたんだから、それでいいよ。十分だ、サリスファー」
ギリスが微笑んで褒めると、
「
「明日には忘れるけどな」
ギリスがしれっと言うと、サリスファーはそれに衝撃を受けていた。
「えっ、今日だけなんですか!?」
「今日だけだ。もしお前が毎日新しい功労で俺を驚かせてくれたら、毎日お前の名前を憶えてると思うよ」
「ひどいな……」
笑いながら、サリスファーはよほど
ギリスはその笑う
「サリス、俺はこの後、
「できればって何ですか。何なりとお命じください」
「僕は
黙っているギリスに何か感じるのか、慌てたふうに言い添えるサリスファーは勘の良い子だった。
しかし、まだ学房通いの
ギリスは頭の中で考えをまとめる間、じっと黙ってサリスファーを見ていたが、考えてもしょうがないことだった。
頼める相手が今はこの
「新星の新しい
ギリスが用件を話すと、サリスファーは真面目な顔で
「お前は今から派閥の
「エル・ジェレフは酒豪なので大丈夫と思います。いくらでも飲むと僕の
気まずそうに言い直す
「それだけど。英明な
おそらくそうなるだろうと思えることを、ギリスはサリスファーに教えた。
それでも納得いかないのか、サリスは淡く
本当にまだ
これがあと何年かして、戦場で
でも、この
「行け。派閥の
ギリスがそう言うと、冷水を浴びせられた泥酔の
「嫌です。そんなことして、叱られるのは僕なんだから」
サリスファーは抜け目なく言い、ギリスに持っていたエレンディラの茶入れを
「熱い茶を浴びせてやりますよ。新星昇る。これを長老会の
サリスが幼い顔で微笑んで、意地悪く言うので、ギリスは驚いて嘆息した。
こいつ怖いな。
おそらくこれが怖いという感情なのだろうと、ギリスは見当をつけた。
ヤンファールで銀色の
あれが楽園への門だ。自分は死ぬのだと思って、身が震え、えもいわれぬ高揚感に包まれた。
それは死だ。皆が恐ろしいと言っている。
それが自分にも怖くない訳はないと、ギリスは思ったのだ。
茶入れを見せて微笑むサリスファーの顔を見て、なぜか同じ気持ちがした。
「かまいませんか、
「好きにしろ」
ギリスは
しかしその意味を
「おい待て、サリス。お前、今言ったこと、本当にやったらその後どうなるか、分かってるんだよな?」
ギリスが尋ねると、茶入れを持った
「どうなるんですか?」
不思議そうに聞いてくるサリスファーに、ギリスは痛恨の表情になった。
おそらくこれが痛いという感情だろう。自分の様子が、いきなり足を踏まれた時の
「どうって……お前、その茶入れを持って派閥に行ったら、お前は
「僕はギリスの
サリスファーは真面目腐ってギリスにそう言った。
それが少々、詩を詠む者の芝居がかった
うまい答えを思いつかない。
困るまま自分の首を揉み、ギリスは困って首を振った。
「やめてくれ。そういうの。無理しなくていい。無理だったら言わなくていいんだからな? とにかくジェレフに新しい居室の件だけ、なんとかして頼んでくれ。あいつが
「はい。承知しました。その後、どうしたらいいですか」
その後?
ギリスは
自分がどうしたらいいかにも日々、
頭の中が何かで
「どうって……その後はもう晩餐だろ。時間的に……」
そう言ってから、ギリスはハッとした。今、何時なのだ。
アイアランは、エル・エレンディラの後でよいと言っていたが、それが何時とは言わなかった。
どこで待っているのかも分からない。どうやって会うのか。
それを考えると、こうしてはいられない気がした。
「サリス。お前もちろん礼装は持ってるんだよな?」
「持っていますよ。エル・ユーレランが仕立ててくださいましたので」
「
「その意思って?」
無表情に、サリスファーは問い返してきた。
やけに鈍いなと思い、ギリスは首を傾げた。
「その意思ってなんですか。はっきり言ってください、そういうことは」
真顔のまま、サリスファーは小突くような口調でギリスに求めた。言葉にしろと。
ギリスはため息をついて顔を
「お前に新星スィグル・レイラス殿下にお仕えする意思があるなら来い。殿下に紹介する」
「帰還式の行列に
ギリスがまだ考えてもいなかったことを、サリスファーは口にした。
それが新星に仕える条件ということなのか。
抜け目がないなと、ギリスは吹き出して苦笑した。
「筆頭もなにも、
「
「サリスファー」
憶えてるだろと示す意味で、ギリスは相手の名を呼んでやった。それにサリスはにやりとした。
「その程度では信用できないですよ、ギリスの
「馬鹿で悪かったよ」
「本当にそうですね」
サリスは笑って答え、もう行くようだった。
「では晩餐のお席で。時機を見て、殿下にご挨拶にうかがいます」
そう言い残して、サリスファーは足速に去っていった。
走ってはならぬと
あいつも時がないことを承知しているのだろう。
ここでのんびり歩くようでは、使い物にならなかっただろうが、確かに聡明な良い
ギリスは胸がもやもやした。
たまたまギリスと廊下で久しぶりに会った程度のことで、サリスファーは新星の星図の中の星のひとつとして、今まさに組み込まれようとしている。
それがすぐ
あいつは来る気だ。今夜の晩餐に正装して現れ、新星に忠義を約束して叩頭するだろう。
それがもし、今朝の王宮の廊下でギリスに出会わず、声をかけていなければ、どうなっていたのか。
それを思うと、あまりにも不思議だった。
自分も子供の頃、ついてくるかと声をかけてくれたイェズラムに
大人たちはギリスを殺す相談をしていた。
どこか抜けており、反抗的で制御がとれないが、使う魔法は強すぎる。
育てても幼少のうちに石が育ちきって死ぬかもしれぬし、手を掛ける
そういう話をギリスの値踏みをする係の誰かが長老会の者たちにして、ギリスを直に預かったことがある者たちは、こいつは手に負えぬ、殺したほうがよいと魔法戦士の
過ぎた魔法は身を滅ぼす。従わねば部族の災いにもなりかねないと、皆、暗い顔で相談していたが、イェズラムがギリスを預かると言った。その意思がギリスにあるならば。
お前はどうしたいと、イェズラムはギリスに聞いてきた。
忠誠か死だ。
お前がもし今、氷結術で抵抗しても、お前の
死だ。それがギリスが見た、初めての自分の死だった。
お前に忠誠心がなければ、今ここでお前の身を焼く。痛みはない。一瞬のことだ。
俺は
どうする、エル・ギリス。英雄になりたいか。それとも英雄の火で死んで、今すぐ楽園に行くか。
そうする以外にギリスには生きる道がなかった。
やんわりと何も言わず、顔を
どんなに優しく言われたところで、状況は変わらない。忠誠か死。それが英雄たちの一生だ。
自分はそういう星のもとに生まれついたのだ。嫌だろうが、嬉しかろうが、天使の決めたことだ。
ギリスはイェズラムについていくことにした。
それが
たまたまだ。
イェズラムはギリスにいつも優しく、居所と寝床を与えてくれた。時々はお菓子も。
そして
その意味をいまだに飲み込めないが、今も噛み続けている。
長い
忠誠とは愛だ。理屈ではない。
ギリスがイェズラムに逆らわなかったのは、その必要がなかったからだ。
そういうエル・イェズラムを、自分はおそらく深く尊敬していた。他の気短で高圧的な大人たちとは違う者として。
皆が心ならずも死ぬこの王宮で、死ぬか生きるかさえ、ギリスに自由に選ばせてくれたではないか。
そういうイェズラムのことが、ギリスは単純に好きだった。
好きだったのだ。
ギリスは新星のことも、好きだった。
なぜかは分からないが、人好きのする
あの一夜、自分が殴ったギリスの頬の打撲を治癒術で直しながら、新星レイラスは暇だと思うのか、どうでもいいような話をずっと喋っていた。
夜空に見えていた星の名前とか、伝説に名だたる
全ての民を故郷へ導くという
砂漠の砂って何個あるんだと思う?
新星がそう言うので、ギリスは困惑した。
喋りながら下手な治癒術をふるうせいで、新星が施術に集中せず、一向に治らないことにも動揺したが、砂漠の砂を数える奴がいるというのにも動揺した。
そんなもの、一生かけても数え終わるはずがないではないかと思う。
しかし新星は概算できると言っていた。
まず決まった小さな箱に詰めた砂の数を数える。しかるのちに砂漠地帯全土の測量をして、透視術師に砂の深度をはからせ、全ての砂漠の砂の容積を割り出せば、砂粒の数も
でもそんなものは正確ではない。厳密には、個数は数えてみなければわからないではないか。
ギリスがそう言うと、新星レイラスは輝く黄金の目でにやにやして、得意げにギリスに命じた。
それじゃあ、僕の計算が間違っているかどうか、お前が砂漠の砂粒を全部数えて確かめてみてくれ。
もし間違っていると判ったら、僕は潔くお前に叩頭して降参するよ、と。
それが何百年先のことか、分からないけどねと言って笑う新星レイラスのいけ好かない顔が、ギリスはなぜか好きだった。
それが忠誠かといえば、今はまだわからない。
あれが本物の星か、確かめられるのはまだ先のことだろう。
しかし今日一日を仕えるのも嫌だということはない。今日の忠誠は今日、もう尽くした。今も尽くしている。
それなら自分は今日は、新星レイラスの英雄だろう。
それも毎日問えばいい。お前は今日も新しい星かと、第十六王子スィグル・レイラスに。
それが自分の一生の役目ではないかと、ギリスには思えた。
そうでなくとも、どうせ、忠誠か死だ。死ぬよりはマシだ、あの我儘で凶暴な殿下に仕えるほうが。
生きている英雄になるほうが、死んでいるより、ずっといい。
「アイアラン……」
ぼんやり考えに沈み込んでいた自分に気づき、ギリスはハッとして、その名を呟いた。
彼らの派閥がどこに
それも賢い
抜かったなと、ギリスはため息をついたが、行く宛がないわけではない。
ジェレフは、アイアランは施療院の預かりだと言っていた。さっきも気を失っていたのだから、施療院に行ったかもしれない。
とにかく施療院の者たちが、何かは知っているだろう。
ギリスは足速に王宮の廊下を去った。
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