042 忠誠

「サリスファー、よくやった」

 女どものたむろする区画を抜けて帰る途中、ギリスは荷物を持ってついてくるジョットを褒めた。

 エレンディラが寄越した新星への献上品だ。

 新星昇る。そういうめいらしいが、サリスファーがいなかったら、ギリスにとってはおそらく、何だか分からないただの美味い茶だったものだ。

 同じ茶の贈り物でも、それとこれとは大きな違いだった。

「それ、なんで新星昇るっていうの?」

 ギリスはそれを新星にくれてやる前に聞いておきたくて尋ねた。

 サリスファーは絹に包まれた茶入れを抱えて歩きながら、きょとんとして見えたが、ギリスが知らなくても、もう怒って驚きはしていないようだった。

 諦めたのだろう。物分かりの良いジョットだった。

「当代の族長が即位された折に調合されたお茶です。とても有名なものですけど、普通は玉座にまつわるお祝いの席でしか飲まれないものです」

「普通じゃない席って?」

「ですから聞茶ききちゃです。茶会で闘茶とうちゃをする時に、銘柄の組み合わせに出てくることがあります。僕もそこで偶然知ったんですから」

「運があるな、お前」

 ギリスはジョットを褒めたつもりだった。

 英雄に必要なのは運だ。養父デンもそう言っていた。

 そして運とは、どう足掻あがいて努力をしても、無い者には無いものなのだと。

 天使からの授かり物だ。

 そういう意味で言ったのだが、ジョットは分からないのか、困った顔で苦笑していた。

「そうですね。たまたま知らなかったら、兄者デンのお役に立つことはなかったです。僕は聞茶ききちゃは習い始めたばかりで、正直なところ、お茶もまだおもだった銘柄しか知りません。エル・エレンディラが僕の知らないような珍しいお茶を振る舞ってくださっていたら、きっとわかりませんでした」

「知ってたんだから、それでいいよ。十分だ、サリスファー」

 ギリスが微笑んで褒めると、ジョットはやっと理解したのか、照れたように茶入れを揉んで微笑んでいた。

兄者デンもやっと僕の名を憶えてくださったんですね」

「明日には忘れるけどな」

 ギリスがしれっと言うと、サリスファーはそれに衝撃を受けていた。

「えっ、今日だけなんですか!?」

「今日だけだ。もしお前が毎日新しい功労で俺を驚かせてくれたら、毎日お前の名前を憶えてると思うよ」

「ひどいな……」

 笑いながら、サリスファーはよほど可笑おかしいのか、軽く身を揉んでいた。

 ギリスはその笑うジョットを、淡い笑みで見つめた。こいつを今後どうしようかと思って。

「サリス、俺はこの後、銀狐エドロワばつのアイアランと約束がある。たぶん、その足で、晩餐に向かう新星の居室へやに迎えに参上するから、派閥や個人房へやには戻らない。だから、できればお前に用を頼みたい」

「できればって何ですか。何なりとお命じください」

 怪訝けげんな顔で、学房帰りの平服のままのジョットがギリスを見上げていた。

「僕は兄者デンジョットなんですから、用事を任されるのは名誉です」

 黙っているギリスに何か感じるのか、慌てたふうに言い添えるサリスファーは勘の良い子だった。

 しかし、まだ学房通いの餓鬼がきでは、できる用も限られている。

 ギリスは頭の中で考えをまとめる間、じっと黙ってサリスファーを見ていたが、考えてもしょうがないことだった。

 頼める相手が今はこのジョットしかいないのだから。

「新星の新しい居室へやを用意する。晩餐が終わるまでに。殿下は未だに子供部屋にお住まいだ。それでは成年の王族としての威厳を示せない」

 ギリスが用件を話すと、サリスファーは真面目な顔でうなずいて聞いた。

「お前は今から派閥の部屋サロンに走って、ジェレフを探せ。デンたちは、たぶんあのまま飲んでるはずだ。ジェレフが酔い潰れてなきゃいいが」

「エル・ジェレフは酒豪なので大丈夫と思います。いくらでも飲むと僕のデンが……エル・ユーレランが話しておいででした」

 気まずそうに言い直すジョットににやりとして、ギリスはサリスファーの肩を叩いた。

「それだけど。英明なデンのところに戻りたければ、戻っていい。派閥の部屋サロンに戻って、エル・ユーレランに叩頭して頼め。詩も詠まない馬鹿にはりしたから、戻らせてくれって、お前が泣いて頼めばきっと拒まない。お前は頭もいいし、礼儀もちゃんとしてる。側に置いて困ることはないジョットだったはずだ。戻ると言えば、ユーレランは二つ返事で引き取るよ」

 おそらくそうなるだろうと思えることを、ギリスはサリスファーに教えた。

 それでも納得いかないのか、サリスは淡くしかめた顔で、返事もなくギリスを見ている。

 本当にまだ餓鬼がきみたいなつらだった。

 これがあと何年かして、戦場で守護生物トゥラシェに追い回されれば、英雄の面構えになるのかもしれなかった。敵を憎む戦士の顔に。

 でも、このジョットたちには、そんな機会は永遠にないのかもしれない。ずっとこの幼い表情のままで生き、そのまま死ぬのかもしれないのだ。一生ずっと、一度も天使にそむかぬまま。

「行け。派閥の部屋サロンで、ジェレフに頼むんだ。スィグル・レイラス殿下の居室を今夜中にだぞ。酔っ払ってたら頭から水をかけてやれ。お前の氷結術でギンギンに冷やしたやつを」

 ギリスがそう言うと、冷水を浴びせられた泥酔のデンたちを想像したのか、サリスファーはこらえきれない抑えた笑みになった。

「嫌です。そんなことして、叱られるのは僕なんだから」

 サリスファーは抜け目なく言い、ギリスに持っていたエレンディラの茶入れをかかげて見せた。

「熱い茶を浴びせてやりますよ。新星昇る。これを長老会の女長デンから頂戴したって、皆に大声で話してから、用意したレイラス殿下の新しい居室にお届けしておきます」

 サリスが幼い顔で微笑んで、意地悪く言うので、ギリスは驚いて嘆息した。

 こいつ怖いな。

 おそらくこれが怖いという感情なのだろうと、ギリスは見当をつけた。

 ヤンファールで銀色の守護生物トゥラシェの群れを視界にとらえた時、ギリスは同じ気持ちがした。

 あれが楽園への門だ。自分は死ぬのだと思って、身が震え、えもいわれぬ高揚感に包まれた。

 それは死だ。皆が恐ろしいと言っている。

 それが自分にも怖くない訳はないと、ギリスは思ったのだ。

 茶入れを見せて微笑むサリスファーの顔を見て、なぜか同じ気持ちがした。

「かまいませんか、兄者デン

「好きにしろ」

 ギリスはうなずいて許した。サリスファーが己の意思でやることに、何の文句がつけられるだろうか。

 しかしその意味をジョットが知っているか、ギリスは気になり、もう走っていこうとしているサリスファーの背を引き留めた。

「おい待て、サリス。お前、今言ったこと、本当にやったらその後どうなるか、分かってるんだよな?」

 ギリスが尋ねると、茶入れを持ったジョットはまたきょとんとした。

「どうなるんですか?」

 不思議そうに聞いてくるサリスファーに、ギリスは痛恨の表情になった。

 おそらくこれが痛いという感情だろう。自分の様子が、いきなり足を踏まれた時のデンたちと似ている。

「どうって……お前、その茶入れを持って派閥に行ったら、お前は女英雄エルエレンディラの一味いちみだし、新星の一味いちみで……」

「僕はギリスの兄者デンジョットです。子供部屋の頃に一度、命を救っていただきました。御恩に報います。もう死んだ者と思って好きにお使いください」

 サリスファーは真面目腐ってギリスにそう言った。

 それが少々、詩を詠む者の芝居がかった台詞せりふに思え、ギリスは参った。

 うまい答えを思いつかない。詩伝しでんを極めた養父デンとはまだ、雲泥の差なのだから。

 困るまま自分の首を揉み、ギリスは困って首を振った。

「やめてくれ。そういうの。無理しなくていい。無理だったら言わなくていいんだからな? とにかくジェレフに新しい居室の件だけ、なんとかして頼んでくれ。あいつが腑抜ふぬけてなけりゃ、スィグルのために寝床ぐらいは作ってくれるはずだ」

「はい。承知しました。その後、どうしたらいいですか」

 その後?

 ギリスはジョットに問われて、さらに困った顔になった。

 自分がどうしたらいいかにも日々、苦慮くりょしているというのに、ジョットがどうするかまで考えてやらないといけないのか?

 頭の中が何かであふれそうになる。

「どうって……その後はもう晩餐だろ。時間的に……」

 そう言ってから、ギリスはハッとした。今、何時なのだ。

 アイアランは、エル・エレンディラの後でよいと言っていたが、それが何時とは言わなかった。

 どこで待っているのかも分からない。どうやって会うのか。

 それを考えると、こうしてはいられない気がした。銀狐エドロワの連中を探すところからなのだった。

「サリス。お前もちろん礼装は持ってるんだよな?」

「持っていますよ。エル・ユーレランが仕立ててくださいましたので」

諸々もろもろ終わったら、礼装して玉座の間ダロワージに来い。お前にその意思があるなら、お前を新星に目通りさせる」

「その意思って?」

 無表情に、サリスファーは問い返してきた。

 やけに鈍いなと思い、ギリスは首を傾げた。

「その意思ってなんですか。はっきり言ってください、そういうことは」

 真顔のまま、サリスファーは小突くような口調でギリスに求めた。言葉にしろと。

 ギリスはため息をついて顔をしかめた。何で急に面倒臭いやつになったんだよ、サリスファー。

「お前に新星スィグル・レイラス殿下にお仕えする意思があるなら来い。殿下に紹介する」

「帰還式の行列に兄者デンの筆頭のジョットとして、おそばに置いていただけるなら」

 ギリスがまだ考えてもいなかったことを、サリスファーは口にした。

 それが新星に仕える条件ということなのか。

 抜け目がないなと、ギリスは吹き出して苦笑した。

「筆頭もなにも、ジョットなんかお前しかいないんだよ。そのお前がそうかも、俺は今聞いてるんだぞ」

兄者デンは射手なんでしょう。それが本当なら、いずれはエル・イェズラムのように、この王宮の全ての英雄に君臨くんりんなさるかもしれません。その時に僕のことをお忘れだと困ります。毎日お側に仕えて、名前を憶えてもらいます」

「サリスファー」

 憶えてるだろと示す意味で、ギリスは相手の名を呼んでやった。それにサリスはにやりとした。

「その程度では信用できないですよ、ギリスの兄者デンは。僕の命を救ったこともお忘れだったわけですから。僕は忘れたことないですけどね?」

「馬鹿で悪かったよ」

「本当にそうですね」

 サリスは笑って答え、もう行くようだった。

「では晩餐のお席で。時機を見て、殿下にご挨拶にうかがいます」

 そう言い残して、サリスファーは足速に去っていった。

 走ってはならぬとしつけられる王宮の廊下を行くにしては、最大限の早足だった。

 あいつも時がないことを承知しているのだろう。

 ここでのんびり歩くようでは、使い物にならなかっただろうが、確かに聡明な良いジョットだった。

 ギリスは胸がもやもやした。

 たまたまギリスと廊下で久しぶりに会った程度のことで、サリスファーは新星の星図の中の星のひとつとして、今まさに組み込まれようとしている。

 それがすぐちるようなはかない星か、それとも永遠に輝く燦然さんぜんとした英雄の星になるのか、今はまだ全く予想もつかないが、とにかくそこにあることは、もう間違いがない。

 あいつは来る気だ。今夜の晩餐に正装して現れ、新星に忠義を約束して叩頭するだろう。

 それがもし、今朝の王宮の廊下でギリスに出会わず、声をかけていなければ、どうなっていたのか。

 それを思うと、あまりにも不思議だった。

 自分も子供の頃、ついてくるかと声をかけてくれたイェズラムにうなずいていなければ、おそらくもう生きてはいなかった。

 大人たちはギリスを殺す相談をしていた。

 どこか抜けており、反抗的で制御がとれないが、使う魔法は強すぎる。

 育てても幼少のうちに石が育ちきって死ぬかもしれぬし、手を掛ける甲斐かいがあるのかどうか。

 そういう話をギリスの値踏みをする係の誰かが長老会の者たちにして、ギリスを直に預かったことがある者たちは、こいつは手に負えぬ、殺したほうがよいと魔法戦士の重鎮デンたち話した。

 過ぎた魔法は身を滅ぼす。従わねば部族の災いにもなりかねないと、皆、暗い顔で相談していたが、イェズラムがギリスを預かると言った。その意思がギリスにあるならば。

 お前はどうしたいと、イェズラムはギリスに聞いてきた。

 忠誠か死だ。

 お前がもし今、氷結術で抵抗しても、お前の装填そうてんは遅い。勝てないぞと、イェズラムはギリスに指先に灯した魔法の火を見せて言った。

 死だ。それがギリスが見た、初めての自分の死だった。

 お前に忠誠心がなければ、今ここでお前の身を焼く。痛みはない。一瞬のことだ。

 俺は守護生物トゥラシェだって一瞬でこんがり焼けるのだ。

 どうする、エル・ギリス。英雄になりたいか。それとも英雄の火で死んで、今すぐ楽園に行くか。

 養父デンは笑顔で幼いギリスを脅し、選ばせた。英雄としての一生のほうを。

 そうする以外にギリスには生きる道がなかった。

 やんわりと何も言わず、顔をしかめるだけの大人たちより、イェズラムの話は分かりやすかった。

 どんなに優しく言われたところで、状況は変わらない。忠誠か死。それが英雄たちの一生だ。

 自分はそういう星のもとに生まれついたのだ。嫌だろうが、嬉しかろうが、天使の決めたことだ。

 ギリスはイェズラムについていくことにした。そむいたことは一度もない。

 それが養父デンが自分を焼く魔法を知っているからではなかったと思いたい。

 たまたまだ。

 イェズラムはギリスにいつも優しく、居所と寝床を与えてくれた。時々はお菓子も。

 そして養父デンは様々な役立つことをギリスに教え、最後には身をもって示した。忠誠と死を。

 その意味をいまだに飲み込めないが、今も噛み続けている。

 長い咀嚼そしゃくを続ける日々の中で、ギリスにも何となく飲み込めてきたものがある。

 忠誠とは愛だ。理屈ではない。

 ギリスがイェズラムに逆らわなかったのは、その必要がなかったからだ。

 養父デンはいつも優しく、ギリスが理解するまで待った。

 そういうエル・イェズラムを、自分はおそらく深く尊敬していた。他の気短で高圧的な大人たちとは違う者として。

 皆が心ならずも死ぬこの王宮で、死ぬか生きるかさえ、ギリスに自由に選ばせてくれたではないか。

 そういうイェズラムのことが、ギリスは単純に好きだった。

 好きだったのだ。

 ギリスは新星のことも、好きだった。

 なぜかは分からないが、人好きのするジョットで、納得のいかないことは多いのに、側にいると楽しかった。

 あの一夜、自分が殴ったギリスの頬の打撲を治癒術で直しながら、新星レイラスは暇だと思うのか、どうでもいいような話をずっと喋っていた。

 夜空に見えていた星の名前とか、伝説に名だたるドラグーンたちのこととか。

 全ての民を故郷へ導くという母なる星パスハは、海辺の民の言葉では竜の目アズガン・ルーというのだとか。

 砂漠の砂って何個あるんだと思う?

 新星がそう言うので、ギリスは困惑した。

 喋りながら下手な治癒術をふるうせいで、新星が施術に集中せず、一向に治らないことにも動揺したが、砂漠の砂を数える奴がいるというのにも動揺した。

 そんなもの、一生かけても数え終わるはずがないではないかと思う。

 しかし新星は概算できると言っていた。

 まず決まった小さな箱に詰めた砂の数を数える。しかるのちに砂漠地帯全土の測量をして、透視術師に砂の深度をはからせ、全ての砂漠の砂の容積を割り出せば、砂粒の数もおよそわかるというのだ。

 でもそんなものは正確ではない。厳密には、個数は数えてみなければわからないではないか。

 ギリスがそう言うと、新星レイラスは輝く黄金の目でにやにやして、得意げにギリスに命じた。

 それじゃあ、僕の計算が間違っているかどうか、お前が砂漠の砂粒を全部数えて確かめてみてくれ。

 もし間違っていると判ったら、僕は潔くお前に叩頭して降参するよ、と。

 それが何百年先のことか、分からないけどねと言って笑う新星レイラスのいけ好かない顔が、ギリスはなぜか好きだった。

 それが忠誠かといえば、今はまだわからない。

 あれが本物の星か、確かめられるのはまだ先のことだろう。

 しかし今日一日を仕えるのも嫌だということはない。今日の忠誠は今日、もう尽くした。今も尽くしている。

 それなら自分は今日は、新星レイラスの英雄だろう。

 それも毎日問えばいい。お前は今日も新しい星かと、第十六王子スィグル・レイラスに。

 それが自分の一生の役目ではないかと、ギリスには思えた。

 そうでなくとも、どうせ、忠誠か死だ。死ぬよりはマシだ、あの我儘で凶暴な殿下に仕えるほうが。

 生きている英雄になるほうが、死んでいるより、ずっといい。

「アイアラン……」

 ぼんやり考えに沈み込んでいた自分に気づき、ギリスはハッとして、その名を呟いた。

 銀狐エドロワたちを探さねばならない。

 彼らの派閥がどこに部屋サロンを持っているのか、ギリスは知らなかった。

 それも賢いジョットに聞いておくべきだったのに、サリスファーはもう用事に走らせた後だ。

 抜かったなと、ギリスはため息をついたが、行く宛がないわけではない。

 ジェレフは、アイアランは施療院の預かりだと言っていた。さっきも気を失っていたのだから、施療院に行ったかもしれない。

 とにかく施療院の者たちが、何かは知っているだろう。

 ギリスは足速に王宮の廊下を去った。


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