041 新星昇る
「俺もその件で来た」
「話が早いわ」
そう言って、エレンディラは帯にある煙管入れから自分の煙管をとり、円座のそばに用意されていた煙草盆から火を吸った。
女英雄が優雅に吐く薄紫の煙からは、ギリスも知る
「行列の先導をする
「は?」
考えてもみない話で、ギリスは驚いた。
だが改めて思えば、考えてもみない話でもなかった。深く考えていなかっただけで、ギリスはその役目を自分がやるのだと思い込んでいたのだ。
だって、スィグル・レイラスは新星で、自分はその射手なのだから、帰還式には同行するだろう。
殿下の
「俺じゃないの⁉︎」
ギリスは驚くままに声を裏返して聞いた。エレンディラは煙管を吸いながら、じっとりとギリスを見てきた。
「あなたみたいな若輩者が、イェズラムと
「ジャンケンで決める?」
ギリスは最大限に譲歩したつもりで言った。
サリスファーが隣でビクッと震えた。
そして何か言いたそうに口を開けてギリスを見たが、何も言えなかった。
「いいわね。運を試す?」
蛇と鷹と将軍。
皆が子供時代にやる遊戯だ。将軍は鷹に
それぞれの
エレンディラは煙管は吸っているものの、吸い慣れた
だが、やると言うなら立たねばならない。座っていてはできない遊びだ。
ギリスが円座から立とうとするとエレンディラが鋭く言った。
「冗談です。本当にやるわけないでしょう。そんな大事なことを蛇や鷹や将軍が決めていいと思っているのですか」
ビシビシ
「英雄が決めるのよ、エル・ギリス」
やむを得ずギリスはまた円座に腰を落とした。
ギリスは蛇を出す気でいたが、エレンディラは一体何だったんだろうか。
「先導役はあなたがやりなさい。理由は二つです。今この状況では、長老会の
エレンディラはすらすらとギリスに教えた。
「行きは炎の蛇、帰りは氷の蛇よ。リューズ様も文句はないでしょう」
「でも族長は、あんたがやれと命令したんだろう。
ギリスは尋ねた。女英雄は涼しい顔をしていた。
「
「族長はお間違えになってんのか」
「今はね。長老会が殿下のなさりようを
ふぅ、と細く煙を吐いて、エレンディラは言った。
「まだね」
微笑んで念押しするエレンディラに、ギリスは顔を
「どういう意味」
「あなたっていちいち説明されないと分からないのね。大丈夫なの、それで? イェズラムみたいになれそう?」
エレンディラがさらりとキツいことを言うので、ギリスは
「教えてください……」
史学の
それを女英雄は苦笑して見ていた。
「私たちは皆、死ぬわ。いずれ皆が美しい伝説に変わる。死せる英雄は便利なものよ、永遠に死んでいて、玉座にも何も文句を言わない」
エレンディラは煙管の吸口を噛みながら、静かにその話をした。
「あと十年待ちなさい、うるさい連中はきっともう死んでるわ」
吸い終えた灰を煙草盆に打ち落として、エレンディラは
「イェズラムもそうでしょ。あの人はもう
エレンディラは微笑み、煙管の先でギリスとサリスファーを交互に指した。
「けど、あなたたちはまだ生きてるんじゃない? どの星がいいか、あなたたちが決めたらいいのよ」
女英雄にも何かの心残りがあるのだろうか。
「ところで、それは何を持ってるの、エル・ギリス」
ギリスの横にあった包みを煙管で指してきて、エレンディラは好奇心の強そうな目で聞いた。
本当はずっと気になっていたらしい。
ギリスは包みを解いて、額装の絵をエレンディラのほうに向けて渡した。
「おやまあ」
あまり驚いていない口調で言って、エレンディラは絵の中の
「似てるわね」
びっくりしたと目を丸くした顔で、エレンディラはギリスに同意を求めてきた。
その通りだったので、ギリスはエレンディラに頷いて見せた。
「これ。殿下がお描きになったのよね。スィグル・レイラス殿下が」
エレンディラがそれも言い当てたので、ギリスは驚いた。
なんで何もかも知ってるんだろう。この女は。
そう言う顔で見るギリスにくすくす笑って、女英雄は少し待つように指先をあげてギリスを座に留まらせ、客間と思われた派閥の部屋の壁にあった、
美しい布地が飾られているのだと思っていたが、それは絵の覆いだったらしい。
エル・エレンディラが
その絵にも一度折り畳まれた折り目がついており、それを丁寧に広げて額装したものだった。
あいにく美しい刺繍は四隅になかったが、ギリスがよく知る人物が描かれていた。
エル・イェズラムだ。
円座を枕に昼寝をしている。
服装も平服で、特に華麗でもなく、勇姿でもなかった。
いつも派閥の
背景にかすかに描かれた壁画の意匠から、そこが
「似てるでしょう。これも。あの人が子供時代の殿下から
「これ、派閥の部屋だよね。王族の殿下が、どうやって入ったの」
見ないで描いたとは思えないほど
「どうやって入ったんだと思う?」
エレンディラは謎かけのように聞いた。見当がつかず、ギリスは首を振った。
「簡単なのよ。控えの
「
「どこへでも忍び込む子なのよ」
ギリスは新星にそんな性癖があるとは知らなかった。
そういえば
「あの殿下をお
席に戻ってきて、エレンディラはギリスが座の中央に差し出したまま置かれていた、新しい絵を伏目に眺めた。
「いい顔してるじゃない?」
「イェズが男前だってこと?」
「違うわよ、表情のこと。あの人、こんな顔するの?」
エレンディラは見たことがないのか、不思議そうに絵の中のイェズラムを見ていた。
「するよ。イェズラムは褒める時、いつもこういう顔するじゃん」
「あいにく、あの男はわたくしのことは褒めないの。ずっと憎まれ口ばかりよ」
「嫌いなの、イェズラムのこと」
ギリスはそうなのかと心配して聞いた。イェズラムが嫌いだという者に会ったことがないが、この世に一人ぐらいはいるのかもしれない。
だが女英雄は面白そうにギリスを見て、そして絵の中のイェズラムを見た。
「そう思う?」
エレンディラは絵を受け取って、自分の膝に乗せ、しげしげと眺めている。
「いい絵ね。この人も死んでさえいなければ、もっといい男なんだけど。わたくしは死せる英雄は大嫌いです。イェズラムも生きていた時のほうがずっと良かったわ」
「俺もそう思うよ」
ギリスは女英雄に同意した。
「この絵はわたくしがもらうわ。ありがたく自分の
エレンディラはそそくさと絵を自分の座の背後に引っ込めた。
いい絵だったのに惜しいことをしたと後悔しながら、ギリスはそれをエレンディラにやることにした。
誰でも褒める男だったイェズラムに褒められたことがないなんて、気の毒な女英雄だ。せめて絵ぐらいあってもいいだろう。
「イェズラムは今どこにいると思う?」
ギリスはエレンディラなら知っているのではないかと思い、試しに聞いてみた。
「どこ、って? 墓所にいるでしょう」
「そうじゃなくて、楽園に逝ったと思うか。まさか地獄に
ギリスは心配して聞いたのだが、エレンディラはまた仰け反って笑っていた。
「楽園にいるに決まってるでしょう」
それを僅かも疑っていない様子でエレンディラが言うので、ギリスは首をかしげた。
「そうかな」
そうだといいがと思うが、ギリスは不安だった。
生涯、戦い続け、部族に多くの
でもそれは、神殿の天使が求めるものとは違ったのではないのか。
「ギリス。あの人が楽園に逝けないのなら、誰も逝けないわ。あなたも、わたくしも、きっと無理でしょう。でも、イェズラムがいつも望んでいたのは、死後に楽園に逝くことではなく、生きてこの世に楽園を築くことよ」
「生きてこの世に? その楽園てどこにあるんだ」
ギリスは不思議で、エレンディラに聞くしかなかった。
「たぶんここよ。麗しのタンジール。あなたがイェズラムのその仕事を引き継ぎなさい」
エレンディラが話し終わると、戸口から目配せしていた女派閥の
それには丸めて作った団子のようなものが、ころころと五つ乗っていた。
ギリスはそれに見覚えがあった。砂牛の乳のチーズと、炒った豆の粉と、蜂蜜などを混ぜて団子にしたものだ。
本来は乾かしてあってカチカチだが、蒸すか湯に通すかして温めて食う時もある。
味は決して
王宮の
ギリスにはそうだった。
しかしエレンディラはそれを嬉しそうに食っていた。
ギリスとサリスファーにも同じものが振る舞われ、
「美味しい?」
とにかく、作法の許す範囲でがつがつ食っている
「美味いわけないよ。これ
「あら。
「食えないよ。乾いてる時のこれ、水なしで食ったら死ぬような食いもんだ」
「おかしいわね。すごく栄養があるのに」
エレンディラはもぐもぐと団子を噛み締め、神妙な顔をしている。
「なんでこんなもん食べてるの。何かの誓いを立ててる日なのか?」
「わたくしの夕食はいつもこれよ」
「晩餐まで我慢できないの?」
びっくりしてギリスは聞いた。こんな細っそりした女が、夕食に兵糧を食って、さらに
「晩餐はなるべくいただきません。ご馳走に慣れると戦場が辛いでしょう」
微笑んで言うエレンディラの話に、ギリスはぐっと来た。
確かに戦場は辛かった。美味い飯など一度も出なくて。
それでも文句を言うまいとヤンファールではギリスは耐えたが、戦は好きではなかった。
王宮で美味い飯をたらふく食らっていたい。
しかし英雄たるもの、耐えるのみだと思って、ヤンファールでは毎日を耐えた。
耐えている時点で自分は弱かったのだ。エル・エレンディラは不味い飯をものともせず笑顔で食っている。
「ずっとこうなの?」
「ずっとこうです。
懐かしげにエレンディラは言って、何もない空中に死せる英雄たちを見ている目をした。
おそらくギリスは一目も見たことがない、
エレンディラの
エレンディラはそれをゆっくり飲むようギリスに勧めた。
その茶はあまりにも熱いのでと、女英雄は言って、ギリスは横で飲むサリスファーの作法を見様見真似でちびちび飲んだが、来訪の歓迎に出されたお茶とは別の味がした。
甘く、そして微かに渋くもあり、最後に清涼な香草の爽やかな匂いがした。
ギリスはこのお茶を気に入った。
サリスファーも気に入ったのか、なぜか泣きながら飲んでいる。
泣くほど美味いだろうかとギリスは気味悪く
こいつも英雄である以上、まだ若年でも少々おかしいのかもしれなかった。
それを
「新星
「ぼけっとしないでください。このお茶の銘ですよ!
「どういう意味?」
ギリスが
「いいのよ、賢い
エレンディラはこの出来事が後日、宮廷詩人によって詩に詠まれるだろうと言った。
この場に詩人は誰もいないのにと不思議に思ったが、偶然にも詩作をする
歴史はそうやって記録されるものだとエレンディラは言った。
誰かが語り伝え、詩人が詩に
去り際、エレンディラは今日振舞ったお茶をスィグル・レイラス殿下に献上せよと言ってギリスに持たせてくれた。
エレンディラが今宵の晩餐の席で、族長にも
もちろん族長が、その茶の銘を知っていればだが。
「殿下にエレンディラがよろしくと申していたと伝えてちょうだい。絵のお礼を申し上げて」
ギリスに
「感謝の印に、殿下に念動術師をひとり貸してもらえないか?」
ギリスは部屋を辞す前に、ふと思い出してそれを頼んだ。
だが、どうしてもあの黄水晶の娘の名前が思い出せない。
いくら考えても思い出せなかった。
「エル・フューメンティーナです、
ずっと黙っていたサリスファーが、やっぱりなという暗い顔で伝えてきた。
「多分それだ! お前よく一回聞いただけで憶えられるよな」
心底感心して、ギリスは
「ほんとね。あなたには必要な
エレンディラも感心したようで、しきりに頷いていた。
「念動術師は手配しましょう。エル・サリスファー、あなたもギリスを手伝ってあげてね。玉座もきっと、あなたの尽力に深く感謝なさいます。新星の御世の、
そう言ってエレンディラがサリスの肩をぽんぽんと叩くと、
顔を紅潮させ、心なしか足がよろめいている。
エレンディラの雷撃の攻撃範囲に入ってしまったみたいだ。
「お優しい
エレンディラの優しげな美しい容姿にだまされぬよう言っていたのは、確かこの
まあいいかとギリスは笑った。
女英雄のくれたお茶の爽やかな甘い味は、その後、長くいつまでもギリスの
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます