040 エレンディラ
よその派閥に立ち入らぬのは、英雄たちの男も女もない文化らしい。
二言三言、小声で戸口の相手と言葉を交わし、形ばかりの一礼をギリスに見せてから、とっとと消えた。転移術ではなく、歩み去ったのだが。
エル・エレンディラの派閥の
「ようこそ、エル・ギリス。歓迎しますわ。わたくしたちの
中に入れと奥を示して、ギリスたちを引き入れた割には、叩頭して入った奥の客間はからっぽで、誰もいない上座に赤い花の刺繍がされた美しい円座の空席があるだけだった。
そこの下座に座らされ、ギリスとサリスファーはしばらく待った。
その間に、小さな茶器で一杯の熱い茶が振る舞われた。
サリスファーはそれを作法があるらしい、独特の所作でちびちび飲んだが、ギリスは喉が乾いていたので一口でがぶっと飲んだ。
おそらく舌を焼いた。おそろしく熱かった。
「
驚いた小声でサリスファーが聞いてきた。
平気なわけがない。ギリスは茶器を持ったまま、舌を出して外気で冷ました。
サリスファーはそれを苦笑で眺め、自分はちびちび飲んでいた。
「美味しいですよね。このお茶。さすがだなあ。調度品も上品だし。この茶器も、すごく古いものですよ」
「新しいのを買う金がないのか、この派閥には」
「冗談で言っているんですよね?」
サリスファーは真顔で確かめてきた。
ギリスは押し黙った。ここではなるべく何も言わないほうが賢い気がした。
「英雄来たる、ですよ」
サリスファーが小声でギリスに教えた。
「誰が来たんだ?」
「そういう茶の銘柄の名前ですよ。これ。派閥で定番のやつです。とりあえず歓迎されています」
「そういうこといちいち考えてて、疲れないのかお前?」
ギリスは感心して
サリスファーはなんとも言えない顔をしていた。
英明なる紺碧の
気の毒なことをした。こいつにはエル・ユーレランの死水をとる任務のほうが合っていたかもしれないのに、こんなことに巻き込んでしまった。
さっき王宮の廊下で、
ああいうのにサリスファーは全く向いていないだろう。茶を飲むのは上手だが。
「遅いですね、エル・エレンディラ」
「暇な女じゃないんだよ」
ギリスは退屈で、古い茶器に残っていた熱っぽい歓迎の茶の匂いを嗅いだ。
麦を焼いたような、香ばしい匂いがする。花のような匂いも。
それがなぜ 『英雄来たる』になるのか、ギリスには全く分からないが、とりあえず憶えるしかないだろう。
ギリスは鼻が利くほうだった。必要なら憶えられるだろうと思った。
即興で詩を詠むよりはまだ、やってやれないこともない。
そのまましばしの時が過ぎ、やがてサリスファーがそわそわと焦れ始めた。
待つのは苦手らしい。
「どうしたんだよ。じっとしてろ」
「すみません。足が痺れて。それにお腹も空きました」
「昼飯食っただろう」
ギリスが呆れて言うと、空腹だという
「食ってませんよ。
「なんで食わないんだよ。そこらじゅうに食い物があっただろう」
「そんな雰囲気じゃなかったでしょう。偉い
「食い物より大事なことなんか無いぞ、サリス。それだけは憶えとけ」
ギリスは心底から
それは大英雄イェズラムも言っていたことだ。どんな時でも飯だけは食えと。
「そんなことないでしょう。食い物以外にも、大事なものだらけですよ。食べていいような雰囲気じゃなかったんです」
口を尖らせてサリスファーは言い、確かに飢えたような青い顔色だった。
やれやれとギリスは思った。
「お菓子、二箱あるんだし、一個食えば?」
「冗談ですよね」
サリスファーは鋭く小声で聞いてきた。
「いや本当に。お前がエレンディラの
「死にません。不死身ですから」
サリスファーはきっぱりと言った。それにギリスはふふふと笑った。面白い奴だ。
そうしてギリスが笑っていると、部屋の扉が急に開いた。
先触れもなく、いきなり女派閥の
「ごめんなさいね、エル・ギリス。お待たせして」
平服の
誰にも叩頭する必要のない、エレンディラはこの派閥の頂点にいる者だ。戸口で立ち止まる気配もなかった。
こちらが叩頭して出迎える立場だ。
ギリスは教えられた通りの深い座礼でエレンディラを迎え、サリスファーも慌てたように深々と叩頭した。
「お連れがいたとは」
花の刺繍の円座に座り、エレンディラは踊るような軽い身のこなしだった。まるで体重などないように見える。
それでも、ギリスが顔をあげると、重たげな赤い石の花冠を、結い上げた髪のつややかな頭のぐるりに帯びていて、エレンディラは長老会の
それにしては、ずいぶんにこやかな
「お友達?」
サリスファーを見て、エレンディラは軽やかに聞いた。
「いいえ……
美貌の女英雄に気圧されているのか、サリスファーはやけに
さっきまで青い顔をしてたくせに、赤い顔をしている。何に照れているんだとギリスは
「
それの何が
「面白いわ。よかったですね、ギリス。
「そんなのいいから、さっそく要件から話してくれるか」
ギリスは困って、エレンディラに頼んだ。もうずいぶん待たされた気がする。
この後、
女英雄に使える時間がどのくらいあるのやら。
「まあそう言わず。食事をしてもいいかしら」
にっこりとしてエレンディラは聞いてきた。
ギリスは呆れた。今は、昼でも晩でもない。飯を食う時間じゃないはずだ。
「お菓子持ってきたから、腹減ってるなら、これ食っとけば? こいつも腹減ってるらしいから、食わしてやって」
ギリスが
「悪いのですけど、わたくしお菓子はいただかないことにしています」
「なんで」
「習慣です。わたくしが嫌いなある人物が、いつも馬鹿みたいに着飾って皆で菓子など食っているから戦に出遅れるのだと言ったので、腹が立って、それ以来お菓子を食べない誓いを立てています」
「それ誰」
「あなたもよく知っている人です」
イェズラムとしか思えなかった。
ギリスは自分が座る円座の脇に置いて待たせている絵に、そのイェズラムが描かれていることを思った。
大丈夫なのか、この女にその絵を見せて、本当に?
怒り出したりしないだろうな。菓子も食わないと言っている。
そういう理由で菓子を断っている奴のところに菓子を手土産に持ってきたのは、馬鹿だったのではないか。
「でもせっかく持ってきていただいたのだし、見てもいいかしら。わたくし、お菓子を見るのは大好きよ」
にっこりとして、エレンディラはギリスの横に座るサリスファーを見た。
菓子の包みを開けて見せろという意味だろう。菓子の箱がサリスの脇にあった。
サリスファーは箱を開けていいのかと、戸惑う目でギリスに目配せしたが、開封するしかない。この場で一番序列が高い
サリスファーは厳かに菓子箱の包みを開き、まず大きい方の箱を開いて
おそらく、アットワースの砂漠の
「あらぁ、アットワース」
よっぽど有名な菓子商なのか、
「ありがとう、エル・ギリス。
「俺じゃない、こいつが用意した」
ギリスが横にいるサリスファーを視線で示すと、菓子を引き取ったエレンディラは箱の蓋を閉めながら、うふふと笑った。
「あなたの
エレンディラはギリスに言ったが、サリスファーが恐縮していた。
褒められたと思ったのだろう。エレンディラはその
「もうひとつは何?」
サリスが持っていたもうひとつの小さな包みの方を、エレンディラは興味深げに見ていた。
砂漠の薔薇が詰められていた箱と比べると、小さな箱で、包みを解くとずいぶん質素だった。
サリスファーがその箱を開いて見せると、ギリスには黄土色の細かい砂のようなものが入ってるのしか見えなかった。
一瞬、本当に砂が入っているのかと思えた。
エレンディラは真顔になり、その箱を受け取った。
「懐かしいわ。これを食べるの面倒なのよね。散らかるし……」
エレンディラは美しく塗られた爪で、つつくように箱の中の砂を探っていた。
そして女英雄が摘み出した指先に、砂色の小石のような、小さな塊があった。
エレンディラはそれを
食べないと言ったくせに食っている。
「お菓子じゃないのか、それは」
ギリスが聞くと、エレンディラは白い手で自分の口を覆って、もごもごと答えた。
「市井の駄菓子よ……」
喋ると砂塵のような粉がエレンディラの口元に吹き出し、無作法と思ったのか、エレンディラは笑いながら
その布切れの隅にも、赤い花の刺繍があり、紫水晶の欠片が添えられている意匠だった。キーラの言う通りだ。
「失礼しました。これ、食べると飲み込むまで話せないの。食べる?」
エレンディラは気さくにギリスに箱を差し出してきた。
「昔、流行ったのよ、この宮廷で。食べながら粉を吹かずに好きな人の名前を言えたら、想いが通じると、派閥の皆が言っていました」
「好きな人の名前を言ってみて」
命令としか思えない口調でエレンディラが要求した。
「いない……」
ギリスは正直に答えた。その話にも口から粉が噴き出した。
味わってみると、煎った豆の粉だ。それを水飴で固めた塊が埋めてあり、噛むと歯にくっついた。
「変わった名前の方ね」
エレンディラは微笑みながら意地悪そうに言った。
「いないって。好きな人はいない。
「あいにく私もいませんでした」
「嘘だろ」
ギリスは指摘したが、エレンディラは動揺もなく完全に無視した。
「でもこのお菓子が好きだったの。味がね! あなた史学の
エレンディラは含みのある表情でサリスファーを見た。
「
「イェズラムだろ」
ギリスは堪えきれず言った。
それを女英雄がじろっと見た。
「あなたの
「俺に怒らないで……」
ギリスはまだ噛み終わらぬ水飴を噛みながらエレンディラに頼んだ。
「何の用なの」
微かに苛立った様子でエレンディラは聞いてきた。ギリスは困惑した。
「あんたが呼んだんだろ」
「そうだったわ忘れてた」
真っ赤な顔になり、エレンディラは頭痛がするのか片手を額に添えて苦しんでいた。
長老会の
「施療院に行く?」
「うるさい子ね、わたくしは元からこうなのです!」
エレンディラはきっぱりと言った。
「動揺して本題を忘れていました。あなたと相談したいことが。それで呼んだの。スィグル・レイラス殿下の帰還式の件です。もちろん承知でしょうね」
エレンディラは派閥の
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