035 兄《デン》たち

「帰還式……」

 ジョットの急な懇願こんがんを受けて、英明なる紺碧のユーレランはぽかんとして見えた。

 その隣で酒杯をあげていたジェレフも、彼の友、慧眼けいがんなる灰色のダージフも、ぽかんとしてジョットたちを見ている。

 ギリスは麦酒壺を抱いた隣のデンが眠りはじめ、自分に寄りかかってくるのを重たく感じながら、遠目にジェレフたちの席を見つめた。

 急な話だ。

 ジェレフは昨晩のうちに皆に話して、もう断られたようだった。

 終わった話だ。おそらく、デンたちの間ではそうだったのだろう。

 ぽかんとした後、皆いっせいに暗い顔をした。場違いな汚物でも酒席で持ち出されたような。

「サリスファー。なぜお前がそんな話をここでするのか、俺にはわからないが。場をわきまえろ。エル・ジェレフの旅の無事を皆で祈るための席だ」

 真面目くさった顔で、英明なる紺碧のユーレランが言った。

 穏やかで優しい声だったが、そう言われて、気の毒なジョットは言葉に詰まったようだった。

 おそらくは、先ほどギリスが頼んだことを、さっそく実行に移そうとしたのだろう。

 この席で英雄たちが帰還式への列席を二つ返事で引き受けたなら、それは話が早い。そうであればギリスには何の文句もなかったが、今は笑顔で飲んでいるデンたちにも、腹に抱えるものはある。

 それぞれ、思惑は違うが。

「いや。いいよ、ユーレラン。皆で飲んでるだけじゃないか」

 苦笑して、ジェレフがいかにも構わないというふうに気さくに言った。

 ジェレフも、ここで皆が万が一、うまく懐柔されれば都合がいいと思ったのだろう。

 甘いデンだ。そんなものがタダで買えるとは、ギリスは思っていなかった。

「ジェレフ。俺のジョットだ。口出し無用に願うよ」

 硬い表情でユーレランは答えた。

 見たところ、その英明なデンの額の石は、そう大きくは見えなかった。

 ジェレフのほうが症状がひどく見える。額の半分を覆い、側頭にも現れた薄い紫色の水晶のような石が、ジェレフの頭を貫いているように見える。

 それで生きているのは不思議だと思うが、年長の英雄たちは案外平気で生きている。

 エレンディラも頭部のあちこちに赤い石を生やしているし、亡き養父デンも、片目を奪うほどの重たげな石が、まるで祝祭の仮面のように横顔を隠して見えた。

 はっきりとは誰も言わないが、英雄は、石が外に向かって生育した者のほうが長生きする。

 いくら魔法を使っても、表面上は石が大きくなって見えない者のほうが、着々と石に命を奪われているのだ。

 ヤンファールの後も、養父デンは王都に帰還したギリスをすぐ透視術師にさせた。

 見かけ上の額の石が、さほど育っていなかったからだろう。

 養父デンはギリスの頭の中が、氷のようにも見える乳白色の竜の涙でいっぱいになっている悪夢を見ていたのだ。

 でもそれはただの悪夢だった。現実ではなかったのだ。

 ギリスは我が身には些少さしょうの被害だけで、イェズラムに匹敵する大魔法を振るったことになる。

 それを皆は様々に受け止めた。

 養父デンは喜んだが、でも、皆はどう思ったか。それをギリスは身をもって知ったが、養父デンには言わなかった。

 王宮の狭い通路で理由もなく殴りかかってくる者たちが、皆の出したギリスへの答えだ。

 お前を許さないと、皆は言っている。

 わずかの魔法を振るっただけで、石に押しつぶされて死ぬ者がいるのに、どういうことだと言いたいのだろう。ごまかした代価を体で支払えと。

 そんなことは、ギリスには知らぬことだった。理由を知りたいなら、死の天使ノルティエ・デュアスに聞いてほしい。ギリスのせいではなかった。

 しかし、この英明なる紺碧のデンも、ギリスには言いたいことがあるだろう。

 エル・ユーレランの石は小さく見えた。品よく形の良い濃い青の暗い石が、王族の額飾りのように、額の真ん中にぽつんとあるだけだ。残りの石は全て、彼の頭の中にある。

「サリスファー。昨夜のことで、お前にはまだ教えていなかった。済まなかったよ。だが、この派閥からは、殿下の帰還式に列席を希望する英雄エルはいなかった。俺もそうだ。なぜかは聞かなくても分かるだろう。お前は人よりずっと聡明な子なのだから」

 聡明だとデンに褒められて、翡翠の子サリスファーは暗い顔をした。

 さっきはギリスに氷結術を褒められて、あんなに嬉しそうだったのに、気の毒なことを頼んだなと、ギリスは反省した。

 これもジョットたちには、まだ荷の重い役割だっただろう。英名なるデンがどんな奴だか、ギリスは知らなかったのだ。

 まさかスィグルを恨んでる奴とはな。

「申し訳ありませんでした、兄上デン。軽率でした」

「軽率に何を考えたんだ。話してみろ」

 すぐには許さず、英名なるデンはサリスファーに説明を求めていた。

 ジョットがただ平伏して引き下がるかと、ギリスは思い、食膳に添えられていた野菜を食っていた。まだ腹が減っている。隣の前にあった別の料理も食おうかと思案していた。

兄上デン英雄譚ダージに添える新しい物語うたになるかと思ったのです。スィグル・レイラス殿下は、人質におなりになるとき、大英雄イェズラムの先導で王都を出立されました。エル・イェズラム亡き今、その帰還を迎えるにふさわしい、亡きデンに匹敵する英雄はいません。その役目を仰せ付かるのは名誉なことです、兄上デン。後の世にはきっと、エル・イェズラムと並び称される英雄になれます」

 悲壮に青ざめた顔で、翡翠の子サリスファーデンたちに力説していた。

 その考えはなかったな。ギリスは香辛料と塩の効いた油で和えてある、しゃきしゃきした野菜を噛みながら、ジョットの聡明さに感動していた。

 それは確かに大した名誉だ。行きはイェズラム、帰りは別の大英雄と、詩人は歌うかもしれぬ。いい塩梅だ。

 英雄譚ダージとはそういうものだ。宮廷詩人たちが作る、虚構の歌だ。

 だが民は、大抵はそれを真実と受け止める。

 それに気づいたのは当代の族長なのだそうだ。養父デンがそう言っていた。

 英雄譚ダージは嘘で良い。事実を超える美しい嘘ならば、それで良いと、リューズ・スィノニムが言ったと、養父デンはギリスに話していた。

 だが、英雄譚ダージは嘘であってはならぬと、イェズラムは言っていた。

 嘘の話には、民は涙を流したりはしない。まして命懸けで戦う兵士を鼓舞する歌は、本物でなくてはならないのだ。

 だから英雄譚ダージは血を吸っている。英雄たちの。あるいは王族たちの。

 ほとんどが華々しい戦場の物語で、そこでは次々と敵がたおれ、味方もたおれた。

「サリスファー」

 苦笑した表情で、英名なるデンジョットの顔を眺めて言った。

 ジョットの顔の、一体何を見ているのだろうかと、ギリスは不思議に思った。

「お前みたいなチビでも、英雄エルなんだな。英雄譚ダージが欲しいのか」

「もちろんです!!」

 勢い込んで、翡翠の子サリスファーは答えた。デンたちの座る膳に膝が当たりそうに詰め寄り、それが当然だと強く訴える気配だ。

 それに英名なる紺碧のユーレランは、ふと、可笑おかしそうに小さく吹き出して笑った。

「ジェレフ。俺のジョット英雄譚ダージを得る方法を教えてやってくれ」

 もう自分では言わない気なのか、エル・ユーレランは箸をとって、自分の膳に残っていた料理を口に入れていた。

 話に巻き込まれ、ジェレフは困った顔をしている。

 つくづく何かにつけ、人に言われると嫌とは言えないデンだった。

 そんなことだから、ジェレフは無駄に英雄譚ダージと石を肥やすのだ。

 ヤンファールの時も、ジェレフは王子二人の救出は命じられたが、ギリスを生かして連れ帰れとは命じられていなかった。主だった司令塔の守護生物トゥラシェたちを、ギリスが氷結魔法の射程内にとらえるまで、援護しろと命じられただけだ。

 ギリスがその後、死のうが生きようが、デンには関係がなかったはずた。

 それでもギリスが化け物に蹴っ飛ばされて吹っ飛ぶと、デンは血相変えて馬ですっ飛んできて、自分の命を削る治癒術で、ギリスのちぎれた足を繋いでくれたのだから、まさしく命の恩人だった。

 そこで終わる命だったとギリスは覚悟していた。

 それでも良かったのだ。もう守護生物トゥラシェを十四体も倒した。

 これで自分も、炎の蛇と並び称される英雄譚ダージを得られるだろう。

 楽園にくのだ。そこでデンたちを待つ。

 く順番が狂ったが、死の天使は気まぐれなものだ。

 しょうがないのだと、その時は思った。

 しかしジェレフは死の天使の上前をはねるので、きっと天使は怒っているに違いない。

 それとも、よほどデン死の天使ノルティエ・デュアスの寵愛を受けているかだ。人の死を左右する魔法を与えられて生まれてきた。

 ジェレフはひどく言いにくそうに、年少の後輩ジョットに喋っていた。

「エル・サリスファー。名誉を求める気概は見事だ。しかし、殿下の帰還式はおそらく英雄譚ダージには詠まれない。君の兄上デンは立派な男だが、亡きエル・イェズラムに匹敵するなどと思い上がる者は、あいにくこの派閥にはいないはずだ。デンは名君の射手にふさわしい、稀有けうなお方だった。君は知らないのかもしれないが……」

「知っています」

 驚いたようにサリスファーは口を挟んだ。イェズラムを英雄譚ダージで知っているのだろう。

 さっきの学房の爺いも、好んでイェズラムの少年時代を語る。イェズの師父アザンだったことも、爺いにとっては自分のいさおしに思えるらしいのだ。

 だが、イェズラムの真の偉さは、英雄譚ダージが詠わない、王宮の片隅にあった。

 ギリスがどこぞの狭い通路で誰かも知らないデンたちに殴られて戻ると、イェズラムは苦笑して、顔はかばえと言った。

 相手が王族なら別だがな、避けてもいいんだぞ、デンの拳骨は。

 派閥ではデンに逆らうなと習うだろうが、あれは嘘だ。ギリス。

 死ぬほど殴り返してやれば、年少のお前にやられた恥で、相手はただ黙って施療院に行くだけさ。俺もずっとそうしてきた。

 イェズラムは笑ってそう話していた。

 イェズラムが笑っていると、何か可笑おかしいのかと思えて、ギリスも笑えたのだ。

 確かに可笑おかしい。なんで部族のためとか、気の毒な王子のために命懸けで戦ったのに、王宮に戻ってデンに殴られてるんだ、俺は。馬鹿なのか。

 殴り返してやる。

 それからギリスが王宮の序列を無視して、不埒ふらちデンたちを頻繁に絨毯に寝転がすので、悪党ヴァンギリスと渾名あだなされるようになったが、養父デンは気にしなかった。

 今日は何人、したのだ、ギリス。ただそう聞くだけで、養父デンはギリスの武勇伝を日々の楽しみにしているようだった。

 体術のよい師父アザンも付けてくれた。

 その話は、養父デン英雄譚ダージには詠まれていない。詩人たちの知らぬことだからだ。

いくさがいるのだ、サリスファー」

 ジェレフに話を引き取らせて、自分は食っていたはずの英名なるデンが、急に言った。強い声で。

 もう穏やかとは言えない口調のデンにびくりとして、ジョットは青ざめていた。

 デンが怒って見えたからだろう。

いくさ無しには、英雄エルは活躍しないのだ。お前も知っているだろう。英雄譚ダージとは主に、何の物語だ」

「部族の英雄や王族の偉業を称える物語です……」

 もはや小声でジョットは答えていた。

「戦の話だ!」

 英名なるデンはもう明らかに怒鳴っていた。

 英雄たちの穏やかさなど、晩餐用の長衣ジュラバ房飾ふさかざりのようなものだ。本体ではない。

 ギリスは戦場で見たデンたちを知っているせいで、そう思っていた。

 こいつらは皆、平気で人を殺す連中だ。

 守護生物トゥラシェに人が乗っていると、ギリスも頭では知っていた。

 だが、族長が斬首を命じた敵の首級がくいさらされるのを見ると、それは人ではないのかと思えた。

 確かに髪の色も、肌の色も違う。死んで曇った敵の瞳は部族の者のような蛇眼じゃがんではないし、大抵は緑色だ。

 それが大陸公用語で命乞いすると、宮廷でその言葉を学んだギリスには意味がわかった。敵は同じ言葉で話すのだ。

 それでもリューズ・スィノニムは命乞いは聞かず、敵をほふる。今日食う鶏の首を切り落とし、血を絞るように、平気で敵の首のない遺骸を逆さに吊るす。

 戦陣で使う荷物運びの砂牛が、なぜか人の血を好んで飲むせいだ。

 穏やかそうにモウモウ鳴いて、首のない死骸にたかる砂牛の一群を見た。

 ギリスは天使に祈った。俺は楽園に行けるのか。デンたちは。ジェレフは。イェズラムは。

 あのリューズ・スィノニムですら、死ねば楽園にけるのか。月と星の船に乗って。

 そうだろうかと、ギリスは疑問だった。天使がそれを許すのかどうか。

 戦うなかれと、聖典にはある。

 第四大陸の民はあまねく、原初の竜の末裔たる神殿種の家畜なのだ。

 それが相争うことを、良き牧者たる神殿種たちは好まぬ。

 戦うなかれと、天使はそれゆえに聖典に記した。

 天使ブラン・アムリネスからの鷹通信タヒルの返事は、本当に来るのだろうか。

 もし天使にもっといろいろ聞けるのなら、ギリスには聞いてみたいことが沢山あった。

 俺の養父デンは楽園にいるのか。自分もそこにけるのかと。

「スィグル・レイラス殿下はお前から英雄譚ダージを奪ったお方だ。お前たちの年頃には、ここにいるデンたちは皆、戦場で戦っていた。俺もそうだ。その結果が英雄譚ダージだ。王宮を出て、また戻るだけの行列のことを詩にする詩人などいないさ。族長は……リューズ様はそんなお方ではない。あの方は、戦いの申し子なのだ」

 熱弁を振るう英明なるデンの手は、食膳を掴み、震えて見えた。

「ユーレラン、落ち着け」

 ジェレフがたしなめて、青ざめて見える隣の英雄に、吸い付けて火を入れた自分の煙管きせるを渡した。

 紫煙蝶ダッカ・モルフェスだ。鎮痛薬だが、気持ちも落ち着く。

 族長が英雄たちに与える、王宮でのたしなみだ。

「済まない、ジェレフ。ただ俺は……ジョットたちが可哀想だ」

 涙するのかと思うほど、震えた声で、英名なる紺碧のユーレランは嘆いた。

「大丈夫だ。ユーレラン。族長は賢明なお方だ。必ず、部族のために良いような治世を行ってくださる」

「俺たちが死んだ後もか」

 項垂うなだれていたユーレランは、ジェレフの顔を見上げて聞いた。

 それにジェレフは言葉に詰まったようだった。何も言わなかった。

「ジェレフ。お前は治癒者だ。戦うしかない俺たちの心はわからん」

 素直に煙管を受け取り、大人しく鎮静の煙を吸っているユーレランは、ジェレフにそんなことを言った。

 それに治癒者のデンは黙っているだけで、何も言い返さなかった。

 ギリスはそれに内心、舌打ちをした。俺なら、殴り返すぞ。ジェレフ。なぜ黙るんだ、お前は。

「サリスファー。いずれきたるべき戦に備え、氷結術を鍛えろ。お前は魔法戦士だ。それを忘れるな」

 膳の前にもはや無言で座るジョットの肩をつかみ、英名なるデンは強く励ますように言った。

 それは祈りだ。自分が生きた生涯の続きを、ジョットたちに押し付ける。

 英雄譚ダージの第一巻で活躍したデンが死に、第二巻ではそのジョットが戦う。よくある話だ。

 ギリスもそうだと思っていた。今朝、新星のあの黄金の目を見るまでは。

 救国の大英雄、守護生物トゥラシェ殺しの炎の蛇、エル・イェズラムと並び立つような大英雄に自分も。

「よく分かりました、デン……、思慮が足りず、申し訳ありませんでした」

 なぜか平伏し、翡翠の子サリスファーデンに詫びていた。

 お前は何を謝ってるんだ。サリスファー。

 確かに、あいつは俺のジョットになったほうがいいと、ギリスは思い直した。

 さっき王宮の廊下で見たサリスファーの氷結術はとても良かった。

 それを褒められて嬉しげだった時の顔でいたほうが、あいつには良いだろう。

 仕方ない。面倒見るかとギリスは覚悟した。

 面倒だが、自分にもジョットを世話する時が巡ってきたようだ。

「サリスファー。女部屋に行くし付いてきて」

 ギリスは項垂うなだれている小さな背のジョットに声をかけた。

「へっ?」

 馬鹿かと思うような声で、ジョットは振り向いて答えた。

「一人で行くのビビるし、お前も来て。とりあえず風呂入って、他は何すればいい?」

 ギリスが聞くと、サリスファーは心底からぽかんとした顔だった。

「ギリス。そういうことは自分より年少の者に聞くようなことじゃないだろ」

 酒杯を舐めていたジェレフが呆れたふうに笑って言った。

「ジェレフはすぐに服を脱がせるからさ。そういうのはまずいだろ」

「そんなことしてないだろ!? 見たのか、お前は!?」

 血相変えてジェレフがわめいた。何を見られたと思っているのだろうか。

 そのデンが呑気なので、皆、笑っていた。

 苦笑だろうが、暗い顔でわめきあっているよりはいい。

「借りてもいい? サリス……」

「サリスファーです!!」

 誰も忘れたとは言っていないのに、追い被せるようにジョットが訂正した。

 まったく、頭の回りすぎる、せっかちな奴だ。デンのように紫煙蝶ダッカ・モルフェスでも吸うがいいが、あいにくそれは石が深刻に痛み始める年嵩としかさの者たちの特権で、チビ共はまだ真似事だけの、軽い薬を与えられるのが常だ。

 サリスファーはまだだろう。

 ジョットたちにはまだ、時間がある。

「ギリス。俺のジョットに何の用だ」

 穏やかだが、気に食わないふうに、英名なる紺碧のユーレランが尋ねてきた。

 早くも紫煙蝶ダッカ・モルフェスが効いたのか、うっとりと蝶を追うような静かな目だった。

「お前のチビのジョットに、俺が氷結術の極意を教えるよ」

「氷の蛇よ」

 詠うようにデンは答えた。揶揄からかっているのかもしれなかった。

 聞く限りでは、このユーレランも氷結術師だ。ギリスはその技を見たことがないが、学房の爺いの話では、大したことがない。

 ヤンファールの英雄、エル・ギリスに比べれば、どんな氷結術師も大したことはない。

「そうしてくれるか。無念だが、お前に託すしかない。エル・ギリス。お前ももうデンになってもよい年頃だ」

「無茶だろ、ユーレラン」

 ジェレフはそう言って笑ったが、皆も笑っていた。

 それでもユーレランは首を横に振り、気は変わらないようだった。

 その決断に、ギリスはこの英名なるデンの英名さを見たような気がした。

 どうも、死期しきを悟っているらしい。ユーレランは。死者は何者をも後見することはない。

「エル・サリスファー、エル・ギリスについていけ。そいつは詩も詠まぬ馬鹿だが、ヤンファールの氷の蛇だ。お前に戦い方を教えてくれる」

兄上デン

 青ざめてサリスファーはひるんだようだった。

 自分から、ギリスに乗り換えたいと言ってきたくせに、この詩を詠む英名なデンに未練があったらしい。

「失礼をお許しください」

 縋り付くような声色で、サリスファーはデンぬかずきびていた。

「気にするな。別にお前を見捨てた訳じゃない。ギリスに付いていってやれ。女部屋で煮て食われないように」

 遠慮するなと言うように、行け行けとユーレランはジョットに手で示した。

 ギリスはまだ食い足りなかったが、夕刻までにまた入浴するなら、のんびり食ってる場合でもないだろう。

 まず女部屋にいって、それからアイアラン、そして晩餐に間に合うように新星のご機嫌伺いと迎えに行かねばならない。

 その調子で、今夜までにスィグルの新しい居室へやの用意ができるのか?

 やっぱり今日も子供部屋で寝てくれと言うか。

 そうも行くまい。もう引っ越せと言ってきている。

 ギリスは麦酒の匂いのする袖で、麦酒に濡れた顔を拭った。

「煮て食うなら麦酒がかかったままのほうが美味いんじゃないか?」

 ギリスは半ば本気で誰にともなく問うた。個人房へやに戻って着替えるのは諦めて、このまま行けば、新星の居室の手配も何とかなるのではないのか。

「ギリス。風呂に入れ。手土産は食うものにしろ。菓子とか。花はやめとけ。お前が花を持ってくるのは可笑おかしい。笑われるぞ」

 心配げに、気の毒な者を見る目でジェレフが忠告してきた。

 またお菓子かと、ギリスは辟易へきえきした。

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