033 銀狐《エドロワ》たち

「こんにちは。エル・ギリス。長く話せない。顔を貸してくれ」

 誰に向かって口をきいているのか、中二階の回廊にいる者たちはこちらを見ないで話していた。

 名を呼んでくるのだからギリスに言っているのだろうが、回廊を手すりを掴んでいる先頭の誰かは、階段の折り重なる空間の、あらぬ何処かを見ている。

 まるで、何もない空中に何かが見えているみたいだ。

 そいつが見ている方をギリスも見てみたが、何もなかった。

 それだけでも妙だが、先頭の一人は髪も結わず、今起きたような垂れ髪で、その長い黒髪も乱れて絡まっており、しばらくろくにくしも通していないようだった。

 そんな格好で廊下を歩いていたら、ギリスの属する派閥ではデンたちから拳骨げんこつを喰らう。

 栄光ある王宮では、英雄は常に身なりも立居振る舞いも英雄然としていろというのが、派閥の掟だ。

 それはそういうものだと、ギリスは疑問に思ったことはなかった。

 面倒くせえなと思いながら、朝起きれば風呂に入り、髪にくしを通し、結い上げてからしか個人房へやを出ない。英雄とはそういうものだからだ。

 でも、よその派閥では違うらしい。

 見たこともない誰かが、乱れた風体ふうていでいるのをギリスは顔をしかめて見上げた。

 そいつは輿こしに乗っていた。足腰の立たない者を運ぶための荷台のようなものだ。

 この王宮の、英雄たちの暮らす界隈では、石の症状の悪化で急に気を失ったり、歩けなくなる者もいる。そういう者を運ぶときに使う道具だ。

 歩けないのかもしれなかった。

 その垂れ髪の誰かは、四方を人に持たせた輿こしの上からギリスに話しかけてきていた。

 輿こしを運んでいるのも、頭に石のある連中だ。その者たちは英雄らしく髪も結い、乱れなく長衣ジュラバを着ていた。

 剣帯に毛皮の飾り房をつけており、それが尻尾のように見えた。

 ジョットたちはそれを見て、彼らの派閥を判断したのだろう。

 自分たちの所属を示すものを身につける連中もいる。

 ギリスの派閥にそういう習慣がないのは、身を証す必要のない大派閥だからだ。

 銀狐エドロワはそう大きな派閥ではない。でも英雄には違いない。

 その英雄に輿こしを運ばせるのだから、乗っている者はよほど序列が高いのか。

 それでも、呼びかけてくる声はギリスよりも幼い、少年のような高い声だった。

「聞こえないの?」

 非難するように声をひそめ、中二階の誰かは尋ねてきた。

「無視しましょう、デン。無礼です」

「あいつが誰か知ってるか」

 翡翠の石のやつに、ギリスは小声で尋ねた。

「知りません。見たことない奴です」

 緊張した顔で、エル・サリスファーは答えた。

 英雄の中には、知らない者もいるだろう。実際、子供も入れれば王宮には何百人もの竜の涙がいた。

 その中で皆が名の知れた英雄ということではない。幾つもの英雄譚ダージうたわれる大英雄もいれば、ずっと日の目を見ない者もいる。仕方のないことだ。

 同じ年頃の小英雄どうしなら、それぞれの魔法に従い、訓練場で顔を合わせたり、大部屋で同室であったり、読み書きの教師に同じ部屋で習ったりすることで、知り合うこともある。それでも全員を知っている訳はない。

 ジョットたちが敬遠しているのは、それが異なる派閥の者たちで、しかも向こうは自分たちより年上の者が四人いるせいだ。

 輿こしを運ぶ英雄たちはギリスと同じぐらいの年頃に見えた。

 向こうは四人、こちらは一人だ。普通に考えると部が悪い。もし喧嘩となれば、こちらのジョットたちは戦わないつもりらしい。年長者に逆らってはならないせいだろう。

 面倒な話だった。たとえ年上だろうが、殴れば気絶すると思うが、皆はギリスと同じ考えではないらしい。

 殴った後のことを弟たちは恐れているのだろう。王宮での私闘は罪だからだ。

「エル・ギリス。一人でいいよ。こっちに来て。何にもしないよ」

 笑っているような声で、また輿こしの誰かが言った。

 英雄なのかもしれないが、髪に隠れて石は見えない。

 だが、英雄でもない者が、王宮のここ界隈にいるわけがない。

 王宮にいる子供は、英雄か、そうでないなら王族だ。ギリスは王族の顔は知っている。絶対に違う。

 誰もない誰かが、英雄が運ぶ輿こしに乗ってくる訳はないのだ。

「名前は」

 仕方なく、ギリスは階下から尋ねた。

「アイアラン」

 何かの遠吠えのように、中二階の誰かは吹き抜けの空中に向かって名乗った。

「エル・アイアラン?」

 ギリスはジョットたちが何か知っているかと思い、彼らに尋ねる気持ちで答えた。

 六人もいる連れは、ギリスに知らないというように首を振って見せている。

「ただのアイアランだよ。僕はまだ英雄エルじゃないんだ」

 歌うような声色で、銀狐エドロワは答えた。

「君が僕を英雄にしてくれるんだよ、エル・ギリス。永遠に部族の英雄譚ダージに詠い継がれる英雄になれる」

 それがもう決まったことのように、アイアランは言った。

 まるで何かに酔っているような、正気が疑わしい声だ。

 ギリスが顔をしかめてジョットたちと顔を見合わせると、ジョットは自分の顳顬こめかみのあたりを指でつついて見せてきた。

 あいつ、おかしいですよという意味だった。

「派閥の部屋サロンまで送る」

 ギリスは心なしか青ざめて恐れているらしいジョットたちに約束した。

 他所よその奴らが何かの気まぐれで、派閥の年少者を襲うことはある。そういう行いは卑怯者のそしりを受けるが、そしりなど恐れない者も中にはいるのだ。

 何がどうなってどんな恨みを受けるやら見当がつかないのが王宮だ。

 ギリスはジョットたちを引き連れて階段を登り始めた。

 その階段を上り切った、すぐ横に銀狐エドロワたちは居たが、輿こしを抱えている四人はこちらを見るものの、名乗ったアイアランはまだ欄干らんかんの向こうの空中を見ていた。

 目が見えないのかと、ギリスはいぶかった。

 生まれつき盲目の者もいるだろうし、英雄の中には石のせいで視力に難のある者もいる。養父デンも晩年は石のために隻眼せきがんだった。

「行かないでよ。どうして無視するんだ」

 そっぽを向いているくせに、アイアランは悲しげに呼びかけてきた。見当違いのほうを向いたまま。

「エル・ギリス!」

 大声で呼びかけてきて、輿こしの上のアイアランは自分の手で両目をふさぎ、通り過ぎようとするギリスのほうに這い寄ってきた。

「僕は……未来視みらいしだよ。未来を知りたいだろ?」

 すがり付くようにアイアランは言い、ギリスは足を止めたが、両目をふさぐアイアランは未来どころか今ある目の前すら見えてはいなさそうだ。

「何言ってんだよ。うるせぇ。とっとと消えろ」

 気味が悪く、ギリスはむっとして怒鳴った。それでも相手に恐る気配はなかった。

「新星の未来だよ。君は必ず来る。僕は知ってるんだ。待ってるから……エル・エレンディラの後でいいよ」

 息切れしたような荒い息で言って、アイアランは輿こしの上で苦しげにうずくまった。

 その様子を輿こしを抱えた四人が無言で心配げに見ていたが、誰も介抱する様子はない。

 ぜえぜえ息をして、アイアランは気が遠くなったらしかった。もう何も言わない。

 ギリスは最後にそのぐったりと伸びたようなせた風体ふうてい一瞥いちべつしてから、歩き出した。

 石がない。髪に隠れているのか。

 ギリスに足早についてきたジョットの一人が、気味悪そうに振り返りながら、小声で言った。

デン、あいつの頭の中、石でいっぱいだよ。きっとすぐに死ぬ」

 なんて名だったか忘れた。透視術師だ。人の頭の中を覗き見するのは悪い癖だった。

 ギリスは厳しい声を作り、ジョットを叱ることにした。

「馬鹿、つまんねえこと言うな。そういうのはお前が決めることじゃない」

 死の天使が決める。

 派閥では昔からそう言われている。

 石がデカくても死なない奴もいれば、まだまだ生きそうだったのに食い物にあたって死ぬ奴だっている。

 死んでみるまで分からんものさ。

 養父デンもそう言っていた。

 たとえ分かったとしても、自分の死期など知りたい訳がない。誰しも同じだ。

 明日など分からないから、皆、平気で生きていけるんじゃないか。

「未来視って本当にいるのか」

「石のない予知者はちょいちょいいますけどね。でもほとんど当たらないって」

 翡翠の石のやつが、ギリスの横を歩きながら、まだ来た道を振り返って答えた。

「そんな精度じゃ魔法じゃないな」

「確かに」

 笑うサリスファーを見て、ギリスもやっと笑う気になった。

「でも当たるんじゃないですか、竜の涙の未来視なら。エル・ディノトリスみたいに」

 首に包帯を巻いてる奴が、不安そうに口を挟んできた。

 ギリスは何も答えなかった。

 あいつがもし本物の未来視でも、いい予言を持ってきたとは限らない。そんなものを聞いて、良い結果になるのかどうか。

 それでも、覗き屋のジョットの見立てが正しいなら、あのアイアランという奴が何かの魔力を使ってきたことは、石が証明している。

 魔法を使わない奴の石はあまり育たないものだ。個人差はあるが。

 あいつが石を肥やした魔法が、何かあるはずだった。

「派閥の部屋サロンで飯食おうっと。腹減って頭回らなくなってきた」

「ご一緒します」

 ギリスが誘ったと思ったのか、ジョットたちは嬉しそうだった。

「何言ってんだよ。お前らは別で食え。俺はジェレフと話す」

 ギリスが突っぱねると、ジョットたちは図ったように声を揃えて、えぇ、と不満の声を上げた。

 何で一緒に飯を食いたいのか、可愛げはあるが、小うるさいジョットたちだった。

 それを置いて逃げようにも、行き先の派閥の部屋サロンが同じでは逃げようがない。

 仕方がなく、ギリスはジョットどもを引き連れて、通い慣れた派閥の部屋サロンまで行った。

 部屋サロンと言っても一室ではなく、そこは王宮の一角に広がる幾つかの広間の集まりだ。続き部屋もあれば、通路で繋がれた別棟もあった。

 壁には骨になって駆ける馬が何頭も描かれている。それがこの派閥を象徴する旗印だからだ。

 それゆえこの派閥は髑髏馬ノルディラーンばつと称されるが、その中にいる者はただ派閥と呼んでいた。

 外から見た時、髑髏馬ノルディラーンばつの英雄は勇猛で、攻撃的で、死を恐れぬ、無敵の突撃部隊とされている。

 だが、この派閥がそのような印象を持って、特に他の派閥の追随を許さぬほど多くの強力な英雄を擁するようになったのは、恐らくイェズラムがデンを務めるようになってからだろう。

 族長リューズは明らかに髑髏馬ノルディラーンばつ重用ちょうようした。

 戦時において、それは過酷な攻撃任務を意味したが、その役割を果たして華々しい死を英雄譚ダージに記録されることを、英雄たちは自ら望んだのだ。

 それは迫り来る病苦と死からの逃避と言えた。王宮の片隅で病み衰え、苦悶して孤独に死ぬよりは、英雄性をたたえられながら戦場に散るほうが、いくらかマシな一生だとデンたちは思ったのだろう。

 髑髏馬ノルディラーンばつに籍を置けば、割りの良い死と英雄譚ダージが与えられた。民が喜んで繰り返し詩人に詠唱えいしょうを求めるような、美しく熱い物語になって、永遠の眠りにつける。

 骨の馬に乗って。死の天使の元へ。

 ギリスはこの壁の馬が好きではなかった。

 馬には肉がついているほうが良い。

 骨張った馬になど乗りたくはなかった。

 だが、派閥に籍を入れて間もないジョットたちには、この栄えある髑髏馬ノルディラーンばつの旗印には胸がときめくようで、どこかうっとりした目で通路の壁画を眺めている。

 ギリスは目指す一室の戸をくぐり、慣習通り、室内にいるデンたちに戸口の敷物の上で叩頭した。

「エル・ギリスです、兄上デン

 額付いてそう挨拶したものの、入ってすぐの部屋には目指す相手はおらず、人もまばらだった。

「ジェレフは?」

 部屋の隅で本を読んでいた年上の魔法戦士にギリスは尋ね、相手は無言であごを上げて奥のを示した。

 もう昼時であり、部屋には食い物の匂いがしていた。

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