031 博士
博士は菓子を見ると大変機嫌が良かった。
本や巻物がそこかしこに積まれた部屋の中央に博士のための文机と円座があり、その下座にいくつかの客座が用意されていた。戸口で叩頭したあと、ギリスは
博士は英雄たちの石のある顔を、満足そうに見回している。
「皆、元気そうで何よりだね。君たちはいつも賢く、礼節を
何度も頷きながら博士は弟たちを褒め、遠慮なく包みを開いて菓子の箱を開けた。
「商業区のアットワースの菓子ではないか。遠いのにご苦労さんだったねえ」
「いいえ
「そうかそうか。君らの
「エル・ユーレランです
「英明なる
師父は円座に胡坐した自分の膝を叩き、やけに大声で言った。
「君は良い
「はい……
恥ずかしそうに
子供部屋にも序列がある。誰が誰より強いか、この王宮では厳格に定められているのだ。
こいつがこの場でギリスの隣に座れるのも、この
ギリスはぽかんとして、やけにもじもじしている
「君は詩作もするのかね。結構結構。今度持ってきたまえ、私も読んでみたい」
「いいえ、まだまだ全然、
恐縮する
サクサクと軽い音がして、果物の匂いがした。
「これは美味い。エル・ユーレランによくよくお礼を申し上げておいてくれよ」
「はい。
「そうかそうか。君の
涙声で話す博士に、ギリスはそうなのかと驚いた。
エル・ユーレラン。そんな奴が同じ派閥にいたか。
しかも自分と同じ氷結術師とは。
知っていても良さそうなものだが、ギリスにはその英雄の記憶がなかった。
このチビどもの
しかし、今後はそうも行くまい。新星の帰還式の行列に参加してくれる英雄を集めねばならない。
その数、百名と、スィグルの出立式の時の記録にはあった。
同じく百名を
晩餐で帰還式を命じる時に、族長は出立式と同様にと言った。
玉座がそう言うのなら、それは絶対なのだ。今さら半分でいいかと聞くわけにもいかない。
「
ギリスは横から口を挟んだ。
客座の中では一番良い、博士の向かいの席にいたギリスを、左右に座る
「エル・ギリス」
菓子の箱を膝に持ったまま、
「なぜ来たのだね? 君には
「ちょっと用事があって」
ギリスは率直に言った。その方が話が早い。無駄な長話は嫌いだと
「手土産は?」
博士は難しい顔で言った。
「手土産?」
「久しぶりに会うのに手ぶらで来たのかね」
「博士に会うのにお菓子がいるなんて聞いたこともない」
びっくりして、ギリスはつい大声で言った。
「そうだろうね。君は一度も持ってきたことがなかった」
非難する目で博士が言ったので、ギリスはあんぐりとして、左右にいる
皆、気まずそうに笑っている。何が
ギリスは顔を
「お菓子がいるならいるって言えばよかった」
「君はもういいんだよ。君の
博士は自分の言葉に何度も頷いていた。
イェズラムのことか?
イェズの死が惜しまれることにはギリスは異論がなかったが、まさか
それももう、ヤンファールよりも前のことになる。ギリスがまだ子供の声だった頃のことだ。
「私はこれから、君の
「スィグル・レイラス殿下が博士の講義をご所望です」
とりあえず単刀直入にギリスは言った。
「それは私の仕事ではない」
博士もきっぱりと答えた。
「なぜですか」
なぜそんな即答で断れるのかとギリスは呆れた。
別にタダでとは言わない。欲しいならお菓子を持ってくるじゃないか。そういう目でギリスは博士と睨み合った。
しかし氷の蛇が睨みつけても、博士は一向に
「レイラス殿下はご幼少のみぎりに、史学はもう修了なさっておいでだ」
「は?」
ギリスは自分の知らない事実に驚き、そんな話は聞いたことがないと思った。
王族も英雄たちも、宮廷の博士たちの講義を受けるのは元服後のことだ。それまでは別の、子供用の教師がいる。読み書きや弓術、算術や乗馬などを教える先生だ。
部族では、ちゃんとした学問は元服した者の特権と考えられている。
「スィグル・レイラス殿下だろう? あの殿下はここにも勝手にお入りになり、私の蔵書の多くを勝手に読破なさっている。教える必要はない」
「何だよそれ」
ギリスは驚きのあまり非難がましい声になっていた。
それなら史学の博士にお菓子をやる必要などない。あいつは博士に何の用があったんだ。
この博士じゃなかったのかと、ギリスは自分の選択の誤りを悔やんだ。
とんだ時間の無駄だ。今夜、晩餐の席で新星に博士の手配を知らせるつもりだったのに。
「大抵どの学房でも同じだよ、エル・ギリス。あの殿下はご幼少の頃より
博士はしたり顔で、いかにもそれが当たり前という口調だった。
「宮廷の博士たちには皆、あの殿下には教えるなと、後宮の方からきつい便りが来ているはずだ。スィグル・レイラス殿下は敵に
「は?」
ギリスは心底から耳を疑い、身を乗り出して博士の顔を見た。
髪には白髪が混じり、顔には
英雄たちには老人はいないせいだ。
だからギリスには分かりかねた。そんなに長く生きたくせに、今さら後宮の女どもが怖いのかと。
その
「恥ずかしくないのか。
ギリスが
「そりゃすごいね、君。実にすごい」
「すごいんだよ、実に」
ギリスは険しい顔のまま同意した。それにも博士は面白そうに笑い、箱に残っていた赤い菓子を食べた。
サクサクと菓子を噛む音がする間、博士は微笑のまま黙っていた。
それが赤い舌で乾いた唇についた菓子の粉を舐め、ギリスの顔に目を戻してきた。
「君には言ったか忘れたが、私はリューズ・スィノニム殿下の戴冠式にも列席したのですぞ。この学房からの筆頭の席で」
「一番爺いだからだろ」
「そうではない。スィノニム殿下の
甘いものを食いながらのくせに、爺いは渋い尊大な顔で言った。
ギリスは顔を
「族長は博士とは縁遠かったと聞いてる。イェズラムから」
俺を騙せると思うなよというつもりで、ギリスは
これまではそうだった。
しかし博士はしれっと答えた。
「そうとも。あのお方も殿下の頃には、誰ぞ高貴なお方から、リューズ・スィノニムへの教授は一切無用と学房にお達しがあったのでね」
ギリスはさらに顔を
それでも博士はまだ嬉しげに菓子の残る箱を見ているばかりだ。
「そう険しい顔をするんじゃない。それでも当代はああして玉座に座しておられるのだから、君の殿下が新星というなら、少しはお知恵を見せられてはどうかね」
「どういう意味だ」
持って回った言われ方をするのはギリスは嫌いだった。意味が分からないからだ。話は単刀直入にしてもらいたかった。
「ちょっと聞いてごらん。私に。リューズ・スィノニム殿下が、なぜ私を戴冠式で学房の筆頭の席をお与えになったのか、知りたいだろう、うん?」
さあ聞けという顔で、博士は胸を張っていた。
何かの謎かけなのか、爺いの得意顔の意味が分からず、ギリスは黙って困惑した。
「
ギリスの横にいた
「なぜか教えろ」
「そんな聞き方では教えられんな」
菓子食い爺いは偉そうに答えた。ギリスはムッとした。聞けと言ったくせに、どういう
「
急に叩頭して、
それに
「良かろう。そう乞われては話さぬわけにもいかん。リューズ様と私には格別の繋がりがあったのだ」
早く言えよとギリスは苛立って爺いを見た。
それに爺いは差し招くような動作をし、それから頭を下げろと指で示してきた。
低頭しろというのか。どういう事だ。
ギリスは帰りたくなったが、それでも新星のためだ。ここで帰らぬ方が良い気がした。
それで渋々、学房の絨毯に叩頭することにした。
「お教えください、
長老会仕込みの厳かさで、ギリスは頭を下げて爺いに頼んだ。
「良かろう。ヤンファールの氷の蛇のたってのご
「さすが
「早く言えよ」
ギリスは困って言った。
それに咳払いして、それでももう話したいのか、博士は結局言った。
「スィノニム殿下は仮面劇と
険しい顔で、老博士は語った。
「私も
「族長は字が読めなかったはずだ」
「その通り」
老博士はもう笑ってはいない顔で、じっとギリスを見てきた。
「そう
「断ったんじゃないか」
「私も命は惜しい」
いっひっひと爺いは笑った。
「だが、共に
「
我慢しきれぬというように、急に後ろにいた
「これ……君、先に全部言う奴があるか……」
ひどくガッカリしたように、お菓子の爺いは上座で肩を落とした。
「歌ったの……十八巻ぶん?」
「全てではない。通史の要所要所をな」
箱に残っている菓子の最後の一個を食べ、博士は美味そうにそれを噛んだ。
食い終えて紙箱を脇へやると、爺いはまた意地悪そうな
「レイラス殿下はお父上とは違い、書物はお読みになるのだろう。それにご自身で歩くこともおできになるはず。それなのになぜ君がここに来た」
爺いの嫌味ったらしさにギリスは口を尖らせた。そんなのわざわざ聞くようなことか?
「なぜって、俺が殿下の遣いだからだ。王族がいちいち自分で来たりしないだろ」
ギリスはもっともなことを言っているつもりだった。王族が博士の講義を受ける時は、博士の方が王族の
それなのに、この爺いは何を言っているのか。
そういう目で見返すと、老博士はまた、いっひっひと笑った。
「その殿下のお父上は、王族でありながら、教えを乞うためご自身でこの老官に叩頭なされたのだぞ。そのお子である殿下が、手ぶらの君ひとりを遣いによこして済ませようとは、玉座に対し不敬であろう」
面倒くせえ。
ギリスは王宮の空気を噛み締めた。
ここはそういうところだ。
「あんた、後宮の女どもが怖いんだろ」
「ああ怖いとも。私も命をかけるのだから、殿下もご自身で向学心をお示しになるべきだ。そうでなくては、
「そう言っていいのか、あいつに。俺はそのまま言うぞ」
「好きにするがいい」
ふふんと笑って、博士はギリスの脇にいた
「悪いね。君らの学問の時間を長々と無駄にして」
「いいえ
「君らにとっては今日のことは未来の歴史となるやもしれないね」
老博士がそう言うと、弟たちはにこにこしていた。
「ところで君の
「はい。勿論です。僕の
当たり前だと言うように、ギリスの脇にいた
「彼はね、とても苦労したんだよ。生来の魔法がそれほど強くはなかった。氷結術を使い放題のヤンファールの氷の蛇のようにはね」
ギリスを前にして、老博士は悪口を言っているようだった。
「彼の
「僕の
ずっと物静かだった
「そうかそうか。それは大変結構だ。彼も賢明な
「はい。そうです。僕も同じです」
恥ずかしそうに小声で答える
「そうかそうか。それは良かった。エル・ユーレランは氷結術師だが、魔法の射程がずいぶんと限られていた。それゆえ彼の友、透視術師のエル・ダージフは魔法の目によって敵の
いつ息をしているのかと、ギリスは老博士の朗々たる
一息でこんなに長く話せる爺いがこの世にいたとは。
エル・ユー何とかの氷結術がしょぼいらしいことも分かった。だからギリスは知らなかったのだ。
魔法戦士の序列はおおよそは年齢で決まるが、それは宮廷での建前で、一歩戦場に出れば魔法の強さが序列を決める。ギリスの前を走れる者は誰もいなかったのだ。おそらく、イェズラムの他には。
「エル・ギリス。君はもっと仲間の
さらっと当たり前のように老博士が言うので、ギリスは目を見張った。
言ったっけ、それ?
誰が射手かというのは一応、魔法戦士の間だけの秘密で、長老会が人選して決めている。そんなものがいるとは、石のない連中は知らないはずだった。
「なんで知ってる」
「知ってるわけはない。当てずっぽうだよ。エル・イェズラムが君に万事をよく教えるよう私に頼んでいた。君は良い生徒ではなかったがね?」
「そんなことないだろ。史学十八巻、全部憶えた」
「そんなことは馬鹿でもできるのだよ」
いっひっひと笑って、爺いは気味が良さそうに言ってきた。
「君がもう一度、私から習いたいなら、菓子を持ってきて叩頭するのだな。その後、ここで聞いた私の話を君が誰に話そうと、私は知らんよ。英雄に教授するのは私の役目で、後宮からお指図のあることではなかろう」
そうだろうと言うように目配せしてきて、老博士は催促するように手を差し出してきた。
「美味い菓子を持って来たら考えてやるぞ、エル・ギリス。また一から学び直しなさい」
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