030 弟《ジョット》たち

 新星の居室へや辞去じきょすると、ギリスは目眩めまいがした。

 軽く足元のふらつく青い顔のギリスを、居室の扉を守っていた衛兵たちは、胡散臭うさんくさそうに見ていた。

 それが物言いたげでも、ただ見守るだけで何も言わないので、ギリスは立ち去ることにした。

 王族が行き来する界隈の通路に敷かれた柔らかな絨毯じゅうたんの感触が、なおいっそう酔うようだった。

 吐き気がする。軽く。

 何に酔っているのか分からないが、とにかく、めちゃくちゃに暴れる馬に振り回されたか、浴びるほど火酒を飲んで足元が揺れるような気がした時に、どこか似ていた。

 胸が焼け、軽く天井が回るような心地になって、ギリスは恐らくはよろよろと歩いていた。

 それでも何とか王族向けの絨毯じゅうたんが果てる辺りまで行き、角を曲がったところで、左肩に王宮の通路が触れるのを、ギリスは感じた。

 もしかして、施療院せりょういんに行ったほうがいいのではないかと、壁にもたれながら思った。

 まっすぐに歩いているつもりだったのに、自分の歩いている道筋がだんだん広い通路の脇へ寄って行き、ついに壁にぶち当たった。

 それでも歩みを止めるわけにいかない気がして、ギリスは数歩、壁に長衣ジュラバそでこすりながら歩いた。

 だめだ。壁に触れてはならない作法だった。そう思い当たり、ギリスは足を止めたが、その頃には猛烈に視界が狭かった。

 暗く落ちかけた視界の中に、蔓草つるくさ紋様もんようで飾られた錆色さびいろ絨毯じゅうたんが見えている。

 王宮の通路はどこも似ているので、敷物や、壁の飾り物で場所が表されていた。

 ギリスは勉強熱心な新星の用向きを知らせるため、博士たちの住む区画へ行きたかったが、この道でよかったのか。ぐるぐる回るような鈍い頭で、ギリスは考え込んだ。

「大丈夫ですか、兄者デン

 ぼんやり壁にもたれていると、すぐ側から、まだ声変わりしていない子供の声で呼びかけられた。

 その声にはっとして、ギリスが目を向けると、ぼんやりしていた王宮の風景が、急にまた鮮明になった。

「エル・ギリス」

 並んで立っている子供たちが、木枠に金の縁取りのある蝋板ろうばんをそれぞれ抱え、ギリスを見上げていた。

 六人いる子供の群れで、こっちを見ているその顔の、額のひとつひとつに、それぞれの色合いの石が生えていた。

 小英雄たちだ。

 ギリスには見覚えのある顔だった。かつて自分がいたのと同じ大部屋にいた子供らだったからだ。

兄者デン

「大丈夫ですか」

「施療院から人を呼びますか」

 心配げに言う小英雄たちは、ギリスの具合が悪いのだと思っているようだった。

「いらない。大丈夫だ」

 ため息をついて、ギリスは少年たちに言った。

 背はちびっこいが、もう子供達とは言えない。並んで立っている連中の何人かは、すでに元服後の姿で髪を結われていたし、肌の色も日に焼かれて大人の色合いをしていた。

 中の一人はまだ皮膚ができあがっていないらしく、首に包帯を巻いていて、いかにもかゆそうにしている。

 タンジールでは、地下都市に閉じこもる暮らしのため、日にあたることがない。それゆえ子供達は部族の幼年期に特有の、白蠟はくろうのような透ける肌色をしており、元服するまで育った十二歳の祝いに地上に出て、日に干される。そうするとまたたく間に日焼けして、大人の肌色に変わるのだ。

 ギリスも元服式のあと、皆で並んで地上に連れて行かれ、強烈な砂漠の日光に当てられた。

 その夜から体がかゆくてたまらず、いて一生残る傷にならぬよう、施療院の看護師に包帯でぐるぐる巻きにされた。

 ほんの四、五日のことゆえ我慢しろと、デンたちにも包帯姿を揶揄からかわれた。

 体の見える場所にき跡が残ると、根性がないと一生言われるのだそうだ。

くな」

 包帯の上から指で首筋をいていた子供に、ギリスは注意してやった。

 びっくりしたように、その子供は手を引っ込めた。

「申し訳ありません」

「謝らなくていいけど、とにかくくな。もうちょっとだろ」

 そう教えると、もうほとんど大人の顔色をしているその少年は、うんうんとつらそうにうなずいた。

 素直で可愛げがある。ギリスはそう思った。

 特にあの人食いレイラスを見た後では、この素直なジョットたちはものすごく可愛く見えた。

 本来、こういうものだ。王宮の兄弟関係とは。

 なぜあいつは年上である俺を平気で殴るのかと、ギリスは悩んだ。

 スィグル・レイラスはいろいろとおかしい。

兄者デン、派閥が決まりました。兄者デンと同じです。皆もそうです」

 嬉しそうに、小鳥がさえずるような声をした一人がいった。

 どれがしゃべっているのか、ギリスは分からなかったが、こいつだろうと思う奴の顔を見て微笑んでおいた。

「そうか。よかったな。頑張るんだぞ」

「派閥には怖い先輩デンがいますか」

 心配げに聞くジョットたちにうなずいて、ギリスはにこにこした。

「怖い先輩デンしかいない。とりあえず叩頭こうとうして、何でも言われたとおりにしろ。なるべく部屋の端の方にいろ。戸口の近くに」

「どうしてですか」

「すぐ逃げられるように」

 ギリスは親切心で教えた。派閥の新参者は戸口のそばに座るのがしきたりだ。

 奥の方に行くに従い、年長で古株の地位の高いデンたちがいる。そういう決まりだ。

 自分の後見をするデンの地位が高ければ、それにくっついて、部屋の奥の方の席へ行ける。ギリスがイェズラムにくっついて、長老会でもどこへでも出入りができたように。

 しかし、普通はそんな大物が、こんなチビどもの世話役デンに任じられたりはしない。

 子供の世話は皆、嫌がる。そこそこ成長して、使い出がでてきたのを自分のジョットとして引き抜く者が多い。優れたジョットがいるのも、デンたちの権勢のうちだからだ。

 英雄たちの兄弟関係は、そのような水物だったが、ギリスにとってはイェズラムが唯一のデンだった。

 最初に引き合わされたデンは別にいた気がするが、あっという間に戦で死んで戻らず、その次やその次のデンたちは、ギリスには我慢がならぬと言って放置した。

 そのせいで、誰も面倒を見る者がおらず、仕方なしに派閥のデンだったイェズラムがギリスを引き取ったのだ。

 以来、死に至るまで、イェズラムは一度もギリスを見捨てはしなかった。

 このジョットたちも、そのような良いデンに恵まれたらよいが、それは運だった。

 あいにくイェズラムほどの良いデンは滅多にいるものではない。

 皆、なぜか自分のデンのことは、ギリスと同じように自慢に思っているようだが、それはイェズラムを知らないからだろう。養父デンは本当に他に類を見ないような大英雄だった。ギリスはそう思っていた。

「嫌なことがあったら俺に言え。誰でもぶん殴ってやるから」

 ギリスは笑顔で大部屋のジョットたちに請け合った。

「そんなの無理ですよ。ギリスの兄者デンは僕らの後見じゃないんだもの」

 口を尖らせて、子供達は言った。

 いや子供達ではない。もう大人なのだが、とてもそうは見えなかった。餓鬼どもだ。

 包帯のやつはまだ十二歳なのだろう。

 それでも、大部屋に詰め込まれていた頃と比べれば、皆よく生き延びた。この年齢まで生きられることが、小英雄たちにとっては、まずは幸運なのだ。

「ギリスの兄者デンがよかったなあ」

 渋々と子供達は可愛げのあることを言った。

「無理だよ。俺もまだ餓鬼がきだもん」

「そんなことないでしょう。兄者デン英雄譚ダージも持っているんだから。一廉ひとかど英雄エルですよ」

「そうかな」

 ギリスはいかにも立派そうに言う子供に目を向けて尋ねた。

「そうですよ!」

 チビどもは口々に同意して、ギリスを見上げた。

 さすがは大部屋の頃からちょいちょいお菓子をやって手懐けていたジョットどもだ。忠誠心がある。

 やはりジョットというのは、こうでなくてはおかしい。

 デンが白と言えば白、黒と言えば黒というのが、ジョットというものだ。

 英雄譚ダージを捨ててくれだと?

 急にまた、先程の新星の話が脳裏によみがえり、ギリスは吐き気がした。

 考えたこともないようなひどい話だった。

「どうしたんですか兄者デン、大丈夫ですか」

 おたおたと暴れて、ジョットどもが心配していた。目の前で吐かれるのが嫌だっただけかもしれぬ。

 長衣ジュラバそでの中の肌着で口を押さえて、ギリスは吐き気をこらえた。

「大丈夫だって言ってるだろ」

 正直、胃液が込み上げてきたが、ギリスは我慢した。我慢強さには自信がある。

 それにジョットたちの前で無様はさらせないのだ。英雄とはそういうものだ。

「お前ら、蝋板ろうばんなんか持って、どこ行くんだ」

「史学の師父アザンのところです。勉強の時間なので」

 話す機会を待っていたらしい一人が、やけに意気込んで大声で答えた。

 ああそうかと、ギリスはそれにうなずいた。

「俺も行く」

「えっ」

 ギリスが同行を伝えると、ジョットたちは驚いたようだった。

兄者デンはもう修了されたんでしょう」

「でも師父アザンに用事があるんだよ」

 どうせ同じ方向へ行くのだ。別々に歩くのも妙だと思い、ギリスは弟たちと一緒に行くことにした。

 チビどもはそれに嬉しそうにしていた。

 英雄たちが徒党を組んで王宮を歩くのはいつものことだ。ここには厳しい序列があるし、競い合う派閥もあるため、チビどもは自分たちだけで歩き回るよりも、より強いデンについて歩くほうが安全だと知っている。

 英雄が皆、英雄らしく高潔とは限らず、よその派閥の小さいのや、まだ大部屋にいるようなチビどもを平気でいじめるような不心得な者もいた。

 そういうことは禁じられているが、常に派閥のデンや長老会が見張っているわけではない。

 バレなければいいし、チビなど黙らせておけると思っている馬鹿もいた。

 それがいつまでもチビだとは限らないのに、先のことも考えず、自分より強大になる恐れもある魔法戦士の卵をいたぶる馬鹿もいるのだ。

 ギリスはそういう愚を犯したことはない。決してやるなと養父デンが命じていたのもあるが、そもそもギリスは自分より小さい者のほうが好きだった。

 デンたちは偉そうだし、大した業績もないくせに、大抵は居丈高いたけだかだったからだ。

 イェズラムや、せめてジェレフぐらい立派な英雄譚ダージがあるなら、頭を下げてやってもよいが、ギリスがそう納得できる相手もまれだった。

 それがお前の至らなさだと、養父デンにはいつも叱られたが、生来の本性は額の石と同様、努力だけでは如何いかんともし難い。

 そんなわけで、ギリスはデンたちには恨まれている。生意気だとか、目つきが気に食わんとかいう理由で、さんざん殴られてきた。よくぞ面相めんそうが崩れなかったものだ。

 それも恐らくイェズラムのお陰だろう。最大派閥のデンで、長老会でも強い権力を持ち続けたイェズラムが目をかけているジョットだと知れ渡っていればこそ、それを殴るのにも、炎の蛇と恐れられていたエル・イェズラムの顔がちらつくのだ。

 デンとはそのように、ありがたいものだ。自分もそのように、小さいジョットたちを守らなくてはならぬと、ギリスは常々思っていた。

「このまえ師父アザンからヤンファールの戦いのことを習いました」

 ギリスに付き従って歩きながら、六人いるジョットどもの誰かが嬉しげに言った。

「そうなの? じゃあ、お前らももうすぐ修了だな」

 ヤンファールはたったの二年前の出来事だ。歴史というには最近すぎた。

「いいえ。師父アザンは話したいことは先に話しておしまいになるので。修了はまだ先です」

 笑って、弟たちは史学の教師のいいかげんさを語っていた。

師父アザンはお好きな話は何回もします」

「族長の即位式に出た話なんて、もう十二回は聞きました」

「それは爺さんのただの思い出話だろ」

 ギリスが感想を述べると、ジョットたちは口々にそうだそうだと言った。

「僕らも早く、ギリスの兄者デンのような立派な英雄譚ダージが欲しいです」

 歩きながら話す途中に、誰かがそのようなありきたりの話をした。

 それにもジョットたちは皆、そうだそうだと和やかに同意していた。

 いつもなら、そうなるといいなと生返事をする、その話に、ギリスは遠い目になっていた。

 英雄譚ダージを捨てよと話していた新星の顔が、どうしても脳裏にちらついたのだ。

 もし、そうなったら、俺はそれでも良いがと、ギリスは思った。

 英雄譚ダージなど持っていても、自分は別に嬉しくもなんともないと思っていたのだ。

 自分の初めての英雄譚ダージが宮廷詩人によってまれ、玉座の間ダロワージで晴れがましく詠唱えいしょうされた時にも、それ自体には何も感じなかった。

 だが、その詠唱えいしょうでギリスの初陣ういじんでの活躍を知ったイェズラムに、よくやったなとめられ、お前はこの部族を救ったと感謝された時に、養父デンのその少ない言葉が自分には何よりの英雄譚ダージだったのだ。

 それを王宮で生きて待っていた養父デンに聴かせられたことが、一番嬉しかった。

 それがない今、ギリスが守護生物トゥラシェを何体倒そうが、誰が喜ぶというのか。

 イェズラムはもう死んだ。最後の英雄譚ダージを残して、今はもう、養父デンは地下墓所の石でしかない。ギリスの新しい英雄譚ダージまれても、もう聴くことができないのだ。

 新星も、英雄譚ダージがあれば民が喜ぶと、初めにはギリスに言っていたくせに、結局あの殿下はそれを民から取り上げようとしている。

 果たして、そんな非道が許されるのだろうか。

 スィグル・レイラスは史上稀に見る悪虐な王族なのかもしれぬ。

 それを博士に正し、さとしてもらえたら、スィグル・レイラスも少しはまともになるのではないかと、ギリスには思えた。

 考えてみれば、新星はまだ、この蝋板ろうばんを運んで師父アザンのもとに通うジョットたちのような年頃だ。

 元服から二年、敵の虜囚であったり、同盟の人質であったりで、新星はまともな教育を受けてはいない。

 それをあわれみ、しばしの猶予ゆうよを与えたほうがいいのではないか。

 ギリスは歩きながら、自分にそう言い聞かせてみた。

 ジョットが少々馬鹿でも、頭ごなしに叱ったり、まして殴りつけたりするのは、立派なデンにあるまじきことだ。

 かつて養父イェズラムがそうだったように、ギリスもあれを辛抱強くさとし、理解するまで待ってやらねばならない。

 それでこそ新星の兄、射手ディノトリスというものではないか。

 そう納得すると、ギリスの気分はずいぶん良くなった。

師父アザンにさしあげる甘いものは持ってきた?」

 蝋板ろうばんを抱えているジョットたちが、博士の住む学房の扉を前に、お互いに向き合って言った。

「甘いもの?」

 ギリスはジョットたちに聞いた。

「はい。ここの師父アザンは甘いものを食べないと、やる気が出ないんです」

「は?」

 ギリスは心底呆れて、弟たちの顔を見回した。

 弟たちはそれに気まずそうな笑みをして、皆で選んで持ってきたらしい小さな紙の菓子箱を見せてきた。


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