025 石封じ《ダグメル》

 たかはすぐには戻らない。

 風のように飛ぶ銀の矢シェラジールにも、第四大陸ル・フォアを北上する旅は短いものとは言えなかった。

 それでも、早ければ七日、遅くとも十日の後には天使の返事が届くという。

 歩けば三月みつきはかかる旅路だと、いかにも遠いようにスィグル・レイラスは言っていた。

 トルレッキオは地図上ではそう遠くは見えない場所だが、峻厳な山々が連なる先にある。そこへの行程の多くが山道だ。

 鷹の翼だけが、その距離を縮めてくれる。風向きが良いことを祈ろう。

 新星はそう言うが、天使の返事が早い方が良いのかどうか、ギリスにはわからなかった。

 それが天使からの死刑宣告でないと良いが、天使が何と言うかなど、結局のところギリスには見当もつかない。

 何しろ背中に翼が生え、天空を舞い、一撃で街を消し去るような武器を使う奴らなのだ。

 ギリスの魔法がいかに強大でも、そんな天使には到底敵わないだろう。

 あきらめるしかない。

 ギリスはいさぎよくそう思った。

 考えても分からないことを考えると疲れる。

 そんなことに時を費やすよりは、他にやるべき事が今のギリスには沢山あった。

 新星はその後ギリスを殴ってはこない。

 鷹を飛ばした夜、スィグル・レイラスは歩哨ほしょうの塔の上で延々と自身の治癒術を振るったが、殴られたギリスの顔は期待したほど治らなかった。

 れは引いたが青いあとが残り、魔法でいくらかは治ったんだか、それとも治ってないんだか分からない程度だった。

 しばらく使っていなかったからと、スィグル・レイラスは青ざめて言い訳をしていた。

 魔法は使っていないと鈍るものだ。

 だから魔法戦士は死を覚悟しながらでも、日々の鍛錬たんれんを欠かさぬようにしている。

 元々大したもんでもない、頭に石のない魔導士が、しばらく怠けた後にできることなど、たかが知れている。

 ギリスがそう言うと、スィグルはまたあの殴る時の目をしたが、殴らなかった。

 その代わりにスィグルは、お前のせいで寒いとギリスに文句を言い、もうじき夜明けだから眠る暇がないと文句を言った。

 そして、このままの乱れたなり玉座の間ダロワージ朝議ちょうぎに出て、父上に挨拶するわけにはいかないので、急いで戻って風呂に入らねばならず、朝飯を食う暇がないと文句を言った。

 それが全部、ギリスのせいだと新星は言っていた。

 そうなのか。ギリスはそう悩んだが、いちいち反論していてはらちが開かない。

 朝議ちょうぎまでの時間がないのは間違いなかった。

 帰りも鷹匠たかじょうの昇降機を使おうと言うスィグルを説得し、ギリスは第一階層の兵に命じて王族が乗っても良さそうな馬を引いてこさせた。

 あいにくそういう馬の用意は無かったが、王族の礼装で歩いては帰れない。

 幸いタンジールには王宮に向かう王族や貴人専用の道がある。そこなら着崩れた王族の王子が兵士の馬で駆け抜けても、ギリギリ誰にもバレないだろう。

 ギリスはそう思い、兵士の馬のくらが硬いのどうのこうのと、つべこべ文句を言うスィグル・レイラスが乗る馬の尻にむちをくれた。

 まさか落馬はしないだろうと心配したが、この新星は乗馬が上手かった。

 馬は軍馬で、よく訓練されていたが、王族用の大人しい名馬ではない。

 むちに従い、馬はめちゃくちゃに走ったが、スィグルは笑うだけで、振り落とされそうには見えなかった。

 なかなかだな。

 ギリスは満足して新星の乗馬を見たが、手綱たづなさばきがずいぶん荒っぽいのでひやひやした。

 臆病なのか度胸があるのか、さっぱりわからない奴だ。

 予定外の朝駆けとなり、砂じみて汗まみれの帰投となったが、王宮の門で思いがけず足止めされた。

 出て行った記録のない者が馬で駆け戻ったのだから、偽物か、死霊でも出たかと思われたのだろう。

 ギリスは自分の所属を伝え、ついでに門の兵士に自慢の氷結術も見せて好評を博したが、呼び出されて迎えに来たジェレフは怒った顔をしていた。

 デンとはこんなに怒るものかとギリスは驚いた。

 ジェレフは朝議に出るためか正装姿だったが、それでも殴ってきそうだった。

 デンが指輪をしていたので、もしそれをデンが外したら絶対避けなければとギリスは身構えた。

 ジェレフは指輪をした手でジョットどもを殴るような鬼畜ではなかったが、素手なら無いとは言い切れなかった。迎えに現れたジェレフは、そういう目をしていた。

「殿下、居室にお戻りください。護衛も付けず勝手に王宮を出るとは、自殺行為ですよ」

 それでもスィグルには穏やかな声でジェレフはしゃべった。

「僕は王宮からは一歩も出てはいないよ。ギリスが無理矢理、僕を連れ出したんだ」

 スィグルはしれっとそう言った。

 なんだって、と、ギリスは耳を疑ったが、そういえばそうだった。

 第一階層にあった出櫓でやぐらは、スィグルに言わせれば王宮の中だったらしい。

 そこを出て都市の螺旋貫道らせんかんどうに行くには、一旦その出櫓でやぐらの外へ出なくてはならない。王宮の外へ。理屈ではそうだ。

 昇降機で降りるというスィグルを強引に連れ出したのはギリスだった。

 だってあれは危なすぎるだろう。王族が乗るもんじゃないという以前に、人が乗るものじゃないのだ。

 横着おうちゃくをする鷹匠たかじょうの手足がちょん切れるのはいいが、次代じだいの新星がそれでは困るとギリスは判断した。

 間違ってはいないはずだ。

 しかし、ジェレフは自分が連れてきたレダの衛兵が、スィグルを王族の居室のほうへ連れて行くのを見送ってから、急に腕でギリスの首を捕まえてきて、ぎりぎりと締め上げた。

「何を考えてるんだ、お前は。王族なんだぞ、殿下は! お前の遊び仲間じゃないんだ。気軽に連れ歩くんじゃない」

「俺があいつに連れ出されてんだよ。知ってるだろ、ジェレフも」

 引っ捕まえられながら、ギリスは反論した。

「そんな話が王宮で通用すると思ってるのか。少しは自重じちょうしろギリス。お前をかばえる者も、今はそう多くはないぞ」

 小声で教えて、ジェレフはギリスを放り出し、後ろ頭をてのひらでばしんと叩いた。

 そう強くはなかったが、デンこらえている怒りがこもった一撃だった。

「痛えな、ジェレフ」

 ギリスは文句を言った。

「嘘をつくな嘘を! お前が痛いわけないだろ。自分の個人房へやに戻れ。玉座の間ダロワージにはしばらく顔を出すなよ」

 念を押すように言うジェレフの言葉に、ギリスは困った顔をするしかなかった。

 派閥のデンの命令は絶対だが、でもギリスには役目もある。

「それは無理だよ。俺はあいつを守らなきゃいけないんだ。族長の命令だしさ」

「はぁ!?」

 奇怪なものでも見せられたように、デンは呆れて軽く叫んでいた。

「そんなわけないだろ。リューズ様がそんなことお前に命じるわけがない」

 デンはよっぽど自分の考えに自信があるようで、ギリスを全く信じていないようだった。

 でも本当だ。族長は晩餐の後にそう言っていた。

 お前が張り付いて息子を守れと、確かに命じられた。

 族長はこの部族でもっとも位の高いデンなのだ。

 それを凌げるのは族長の射手であり、乳兄弟の兄でもあったイェズラムだけだった。

 つまり、族長の命令があれば、ジェレフの言うことを聞く必要はない。

「本当だもん。嘘だと思うなら朝議で族長に聞けよ」

「族長が認めたということか。お前がレイラス殿下の射手だと」

「別にそうは言ってないけど」

 族長にそんな話をしたか、ギリスには覚えがなかった。ただ隣で飯を食っただけだ。

「リューズ様は察しのいい方だ。あれで十分だよ」

 やれやれと言うように重いため息をつき、ジェレフはなぜか気が重いようだった。

 ギリスは黙ってデンを見つめた。デンが何を嘆いているのか、ギリスには分からなかった。

「何がいけなかった」

 仕方ないので、ギリスは聞くことにした。わからないことは聞くに限る。

 ジェレフはそれにまた、うるさそうなため息をついた。

「そりゃ、いけないだろ。リューズ様がご健在のうちに、次の玉座の話など不敬だ。ご気分が良いはずはない」

「族長のご気分を気にするのは俺の仕事じゃない」

 ギリスが安心して応えると、デンは苦々しい笑い方をして、すでにくしゃくしゃの束髪のギリスの頭を撫でた。

「じゃあ、お前はせいぜい頑張って長生きして、新時代の英雄になるんだな」

 礼服のふところを探って、エル・ジェレフは何かを取り出しギリスに見せた。

 小さな薬箱だった。

 経口の薬や、あるいは毒を持ち歩くために英雄たちが使うものだ。

 意匠を凝らしたものを王都の職人たちが作り、竜の涙に売りつける。

 ジェレフが持っていたものは、貝の殻でできていた。淡く光る白い貝殻を伸して、丸みのある箱の形にしたものだ。縁取りと掛け金は金細工でできていて、異国情緒のあるものだった。

 綺麗だなとギリスは思った。海やら船やら、部族の物語には出てくるが、ギリスは自分の目で海を見たことはない。

「持っとけ。ちゃんとむんだぞ」

「なにこれ」

 毒でもくれたのかと思って、ギリスは顔をしかめた。

 竜の涙は自決用の毒を持っているものだ。石の症状が悪化して、もう生きていられない気がしたら死ねるように、誰も彼もが持ち歩いている。

 しかし、ギリスは持っていなかった。そんなものが必要と思えなかったので。

「毒?」

「馬鹿。違うよ。石封じダグメルだ。施療院から預かってきた」

「こんなのみたくないよ。すごく不味いんだぜ。知らねえんだろジェレフは」

美味うまい薬なんかないよ」

 ふふふと可笑おかしそうに笑い、ジェレフはその小さい薬箱をギリスのふところに勝手に入れてきた。

個人房へやに戻ったら、さっそく一粒め。毎日一個だぞ。忘れるんじゃない。お前の魔法はちょっと抑えるぐらいでも十分だろ」

「お前もそうだろ」

 ギリスが不満の声で言うと、ジェレフは困ったようだった。

 そしてデンは急に神妙な顔になり、ギリスに言った。

「ギリス。長く生きてもあと十数年だ」

「嫌だ」

 急に突きつけられたその話に、ギリスは思わずうめいた。

「大丈夫だ」

 ギリスを宥めるように、ジェレフは言った。

「お前はきっと他の竜の涙より長く生きる。だからエル・イェズラムはお前を射手に選んだんだと俺は思う。お前は強い。でも、それだけでは、何かを成し遂げるのに俺たちの一生は短すぎる。少しでもいい、その薬で時間を作るんだ」

「ジェレフ。お前が服め」

 ギリスは薬を返そうと懐に手を入れたが、取っておけという仕草でジェレフがそれを止めた。

 ジェレフはギリスより、とおも年上だった。

 その計算は単純で、ギリスは考えたくなかった。

「あいにく治癒者に休みはなくてね。けどお前は休んでろ、ギリス。またお前の魔法が必要になるまで」

「嫌だ」

 心底嫌で、ギリスはぼやいたが、デンが気にするとは思えなかった。

 ギリスが少々ごねたところで、死の天使ノルティエ・デュアスはいつも容赦がない。

 時が来れば、ジェレフも連れ去っていくだろう。イェズラムの時のように。

 皆そうやって、この王宮からいなくなってしまうのだ。

「殿下によくお仕えして。ああ見えて優しい子だよ」

「どう見たら優しい子なんだ」

 ギリスのそのぼやきには、ジェレフは励ますように肩を叩いてきた。

「俺はもう行かないと朝議が終わっちまう。族長に出立しゅったつの挨拶をするんだ」

出立しゅったつってなんだよ」

「巡察だよ。次はタンジールより西へ行く。王都を出るのはまだ少し先だけど、旅程が整ったんで族長に報告する」

 ギリスはしかめっつらで押し黙った。

 ジェレフがいないんじゃ、怪我には気をつけなきゃいけないだろう。魔法であっという間に治してくれるデンがいないんじゃ、うっかり大怪我をしたら死ぬかもしれない。

 嫌だなと、ギリスは内心で思った。王都には本当に誰もいなくなってしまう。

「いつ帰るんだ」

「ひと月かふた月したら」

「そんな先じゃあ、スィグルの帰還式に間に合わないだろ」

 ギリスが驚くと、ジェレフは頷いていた。

「そういうことだよ。それが派閥の結論だ。もうちょっと王都にいられると思ったんだが」

 ジェレフは追い出されたのだ。

 派閥の皆はジェレフを、スィグル・レイラスの帰還式に関与させたくないのだろう。

 本来なら派閥を挙げて協力してくれたってよさそうなもんだ。イェズラムの遺志なんだから。

 皆はイェズラムが選んだ星を信じていないのだろうか。

 養父デンが生きてた時には、皆あんなに忠実だったくせに。死んだぐらいでイェズラムを忘れるなんて、卑怯な連中だ。

 裏切られた気持ちで、ギリスはジェレフに渡された薬入れを、懐に感じる違和感とともに握りしめた。

「ギリス。行列に参加する魔法戦士を集める策はあるのか」

「ないよ、そんなもん」

「わかった、俺も何か考える」

 ジェレフはあっさりとそう言って、またギリスの頭を撫でた。

「大丈夫だから、お前も風呂入ってこいよ。臭いぞ、エル・ギリス」

 はっきりとそう言うジェレフの言葉に、ギリスは衝撃を受けた。

「え!? 臭いの!? 俺!?」

 ジェレフは真面目な顔で頷いている。

 派閥では、身だしなみにうるさい。デンたちは大抵どんな時も、きりっとしている。

 それはデンだったイェズラムが洒落者しゃれものだったからだ。派手に着飾るわけではないのに、養父デンはいつも格好がよく、誰かがだらしないなりをしていると、いつも無言で眉をひそめた。

 養父デンはいつも王宮の竜の涙の手本だったのだ。

 俺は今、だらしないんじゃないか。ギリスはそれにやっと気づき、少しおろおろしてきた。

 その目を見て、ジェレフがにやっと笑って言った。

「風呂に入って薬飲め。それからちょっと寝ろ。殿下にはレダの護衛を手配した。安心しろ」

「ジェレフ。行かないでよ」

 ギリスはやっと言うべき言葉が見つかった気がして、そう言った。

「悪いな。悪党ヴァンギリス。お前にそう言われると俺は気色悪い」

 ジェレフは満足げに言うと、ギリスの肩を叩いて去った。

 デン玉座の間ダロワージに行くのだ。そして近々、王都からいなくなる。

 誰を頼れる訳でもないのだ。

 そう思うと、胃のあたりがもやもやとした。

 おそらく腹が減っているのだろう。ギリスはそう思った。

 だが、しばらく眠って、飯を食ったら、きっと忘れられる。そんなことで立ち止まっている暇はもうないのだ。

 懐にある貝の薬入れを握ると、そこに時間が詰まっている気がした。

 時間が欲しい。早く皆が見上げるような英雄になりたい。

 だが、それは自分の死に近づくことでもあり、どうすればいいのかギリスにはわからなかった。

 どうすれば。そう悩みながらギリスは自分の個人房へやを目指して、王宮の廊下を足早に歩き出した。

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