023 鷹通信《タヒル》

 スィグル・レイラスは弟を頼むとジェレフに告げ、ギリスを連れて居間に向かった。

 大人しく付いていくしかない気がして、ギリスは新星の後に従い、絢爛けんらんな装飾で満たされた王族の居室の居間に戻った。

 その部屋の隅には美しく螺鈿らでんを散らした黒い文机があり、天板にはぐるりと周囲を取り囲むように花が咲き、はちが飛ぶ意匠が描かれている。

 殿下の紋章の雀蜂スズメバチをあしらったものと思われたが、雀蜂スズメバチは肉食の蜂で、花の蜜は吸わないはずだ。花なんかあってもしょうがないはずなのにと、ギリスは不思議に思った。

 しかし今はそれを言うのは止した。

 スィグルがもうインクにペンをひたしていたからだったし、机の上に鷹に持たせて飛び立たせるための薄紙が広げられていたからだった。

「何と書いて欲しい、ギリス。天使にいたい慈悲はあるか」

 嬉しげに微笑して、スィグル・レイラスは背後に座っていたギリスを振り返り、薄赤い唇で言った。

「お前をゆるして従えるべきか、僕は天使に聞こうと思う。神聖なる猊下げいかにご裁定をあおぎ、猊下げいかゆるすと言えば、僕もお前を許してやってもいい。この世界で最も神聖な種族の裁きを受けろ」

 ギリスをビビらせようと思っているのか、スィグル・レイラスは物々ものものしい口調で言った。

 ギリスはそれに素直にビビっていた。

 頭が真っ白になり、息ができない気分だった。

 もしかしてこれが、皆の言う恐怖ってやつではないかと、ギリスは薄らと思った。

 それが分かったところで嬉しくはない。何と答えたらいいのか、ギリスには全く分からなかった。

 天使に裁かれる時にどうすべきか、賢かった養父デンもあいにく教えてはくれていない。ギリスも聞かなかった。そんな機会があるなどと、想像すらしなかったのだ。

 この世に天使がいることは、聖堂の司祭たちも口うるさく言うので知っているが、そんなものは地獄と同じで、ギリスにとってはほとんど実在の怪しいものだった。生きているうちに目にすることはないものだ。

 もし、こうなると分かっていたら、たぶん養父デンに詳しく聞いただろうが、イェズラムはもう墓の中だ。

 今すぐ墓所に行って、養父デンひつぎすがりたい気がした。

 イェズラム、やばい。もしも天使が死ねと返事してきたら、俺は死ぬのだろうか。それはどんな死だ。

 月と星の船に俺は乗れるのか。

「天使に言ってくれ。俺は部族の英雄で、もう立派に戦ったんだって。ヤンファールで。何なら英雄譚ダージも聴いてもらってくれ」

 嫌な汗をかきながら、ギリスはスィグル・レイラスに頼んだ。

「そんな長い文章は送れない。鷹通信タヒルだぞ」

 冷たく拒んでスィグル・レイラスは言った。

「じゃあ一番良いところだけでも!」

 ギリスはおがみたい気分で頼んだが、スィグルは意地悪そうに片眉を上げ、どうしようかなという顔をした。

「良いところって何だよ。悪いけどお前の英雄譚ダージを本当に知らないんだ。つまんで話せ」

 スィグルはペンをゆらゆらさせて見せて、本当に憎ったらしい顔で言った。

 こんな奴が新星なわけがあるかとギリスは確信したが、今はそれどころじゃない。

「ヤンファールで守護生物トゥラシェを十四体倒した。一気にだ。俺が魔法で全部やった。初陣ういじんだったんだぞ」

「嘘だ。それは詩人の誇張表現だ。そんな英雄譚ダージ聴いたこともない」

「本当だって!」

 ギリスは困って、なんで信じないんだよと情けなくなった。

 スィグルも本当は同じ場所にいたのに、こいつは穴蔵あなぐらに埋められてて見てないせいだ。

 もし見てたら今も、俺に感謝してたはずだ。ジェレフにじゃなく。

 ヤンファールでは守護生物トゥラシェの防衛が厚く、それまで誰もそこを突破できずにいた。見渡す限りの平原で、隠れる場所もない。

 守護生物トゥラシェには、何か分からない石礫いしつぶてを撃ってくる奴もいて、当たれば兵の体が溶けた。

 皆、恐ろしがって突撃できない。

 それでイェズラムが、俺に先陣を切れと命じた。それについていけと魔法戦士隊に命じ、皆で馬で駆けたのだ。

 その隊の何人かは死んだ。よく憶えていない。

 走れるかぎり駆けて、殺せる限り殺せと命じられた。だから一度も振り返らずにギリスはそうした。

 目隠しをした馬にむちを振るい、戻ることなど考えず突撃した。

 この一戦限りで死んでもいい。必ず英雄譚ダージに歌われる戦になるだろう。

 だが。

 生きて戻れと、イェズラムはギリスを送り出す時に言った。

 それは命令ではなかった。

 そして、お前は嫌なら行かなくていい。代わりに自分が行くとイェズラムが言ったので、ギリスは引き受けることにした。

 イェズラムは歴戦の勇者で、既に頭の中の石がえており、次に戦えば恐らくその一戦で命が尽きるのではと思えた。

 自分の死より、養父デンのいない世の方が、ギリスには耐えがたく思えたのだ。

 そのことは、あいにくギリスの英雄譚ダージには載っていない。詩人は書かなかった。

 族長リューズ・スィノニムの命令を受け、エル・ギリスは忠実に戦ったことになっている。

 嘘ではないが、族長に命じられてもギリスは行かなかっただろう。

 そもそも族長はダメだと言っていた。イェズラムが族長と王宮で作戦を話し合っていた時、その場にギリスも呼ばれたが、族長はギリスはまだ幼すぎると言っていた。

 魔法戦士の初陣ういじんは十六と、とうの族長が決めていたのだ。

 昔は元服すればすぐ戦線に投じられていたようだが、それはむごいと族長が拒んでいた。

 イェズラムももちろん知っていただろう。

 それでも養父デンはギリスが十六歳だと族長に嘘をついた。

 族長はギリスの本当の歳を知っていたはずだ。あの男はえらく英雄たちに詳しい。

 それでも、あの時、族長は撃破したかったのだ。敵を。

 あと二年、ギリスの成長を待てない理由があった。

 ヤンファールの地下の穴蔵の中に。

 族長はギリスを殺してでも、息子を二人、救い出したかったのだ。

 だからギリスに魔法戦闘の攻撃許可を出した。

 それ以来ギリスはあの男が嫌いだった。

 なのにイェズラムを嫌いにはなれない。それがなぜなのか、ギリスにも分からなかった。

英雄譚ダージは本当だ。お前とあのイカレた弟の命を助けたくて、族長は俺を使ったんだよ。お陰で助かったんだろ。お前が生きてるのが何よりの証拠じゃないか。本当じゃないと思うなら、そこらの奴に聞け。ヤンファールで戦った奴は皆知ってる」

「ギリス……」

 青ざめてスィグルはこちらを見ていた。

「お前、その戦闘のせいでおかしいのか」

 スィグルは悲しい顔をして、ギリスの額にある石を見ていた。

 氷の欠片のような白濁した石がギリスの額から生えている。

 ギリスは目を瞬いた。

「いや? 実はあんまり石がデカくならなかったんだよ。イェズラムも族長も俺がヤンファールの初陣で死ぬと思ってたらしいが、そんなことなかった。次の日からしばらくベロがしびれてたけど」

「ベロが……」

 青ざめてスィグルが言った。

 そんなことで同情するなんて、案外優しい奴なのかなとギリスは思った。

「気にすんな。もう終わったことだしな。今はベロもしびれてな……いや気にしろ! 天使に俺は命の恩人だって書け! 何もかも本当だって」

 途中で気づいてギリスは話を変えた。それを新星はなんとも言えない表情かおで青ざめて見ていた。

「お前、ヤンファールで死ぬかもしれなかったんだぞ」

 ギリスを見つめて、スィグルは怒ってるみたいに言った。

「そうだよ。有難ありがたがれ」

「そんな価値が僕にあると思ってたのか」

 にらむ目で新星はギリスに問うてきた。

「いいや……」

 少し迷ったが、ギリスは正直に答えた。

 そんなこと思うわけがなかった。全然知らない王子だったし、どんな奴かも記憶になかったほどだ。

 イェズラムの命令でなければ、ギリスにはどうでもいい相手だった。助かろうがどうなろうが、知ったことではない。

 そんなことを教えたら、またスィグルが怒って殴ってくるかと思ったが、新星はただ項垂うなだれて目を伏せただけだった。

「なんでだよ。それならなぜそんな滅茶苦茶な命令を聞いたんだ。お前、その時、十四歳だろ。今の僕と同じ年だ。父上が本当にそんなことをお命じになったのか」

 文机で肩を落としてそう言うスィグルは、確かに小柄で、とても部族の命運を背負う戦をするようなたまには見えなかった。

 王宮のそこらじゅうにいる竜の涙のジョットたちを見ても、元服したばかりの彼らはギリスには子供に見えた。

 そんな奴に助けを乞うた族長も、イェズラムも、正気ではなかったのかもしれない。

 だが、あの時、唯一の手だった。

 ギリスにはそう思えた。

 幾万の兵を費やして進撃するのでも良かっただろうが、それよりもまず、やってみる価値があっただろう。

 小僧一人を石につぶさせて、それで大勢が生き残るなら、やってみる価値があった。

 そのおかげで、この新星も救い出せたのだ。

 そう考えると何かが胸苦しく、スィグル・レイラスの側に胡坐こざしたまま、ギリスは自分の膝を覆う長衣ジュラバすそを握りしめた。

「ヤンファールは撃破しなくちゃならなかった。あの平原の向こうまで敵を押し返すことができれば、族長の親父の代で失った領土を回復できたんだ。それはこの部族の悲願だと、お前の親父は言ってた」

「だから戦えって父上がお前に命じたのか」

「お前の親父は俺に何も命じてない。ただ、約束はした。もし生きて戻れたら、なんでも俺の自由にしていいって」

 その時のことを思い返しながら、ギリスは話した。

 そう言えば族長はそう言った。なんでも自由にしていい。戻ったら、お前は自由だ。もう戦わなくても良いと、約束した。

 だからこの一戦、皆を救ってくれないか。

 そう言う族長が考えていた、皆というのが誰のことなのか、ギリスには分からない。

 虜囚だった双子の王子、スィグル・レイラスとスフィル・リルナムのことだったのか。

 それとも、あの時、族長リューズ・スィノニムの戦陣にいた幾千幾万の兵のことだったのか。

 それとも、あの男自身のことだったのか。

 図々しい頼みだと、ギリスは思った。そんなものがどこまで大事か、ギリスには分からなかった。

 でも、ただ自分は、イェズラムを助けたかったのだ。

 その戦を最後に養父デンが死せる英雄となり、輝かしい英雄譚ダージまれる、その瞬間を、少しでも先に延ばしたかった。

 ただその一心で戦場を駆け抜けた。

 それを天使はもう、ゆるしたはずだ。ギリスは生きて戻った。

 天使が全能だというなら、ブラン・アムリネスはこの世のどこかで、それを見ていたはずだ。俺の勇姿を。そうじゃないのか?

「スィグル。俺には良く分かんないけど、英雄には戦うべき時がある。俺にはそれがヤンファールだったんだ。死ぬのは嫌だったけど、戦うのは嫌じゃなかった。それだけだよ。別にお前やあの弟を助けに行くから戦ったんじゃない。俺にも俺のいくさがあるんだよ」

「魔法戦士らしいね」

 めているわけではなさそうな口調で、スィグルはぐったりと皮肉に答えてきた。

 何が気に食わないのか、ギリスには分からなかった。

 気の毒な王子を助けるために、魔法戦士隊に決死のいくさを戦ってほしかったのか?

 そんな古い英雄譚ダージみたいな話が、本当にあるわけないだろう。

 ギリスもなぜか元気が出ず、ぐったりとして肩を落とした。

「手紙を書くよ。猊下げいかに。僕は困ったら相談していいんだ。ブラン・アムリネスに。いつでも鷹通信タヒルを飛ばしていいって、トルレッキオで別れる時に約束した」

 すぐに大きなデンに告げ口するきもの小さい小英雄のように、スィグルはぶつぶつと言っていた。

 ギリスはもうそれ以上、言うことはなかった。

 天使は知っているはずだ。俺のことを。生きて帰りたいという望みを聞き届けたのだから。

 ギリスの石は奇跡的に、あまり成長しなかった。振るった大魔法の割にはだが。

 それを皆は奇跡だと言った。奇跡。それなら天使の領分だっただろう。

 ブラン・アムリネスかどうかは分からないが、その一員だった天使が、俺を見捨てるはずがない。

 ギリスはそう信じることにした。

 スィグル・レイラスはギリスが見ている前で、おそろしく小さい字を書いた。鷹通信タヒルに使うペンは、まるで幼児の髪の毛のような細い線で書くことができるものだが、それにしてもスィグルの書く字はものすごく細密だった。

 一体どんな長い告げ口を天使にしているのか。

 ギリスはそれを読みたかったが、読ませてもらえなかった。

 卑怯だぞ、お前。ギリスは内心で悪態をついたが、言っても無駄と思えた。

 相手は王族だ。我が儘な連中なのだ。

 あの族長にしたってそうだ。自分の息子ほどの歳の魔法戦士に、泣いてすがり付けるような男なのだから。

「まだ夜明け前だけど。鷹通信室に行こう。トルレッキオまで飛べる鷹をお前にも見せるよ」

 書き終えて、吸い取り紙でインクを押さえた後の手紙を、スィグルはくるくると器用に小さな巻物にしながら、居室へやを出るようギリスを誘った。

 そんなところに付いていく必要があるのかと、ギリスには疑問だったが、新星が命じるのだ。行くしかない。

 薄灰色の長衣ジュラバすそを払い、ギリスは立ち上がった。

 

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