023 鷹通信《タヒル》
スィグル・レイラスは弟を頼むとジェレフに告げ、ギリスを連れて居間に向かった。
大人しく付いていくしかない気がして、ギリスは新星の後に従い、
その部屋の隅には美しく
殿下の紋章の
しかし今はそれを言うのは止した。
スィグルがもうインクにペンを
「何と書いて欲しい、ギリス。天使に
嬉しげに微笑して、スィグル・レイラスは背後に座っていたギリスを振り返り、薄赤い唇で言った。
「お前を
ギリスをビビらせようと思っているのか、スィグル・レイラスは
ギリスはそれに素直にビビっていた。
頭が真っ白になり、息ができない気分だった。
もしかしてこれが、皆の言う恐怖ってやつではないかと、ギリスは薄らと思った。
それが分かったところで嬉しくはない。何と答えたらいいのか、ギリスには全く分からなかった。
天使に裁かれる時にどうすべきか、賢かった
この世に天使がいることは、聖堂の司祭たちも口うるさく言うので知っているが、そんなものは地獄と同じで、ギリスにとってはほとんど実在の怪しいものだった。生きているうちに目にすることはないものだ。
もし、こうなると分かっていたら、たぶん
今すぐ墓所に行って、
イェズラム、やばい。もしも天使が死ねと返事してきたら、俺は死ぬのだろうか。それはどんな死だ。
月と星の船に俺は乗れるのか。
「天使に言ってくれ。俺は部族の英雄で、もう立派に戦ったんだって。ヤンファールで。何なら
嫌な汗をかきながら、ギリスはスィグル・レイラスに頼んだ。
「そんな長い文章は送れない。
冷たく拒んでスィグル・レイラスは言った。
「じゃあ一番良いところだけでも!」
ギリスは
「良いところって何だよ。悪いけどお前の
スィグルはペンをゆらゆらさせて見せて、本当に憎ったらしい顔で言った。
こんな奴が新星なわけがあるかとギリスは確信したが、今はそれどころじゃない。
「ヤンファールで
「嘘だ。それは詩人の誇張表現だ。そんな
「本当だって!」
ギリスは困って、なんで信じないんだよと情けなくなった。
スィグルも本当は同じ場所にいたのに、こいつは
もし見てたら今も、俺に感謝してたはずだ。ジェレフにじゃなく。
ヤンファールでは
皆、恐ろしがって突撃できない。
それでイェズラムが、俺に先陣を切れと命じた。それについていけと魔法戦士隊に命じ、皆で馬で駆けたのだ。
その隊の何人かは死んだ。よく憶えていない。
走れるかぎり駆けて、殺せる限り殺せと命じられた。だから一度も振り返らずにギリスはそうした。
目隠しをした馬に
この一戦限りで死んでもいい。必ず
だが。
生きて戻れと、イェズラムはギリスを送り出す時に言った。
それは命令ではなかった。
そして、お前は嫌なら行かなくていい。代わりに自分が行くとイェズラムが言ったので、ギリスは引き受けることにした。
イェズラムは歴戦の勇者で、既に頭の中の石が
自分の死より、
そのことは、あいにくギリスの
族長リューズ・スィノニムの命令を受け、エル・ギリスは忠実に戦ったことになっている。
嘘ではないが、族長に命じられてもギリスは行かなかっただろう。
そもそも族長はダメだと言っていた。イェズラムが族長と王宮で作戦を話し合っていた時、その場にギリスも呼ばれたが、族長はギリスはまだ幼すぎると言っていた。
魔法戦士の
昔は元服すればすぐ戦線に投じられていたようだが、それは
イェズラムももちろん知っていただろう。
それでも
族長はギリスの本当の歳を知っていたはずだ。あの男はえらく英雄たちに詳しい。
それでも、あの時、族長は撃破したかったのだ。敵を。
あと二年、ギリスの成長を待てない理由があった。
ヤンファールの地下の穴蔵の中に。
族長はギリスを殺してでも、息子を二人、救い出したかったのだ。
だからギリスに魔法戦闘の攻撃許可を出した。
それ以来ギリスはあの男が嫌いだった。
なのにイェズラムを嫌いにはなれない。それがなぜなのか、ギリスにも分からなかった。
「
「ギリス……」
青ざめてスィグルはこちらを見ていた。
「お前、その戦闘のせいでおかしいのか」
スィグルは悲しい顔をして、ギリスの額にある石を見ていた。
氷の欠片のような白濁した石がギリスの額から生えている。
ギリスは目を瞬いた。
「いや? 実はあんまり石がデカくならなかったんだよ。イェズラムも族長も俺がヤンファールの初陣で死ぬと思ってたらしいが、そんなことなかった。次の日からしばらくベロが
「ベロが……」
青ざめてスィグルが言った。
そんなことで同情するなんて、案外優しい奴なのかなとギリスは思った。
「気にすんな。もう終わったことだしな。今はベロも
途中で気づいてギリスは話を変えた。それを新星はなんとも言えない
「お前、ヤンファールで死ぬかもしれなかったんだぞ」
ギリスを見つめて、スィグルは怒ってるみたいに言った。
「そうだよ。
「そんな価値が僕にあると思ってたのか」
「いいや……」
少し迷ったが、ギリスは正直に答えた。
そんなこと思うわけがなかった。全然知らない王子だったし、どんな奴かも記憶になかったほどだ。
イェズラムの命令でなければ、ギリスにはどうでもいい相手だった。助かろうがどうなろうが、知ったことではない。
そんなことを教えたら、またスィグルが怒って殴ってくるかと思ったが、新星はただ
「なんでだよ。それならなぜそんな滅茶苦茶な命令を聞いたんだ。お前、その時、十四歳だろ。今の僕と同じ年だ。父上が本当にそんなことをお命じになったのか」
文机で肩を落としてそう言うスィグルは、確かに小柄で、とても部族の命運を背負う戦をするような
王宮のそこらじゅうにいる竜の涙の
そんな奴に助けを乞うた族長も、イェズラムも、正気ではなかったのかもしれない。
だが、あの時、唯一の手だった。
ギリスにはそう思えた。
幾万の兵を費やして進撃するのでも良かっただろうが、それよりもまず、やってみる価値があっただろう。
小僧一人を石に
そのおかげで、この新星も救い出せたのだ。
そう考えると何かが胸苦しく、スィグル・レイラスの側に
「ヤンファールは撃破しなくちゃならなかった。あの平原の向こうまで敵を押し返すことができれば、族長の親父の代で失った領土を回復できたんだ。それはこの部族の悲願だと、お前の親父は言ってた」
「だから戦えって父上がお前に命じたのか」
「お前の親父は俺に何も命じてない。ただ、約束はした。もし生きて戻れたら、なんでも俺の自由にしていいって」
その時のことを思い返しながら、ギリスは話した。
そう言えば族長はそう言った。なんでも自由にしていい。戻ったら、お前は自由だ。もう戦わなくても良いと、約束した。
だからこの一戦、皆を救ってくれないか。
そう言う族長が考えていた、皆というのが誰のことなのか、ギリスには分からない。
虜囚だった双子の王子、スィグル・レイラスとスフィル・リルナムのことだったのか。
それとも、あの時、族長リューズ・スィノニムの戦陣にいた幾千幾万の兵のことだったのか。
それとも、あの男自身のことだったのか。
図々しい頼みだと、ギリスは思った。そんなものがどこまで大事か、ギリスには分からなかった。
でも、ただ自分は、イェズラムを助けたかったのだ。
その戦を最後に
ただその一心で戦場を駆け抜けた。
それを天使はもう、
天使が全能だというなら、ブラン・アムリネスはこの世のどこかで、それを見ていたはずだ。俺の勇姿を。そうじゃないのか?
「スィグル。俺には良く分かんないけど、英雄には戦うべき時がある。俺にはそれがヤンファールだったんだ。死ぬのは嫌だったけど、戦うのは嫌じゃなかった。それだけだよ。別にお前やあの弟を助けに行くから戦ったんじゃない。俺にも俺の
「魔法戦士らしいね」
何が気に食わないのか、ギリスには分からなかった。
気の毒な王子を助けるために、魔法戦士隊に決死の
そんな古い
ギリスもなぜか元気が出ず、ぐったりとして肩を落とした。
「手紙を書くよ。
すぐに大きな
ギリスはもうそれ以上、言うことはなかった。
天使は知っているはずだ。俺のことを。生きて帰りたいという望みを聞き届けたのだから。
ギリスの石は奇跡的に、あまり成長しなかった。振るった大魔法の割にはだが。
それを皆は奇跡だと言った。奇跡。それなら天使の領分だっただろう。
ブラン・アムリネスかどうかは分からないが、その一員だった天使が、俺を見捨てるはずがない。
ギリスはそう信じることにした。
スィグル・レイラスはギリスが見ている前で、おそろしく小さい字を書いた。
一体どんな長い告げ口を天使にしているのか。
ギリスはそれを読みたかったが、読ませてもらえなかった。
卑怯だぞ、お前。ギリスは内心で悪態をついたが、言っても無駄と思えた。
相手は王族だ。我が儘な連中なのだ。
あの族長にしたってそうだ。自分の息子ほどの歳の魔法戦士に、泣いて
「まだ夜明け前だけど。鷹通信室に行こう。トルレッキオまで飛べる鷹をお前にも見せるよ」
書き終えて、吸い取り紙でインクを押さえた後の手紙を、スィグルはくるくると器用に小さな巻物にしながら、
そんなところに付いていく必要があるのかと、ギリスには疑問だったが、新星が命じるのだ。行くしかない。
薄灰色の
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