022 天使

 これも避けてはいけないのか、と、ギリスは難しく思った。

 スィグル・レイラスは本気で殴りかかってきたようだが、それを避けるのはギリスには別に難しくなかったからだ。

 痛みを感じないとはいえ、そう何度も顔を殴られるのは困る。

 顔はかばえとイェズラムも言っていた。英雄の顔が、そう度々見る影もなくなると、格好がつかない。

 養父デンの言うことはもっともだ。

 ギリスも、怒りっぽい同輩と喧嘩になり、勢いで殴り合いになると、その度に自分の顔が腫れ上がるのに衝撃は受けた。

 お前はせっかく面相めんそうは良いのだから大事にしろと、養父デンはいつも苦笑していた。

 顔も大事なのだ。英雄には。

 容姿は問題ではないと言う癖に、この部族では誰も彼もが面相風体めんそうふうていの良い英雄を好む。

 ジェレフなどは生来の能力も高いが、誰よりも見栄えがいい。そのせいで族長もこいつを気に入っているのだ。自分の横にはべらせるときに、絵になるからだ。そうに違いない。

 ギリスはそう信じていたし、たぶん間違っていないはずだった。

 養父デンも他にはいないような、長身の男前だった。

 それは関係ないと養父デンは呆れていたが、そんなことが本当とは思えなかった。

 ギリスもなるべく背が高くなりたいと願っていた。そのほうが絶対に格好がいいからだ。

 しかし未だ期待したほどの長身にはならず、ギリスは焦っていた。人は永遠に背が伸びるわけではないらしいからだ。

「なんで殴るんだよ……」

 避けたい気持ちを噛み締めたまま、ギリスは殴られた。

 それからスィグルに文句を言ったが、乱れた礼装のままの王子は怒った顔で息をするだけで、何も言わなかった。

 養父デンはなぜ避けるなと言ったのだろう。王族が顔を殴ってきた場合に、具体的にはどうするか、そういえば詳しく聞いていなかった。なぜ聞き忘れたのか、迂闊うかつだった。

 そういう時に相手に顔を殴らせずに、なおかつ素直に殴られるなんて、曲芸ではないか。

 大人しく殴られたギリスを、ジェレフが驚いた顔で見ていた。まさに唖然だ。

 まさかギリスが避けないとは、ジェレフも思わなかったのだろう。

「殿下……」

 言葉が出ないという顔で、ジェレフはやっとそれだけ言った。

 新星は自分の手を押さえて屈み、わなわな震えていた。

「くっそ……痛い! まただ、この馬鹿! ぼけっとしやがって、僕が殴ったらちょっとは痛がれ!」

 乱れ髪のスィグル・レイラスは黄金のかんざしを振り落としながら、そう怒った。

 痛いふりをするとは、ギリスは思いつかなかった。

 そうか、痛いふりすればいいんだと、ギリスはまた同じ側を殴られた自分の左頬を押さえて、びっくりしていた。

 スィグル・レイラスは右利きだ。利き手で殴ってくるのは当然だが、ろくに拳も固めずに殴るので、自分の手のほうが壊れるだろう。

 戦闘の出だしでいきなり利き手を壊すとは、馬鹿なのかと、ギリスは新星を危ぶんだ。

 こいつ、拳術は使わないんだな。人を殴ったことがない。

 たぶんまた指が折れてる。そういう感触がした。

 たった今、ジェレフが治癒術で直したのに、また骨折したぞ。

「殿下……手を……」

 スィグル・レイラスの痛がりようで察したのか、ジェレフは呆れを隠した声で、手を診せるように王子に促していた。

「もういい。施療院から人を呼ぶから。ジェレフが治すようなもんじゃない。くそ……なんて固いつらだ。お前のせいでしばらく筆も持てなくなったぞ!」

 ギリスを黄金の目で見て、スィグル・レイラスは憎々しげに言った。

 何言うんだ、お前が自分で殴ったんだぞ。ギリスは呆れたが、言うとまた殴られそうな気がした。

「筆なんか持てなくても別にいいだろ。何に使うんだよ。学院からも締め出されてるくせに」

 代わりにそう言うと、スィグル・レイラスはいつかギリスが猛獣の檻で見た、黒雷獣アンサスが怒った時のような顔をした。目が金色で体は真っ黒の、でかい猫みたいなやつだ。可愛いが、うっかりしていると人を食う。

 まるでスィグルみたいだ。王族が殴りかかってくるのを、ギリスは初めて見た。

「うるさいな。そんなことまで知ってるのか」

 スィグルはがっかりしたように、寝台の端に腰掛け、ぐったりとした。

 手が痛いのか、新星はまた苦悶するような顔だ。

「殿下。手を治させて。施療院はもう夜勤だ。眠れる時に眠らせてやってくれ」

 ジェレフはそう言って、肩を落としているスィグル・レイラスの右手を取り、もう一度、治癒術で治したようだった。

 スィグルはそれを拒まなかった。ジェレフに治させたほうが自分には楽なのだから、拒むわけはない。

 治癒術はジェレフにとってはそう難しいものでもないだろう。瀕死の怪我だって治せるのだから。

「俺の顔も治してよ」

 ギリスは大人しく順番を待っている顔で頼んだ。当然そうなるのだと思っていた。

「知るか。自分で治せ」

 うんざりしたようにジェレフが答えた。

「え!? なんでだよ。殿下そいつは治してやるのに、なんで俺はダメなんだよ!?」

 不当だと思ってギリスはデンに食いついたが、ジェレフは冷たかった。

「お前のつらがぐちゃぐちゃでも俺は困らん。ほっとけば治るよ、ギリス。大丈夫、前より男前だ。惚れ惚れするよ」

 明らかに嘘だと思うことをデンは平気で言った。

「殿下、ギリスを殴る時は親指は中にしまって、指はしっかり握りこみ、ここを当ててください」

 ジェレフは新星の手を握り、正しい殴り方を教えていた。

 スィグルは興味深そうに真剣に聞いている。

 なに教えてんだよと、ギリスは焦った。そのせいで今後、殿下が気軽にちょいちょい俺を殴ってきたら、どうしてくれるんだ。

「殿下。王宮の学院にはお戻りにならないのですか」

 いかにも王族に対するように、ジェレフが恭しくスィグルに聞いた。

「戻りたいけど、僕にはもう席がないらしい。博士の部屋を訪ねても、皆、僕のことは知らないという」

「それは困ったね」

 ジェレフも困ったという顔で、スィグルの話を聞いてた。

「わかりました。ギリスが何とかします。それで罪滅ぼしをさせてやってください」

 交渉する口調でジェレフが提案した。それをスィグルは横目で見上げ、きっぱりと言った。

「いやだね。そんな程度で許せるような事じゃない。弟は死ぬところだったんだぞ」

「お前が短剣持ったまま側に行くからだろう」

 ギリスは黙っていられず指摘した。

 スフィル・リルナムが自決しようと握っていた短剣はスィグルのだったのだ。

 どういう経緯かは知らないが、こいつは弟に短剣を奪われている。帯についているさやが空なのだから、それは絶対に間違いない。

 自分のせいじゃないか。お前が武器をらせなければ、いくらイカレた弟でも、自分で自分の首を締めて死ぬわけにはいくまい。手段を与えたお前の落ち度だ。

 そういう意味で言ったのだが、ギリスはそこまでは言わなかった。だが新星が察したのだ。

「自分のやったことを棚に上げて、よくもそんなことを僕に言えるな! 恥を知れ、エル・ギリス……」

 そのまま言い返させてほしいようなことを新星ははっきりと言った。

「な……何言ってんだよ。俺はなにも恥ずかしいようなことはしてない」

「そうか? 新星のめいを得ず私闘して、叛逆はんぎゃくしたんだろ」

 ジェレフがギリスの耳元にかがみ込んで、静かに言った。

「地獄に落ちるぞ、ギリス」

 低い声で言うデンの囁きに、ギリスは青ざめて見上げた。

 ジェレフは真剣味のある伏目でギリスを見ていた。

「知らないのか。レイラス殿下は天使ブラン・アムリネスの御使みつかいとして王都にお戻りになったんだ。しかもお前の新星なんだろ。それにそむいて、ただで済むとは思うなよ」

 デンの声に、ギリスは震え上がった。

 それは大変なことだが、どうしていいかわからず、ギリスは動転した。

 叛逆はんぎゃくなどしてない。天使が本当に全能なら、そんなこと分かってるはずだ。

 地獄ってあるのか、ジェレフ。

 そう聞きたかったが、聞けばデンがあると言うのは間違いなかった。

 そういう目を、デンはしていた。

「そんなの……関係ない。天使なんか持ち出しても、俺は怖くないぞ。天使が俺に何をやれるっていうんだ」

「お前をさばける」

 笑い飛ばそうとしたギリスの言葉の終わりを待たず、スィグル・レイラスがさらりと言ってきた。

「は?」

「僕は猊下げいかにいつでも手紙を書ける。そうだ、ちょうどよかった。猊下げいかに聞こう。帰郷後の様子もまだ連絡していないし。夜明けに鷹通信タヒルを飛ばそうじゃないか、ギリス。贖罪しょくざいの天使に聞けばいい、お前がゆるされるかどうか、天使が決めてくれる。シュレー・ライラル・ディア・フロンティエーナ・ブラン・アムリネスが!」

 ギリスをまた指差して、スィグル・レイラスは間違いもせずにその長い名前をすらすらと言った。

 まるで、お前はもう死ねと言うように。

 そんな馬鹿な。

 ギリスはそれに、今までの一生で一度も味わったことのない衝撃を受けた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る