022 天使
これも避けてはいけないのか、と、ギリスは難しく思った。
スィグル・レイラスは本気で殴りかかってきたようだが、それを避けるのはギリスには別に難しくなかったからだ。
痛みを感じないとはいえ、そう何度も顔を殴られるのは困る。
顔は
ギリスも、怒りっぽい同輩と喧嘩になり、勢いで殴り合いになると、その度に自分の顔が腫れ上がるのに衝撃は受けた。
お前はせっかく
顔も大事なのだ。英雄には。
容姿は問題ではないと言う癖に、この部族では誰も彼もが
ジェレフなどは生来の能力も高いが、誰よりも見栄えがいい。そのせいで族長もこいつを気に入っているのだ。自分の横に
ギリスはそう信じていたし、たぶん間違っていないはずだった。
それは関係ないと
ギリスもなるべく背が高くなりたいと願っていた。そのほうが絶対に格好がいいからだ。
しかし未だ期待したほどの長身にはならず、ギリスは焦っていた。人は永遠に背が伸びるわけではないらしいからだ。
「なんで殴るんだよ……」
避けたい気持ちを噛み締めたまま、ギリスは殴られた。
それからスィグルに文句を言ったが、乱れた礼装のままの王子は怒った顔で息をするだけで、何も言わなかった。
そういう時に相手に顔を殴らせずに、なおかつ素直に殴られるなんて、曲芸ではないか。
大人しく殴られたギリスを、ジェレフが驚いた顔で見ていた。まさに唖然だ。
まさかギリスが避けないとは、ジェレフも思わなかったのだろう。
「殿下……」
言葉が出ないという顔で、ジェレフはやっとそれだけ言った。
新星は自分の手を押さえて屈み、わなわな震えていた。
「くっそ……痛い! まただ、この馬鹿! ぼけっとしやがって、僕が殴ったらちょっとは痛がれ!」
乱れ髪のスィグル・レイラスは黄金の
痛いふりをするとは、ギリスは思いつかなかった。
そうか、痛いふりすればいいんだと、ギリスはまた同じ側を殴られた自分の左頬を押さえて、びっくりしていた。
スィグル・レイラスは右利きだ。利き手で殴ってくるのは当然だが、ろくに拳も固めずに殴るので、自分の手のほうが壊れるだろう。
戦闘の出だしでいきなり利き手を壊すとは、馬鹿なのかと、ギリスは新星を危ぶんだ。
こいつ、拳術は使わないんだな。人を殴ったことがない。
たぶんまた指が折れてる。そういう感触がした。
たった今、ジェレフが治癒術で直したのに、また骨折したぞ。
「殿下……手を……」
スィグル・レイラスの痛がりようで察したのか、ジェレフは呆れを隠した声で、手を診せるように王子に促していた。
「もういい。施療院から人を呼ぶから。ジェレフが治すようなもんじゃない。くそ……なんて固い
ギリスを黄金の目で見て、スィグル・レイラスは憎々しげに言った。
何言うんだ、お前が自分で殴ったんだぞ。ギリスは呆れたが、言うとまた殴られそうな気がした。
「筆なんか持てなくても別にいいだろ。何に使うんだよ。学院からも締め出されてるくせに」
代わりにそう言うと、スィグル・レイラスはいつかギリスが猛獣の檻で見た、
まるでスィグルみたいだ。王族が殴りかかってくるのを、ギリスは初めて見た。
「うるさいな。そんなことまで知ってるのか」
スィグルはがっかりしたように、寝台の端に腰掛け、ぐったりとした。
手が痛いのか、新星はまた苦悶するような顔だ。
「殿下。手を治させて。施療院はもう夜勤だ。眠れる時に眠らせてやってくれ」
ジェレフはそう言って、肩を落としているスィグル・レイラスの右手を取り、もう一度、治癒術で治したようだった。
スィグルはそれを拒まなかった。ジェレフに治させたほうが自分には楽なのだから、拒むわけはない。
治癒術はジェレフにとってはそう難しいものでもないだろう。瀕死の怪我だって治せるのだから。
「俺の顔も治してよ」
ギリスは大人しく順番を待っている顔で頼んだ。当然そうなるのだと思っていた。
「知るか。自分で治せ」
うんざりしたようにジェレフが答えた。
「え!? なんでだよ。
不当だと思ってギリスは
「お前の
明らかに嘘だと思うことを
「殿下、ギリスを殴る時は親指は中にしまって、指はしっかり握りこみ、ここを当ててください」
ジェレフは新星の手を握り、正しい殴り方を教えていた。
スィグルは興味深そうに真剣に聞いている。
なに教えてんだよと、ギリスは焦った。そのせいで今後、殿下が気軽にちょいちょい俺を殴ってきたら、どうしてくれるんだ。
「殿下。王宮の学院にはお戻りにならないのですか」
いかにも王族に対するように、ジェレフが恭しくスィグルに聞いた。
「戻りたいけど、僕にはもう席がないらしい。博士の部屋を訪ねても、皆、僕のことは知らないという」
「それは困ったね」
ジェレフも困ったという顔で、スィグルの話を聞いてた。
「わかりました。ギリスが何とかします。それで罪滅ぼしをさせてやってください」
交渉する口調でジェレフが提案した。それをスィグルは横目で見上げ、きっぱりと言った。
「いやだね。そんな程度で許せるような事じゃない。弟は死ぬところだったんだぞ」
「お前が短剣持ったまま側に行くからだろう」
ギリスは黙っていられず指摘した。
スフィル・リルナムが自決しようと握っていた短剣はスィグルのだったのだ。
どういう経緯かは知らないが、こいつは弟に短剣を奪われている。帯についている
自分のせいじゃないか。お前が武器を
そういう意味で言ったのだが、ギリスはそこまでは言わなかった。だが新星が察したのだ。
「自分のやったことを棚に上げて、よくもそんなことを僕に言えるな! 恥を知れ、エル・ギリス……」
そのまま言い返させてほしいようなことを新星ははっきりと言った。
「な……何言ってんだよ。俺はなにも恥ずかしいようなことはしてない」
「そうか? 新星の
ジェレフがギリスの耳元にかがみ込んで、静かに言った。
「地獄に落ちるぞ、ギリス」
低い声で言う
ジェレフは真剣味のある伏目でギリスを見ていた。
「知らないのか。レイラス殿下は天使ブラン・アムリネスの
それは大変なことだが、どうしていいかわからず、ギリスは動転した。
地獄ってあるのか、ジェレフ。
そう聞きたかったが、聞けば
そういう目を、
「そんなの……関係ない。天使なんか持ち出しても、俺は怖くないぞ。天使が俺に何をやれるっていうんだ」
「お前を
笑い飛ばそうとしたギリスの言葉の終わりを待たず、スィグル・レイラスがさらりと言ってきた。
「は?」
「僕は
ギリスをまた指差して、スィグル・レイラスは間違いもせずにその長い名前をすらすらと言った。
まるで、お前はもう死ねと言うように。
そんな馬鹿な。
ギリスはそれに、今までの一生で一度も味わったことのない衝撃を受けた。
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