021 王族たち

 ギリスは疾走した。

 足の速い長身のデンに追いつくにはそれしかなかった。

 ジェレフは穏やかそうに見える割には、ずいぶん足の速い男だ。

 それでもギリスが追いつけない相手ではない。格好構わず走って追うと、途中で追いつき、ジェレフがぎょっとしていた。

 こちらがそこまで俊足とは思っていなかったのだろう。

「ギリス」

 走りながらジェレフは前方を顎で示した。

 通路にばたばたとヘスの衛兵が倒れたままだ。

「お前がやったのか」

 言わずもがなのことをジェレフが確かめてきた。

 死んでないはずだが、衛兵はギリスが倒した時から少しも動いていなかった。

「馬鹿! 警備ががら空きだ。この間にもし何かあったら、お前のせいだぞ」

 ジェレフがそう叱責し、ギリスはなるほどと思った。その考えは無かった。だってレイラス殿下が自分で命じたのだ。出て行けと。

「どうすりゃあ良かったんだよ?」

「どうもこうもあるか。普通は護衛を倒したりしないんだ。交代の兵が来るまでお前が見張るか、侍女に応援を呼びに行かせるべきだった」

 ジェレフの話はもっともだった。次はそうしようとギリスは思った。

 もちろん次があればの話だ。

 もしも新星スィグル・レイラスが運つたなく、この僅かの間に誰かに仕留められていたとしたら、そんな気苦労はいらない。

 もしもそうならスィグルは新星じゃない。養父デンの見込み違いだった。そういうことになる。

 養父デンはかつて言った。族長リューズ・スィノニムは常に先陣に立ったが、一度も負傷したことがない。

 あの族長はひどく運の強い男だ。

 イェズラムのような射手を得たのも、その強運のひとつだった。

 新星は強運なものだ。殺しても死なないぐらい。ギリスはそう思っていた。

 それでも、その運を補強して助けてやるのが射手だ。

 晩餐の席では助けてやった。

 それに応える稀なる強運を、ギリスは見たかった。あれが皆の仰ぎ見る星になるのだと、自分も信じたかったからだ。

「殿下」

 倒れた衛兵の横を通り抜け、ジェレフは遠慮なく王族の居室に入っていった。

 いつも礼儀にうるさい癖に、入り口で叩頭しない。そんなことをギリスがやろうものならガミガミ怒鳴ってくる癖に、自分はしないのだからデンは身勝手だった。

 ずかずかとジェレフは居室に入っていき、耳を澄ましたようだった。

 言い争う声がする。奥の方から。

 その声を感じると、デンは躊躇わずに奥へと進んでいった。

 王族の居室はまず来客応対用の居間に始まり、奥には寝室や日中の時を過ごすための個室がある。

 ギリスも図面では知っていたが、自分の目で見たことはない。

 侍女でもないなら、その部屋の主人である者以外が居間より奥へ行くのは無作法だ。よほど親しい者でも、会うのは居間でのことだ。

 そんなところに勝手に入って良いのか、ギリスですら迷ったが、ジェレフは迷わなかった。

 その後を追うしかないと思え、ギリスは自分が一生見るはずがないと思えた王族の居室の奥に足を進めた。

「レイラス殿下」

 いつも呼び捨てだった癖に、ジェレフは他人行儀に呼びかけ、通路の奥にあった扉のない部屋の、入り口の幕を払いのけた。

 その中に、大きな寝台と堆く積まれた煌びやかな枕が見えた。

 子供が喜びそうな、お伽噺の部屋のようだった。天井には黒い天鵞絨の天蓋が張られ、月や星の形の鏡の装飾や、群れ飛ぶ色とりどりの鳥のおもちゃが見えた。

 それを見た時、何故か分からない衝撃でギリスの心臓が跳ねた。

 驚いたのだ。

 自分たち魔法戦士が小英雄と呼ばれ、子供時代を過ごす部屋には寝室しかない。十数人でひとつの寝室に詰め込まれた大部屋だ。

 隣り合う寝台で寝る奴の寝息が聞こえるような部屋だった。

 ある夜、呻き声がうるさい奴がいて、皆がうるさいと怒って枕を投げてきた。ギリスは隣の寝床だったので、とばっちりの枕を投げつけられて迷惑した。

 隣の奴は声を堪え、やがて皆眠ったが、朝のりんを王宮の念話者たちが告げる頃、そいつは寝床で冷たくなっていた。

 それがギリスが初めて見た死だった。

 いつか自分もそうやって死ぬのだと思っていた。

 それが英雄たちの一生だ。

 それに何を思えばいいのか、ギリスは分からなかった。今も分からない。

 あいつはなぜ死んだのかと、思い出すたび胸が悪くなった。吐き気がする。

 その頃見ていた大部屋の天井は、こんなふうじゃなかった。もっと質素で、つまらない、ありきたりの部屋だった。

 月も星も、鳥のおもちゃも無い。

 なぜなんだとギリスは思った。

 スィグル・レイラスと弟の寝室には小さな銀の船が天井にかかっていて、まるで死後に行くという楽園の船のようにも見えた。

 そんなもの、ギリスは今まで見たことがない。小英雄は子供ではなく、ただの小さな英雄だったからだ。

「スフィル、手を離せ。頼むから……」

 はっと気づくと、ギリスには新星の声が聞こえた。

 ずっと聞こえていた騒ぐ声だったが、最初の驚きに気を取られてギリスの耳には届いていなかったらしい。

 やっとその切羽詰まった声に気づいて、ギリスは寝室の中の騒ぎに目を向けた。

 双子の王子が寝台の上で揉み合い、夜着のはだけた痩せたほうが、血塗れで短刀を握っていた。

 黄金の柄のある、王族が正装の帯につけているものだ。

 その柄を弟の方が握り、スィグル・レイラスが刃の方を持っていた。

 それに驚き、ギリスは唖然とした。

 あいつも痛くないのだろうか。自分と同じで。

 普通のやつは刃物の刃の方を持ったりはしない。手が切れるじゃないか。

 それがどの程度痛いものなのか、ギリスには見当が付かなかったが、スィグル・レイラスは弟が喉を突こうとする短刀の刃を握りしめて止めていた。

 ジェレフが寝台に飛び乗って、弟の方の首を締めるのが見えた。

 殺す訳じゃないだろう。

 気絶させるだけだ。

 絹布も使わず、ジェレフはスフィル・リルナムの首を絞め、気絶させた。首の血管を押さえれば、人はすぐに気絶する。ジェレフも治癒者だけに、それを心得ているのだろう。

 弟の殿下の痩せた体がぐったりと崩れ落ちるのを支え、ジェレフは低く悲鳴を上げたスィグルが寝台に蹲るのに屈み込んでいる。

「殿下、手を。手を診せて」

 ジェレフは蹲る殿下から、もぎ取るように手を掴んだ。

 治癒術で治すんだろう。

 ギリスは心配はしていなかった。

 ジェレフは傷を治せる。もしも指が全部取れてても、ジェレフは繋げる。

 ギリスもヤンファールで守護生物に馬ごと吹っ飛ばされて足がもげたが、ジェレフが馬で追いついてきて繋ぎ直した。今も何の違和感もない。誰よりも早く走れるほどだ。

 スフィル・リルナムの気絶した体を寝台に横たえながら、ジェレフは新星の手を握っていた。

 スィグルは真っ青な顔で震え、見開いた黄金の目がまるで光っているようにも見えた。

「痛い」

「大丈夫。もう傷は塞いだ。痛みは気のせいだ、殿下。すぐ消える」

 ジェレフが教えると、スィグルは青ざめたまま頷いていた。滴るほど汗をかいている。

 王族が汗をかくのをギリスは初めて見た。

 そんな機能はない、お人形なのかと思っていたが、スィグル・レイラスは違うらしい。

「たぶん骨も折れてた」

 やっと顔を顰めて、ジェレフが言った。

 ジェレフはいざとなると冷静な奴で、ギリスはデンが戦場で動転しているのを見た覚えがない。急場であればあるほど根性が据わるような奴だ。

「大丈夫か……何があった、スィグル」

 やっと心配気にデンがスィグルに声をかけていた。

 何があったか説明したのにと、ギリスは思った。その後に起きた事なら今見たじゃないか。

 なぜ、スィグルの弟が自決しようとするのか謎だったが、こいつが死にたくなるのも当然だとギリスには思えた。

 生きていても見込みのない一生だ。遅かれ早かれ死ぬのだし、さっさと片付こうと思ったのだろう。

 殊勝な心がけだ。

 生きていても誰かの役に立つような奴ではない。

 ギリスにはそう思えた。

 さっさと死んだ方が兄貴のためだ。それが弟にも分かるのだろう。いい弟じゃないか。

「そいつが!」

 まだ血塗れのままの手で、突然叫ぶように言ったスィグル・レイラスがギリスを指さした。

 部族ではものすごく無礼なことだ。指先を相手に向けるのは、死ねという意味だ。

 死ねという顔で、スィグルがギリスを見ていた。

 スィグルはぶるぶる震えていたが、顔は怒っていた。怒りながら怖がってるのか、器用な奴だなとギリスは思った。

「そいつがスフィルを殺そうとしたんだ。それでスフィルは……また気がおかしくなって、死ななきゃならないって言って……この有り様だ。僕の短剣を奪って、喉を突こうとしたんだ」

 早口にそう訴えるスィグルは、告げ口する口調だった。ジェレフに?

 ジェレフに言ってどうなるんだ。俺の派閥のデンだし、ジェレフは俺の味方だろう。ギリスはぽかんとして二人のやりとりを見た。

「大丈夫だ。スフィルは怪我してないよ、殿下。後で気の休まる薬をやる。しばらくゆっくり眠らせてやって、落ち着かせれば大丈夫だ。大丈夫……」

 わなわな震えているスィグルにジェレフは声をかけ、まだ晩餐の正装のままだった結髪けっぱつの頭を撫でてやっていた。

 餓鬼かよ。ギリスは呆れて眺めた。

 しかしジェレフは至って真剣だ。まるでスィグルがもう死ぬみたいに、じっと見守っている。

「なんで僕がこんな奴と関わらなきゃいけないんだよ、ジェレフ」

 泣き言としか思えない口調でスィグルはジェレフに文句を言っている。

 デン眉間みけんしわを寄せ、深刻そうにそれを聞いていた。

「ギリスは殿下の射手だ。エル・イェズラムが遣わした」

 ジェレフが説明すると、スィグルが怒ったようにがばっと顔を上げた。

「もう来るなって言ってくれ。僕はこいつと口も聞きたくない」

 そう言った癖に、スィグルはキッと睨む目で寝台の脇に立っていたギリスを見て怒鳴った。

「どのつら下げて来た。もう一発殴られたいのか、この馬鹿! 二度とその顔を僕と弟の前に見せるな! お前が父上の英雄エルじゃなかったら、ただじゃ済まさないところだ!」

 ギャンギャン吠える犬みたいに、スィグル・レイラスは怒っていた。

 よくそんなに怒れるなと、ギリスは感動した。自分にはそこまでの強い感情はろくに無かったからだ。

「ギリスは殿下の英雄だ。族長のじゃない」

 ジェレフが静かに訂正した。

「は?」

 スィグルは呆れたという顔で、ジェレフの顔を見上げた。

「なんだよそれ。こんな奴いらない」

「殿下には選べない。竜の涙のほうが、自分が仕える星を選ぶ。そういう伝統だ。今、殿下に仕える英雄はギリスひとりきりだ」

「ジェレフは……?」

 スィグルはずいぶん悲しい顔でジェレフに聞いていた。俺はいらないのにジェレフは欲しいのかよ。ギリスは呆れて自分の新星を眺めた。

「俺は違う。君の父上に仕えてる。俺が選んだ玉座のきみだ」

 観念したようにジェレフが言うのを、やっぱりそうなんだと思ってギリスは聞いた。

 なんでか知らないが、デンたちは皆、リューズ・スィノニムに骨抜きにされてる。

 死ぬか生きるかの瀬戸際に酔わされた名君の連戦連勝が、よっぽど脳天に来たのだろう。

 族長はデンたちの命の恩人だった。多くの英雄を死に追いやった族長だが、全部が勝利のための死だった。死んだ英雄ひとりひとりの英雄譚ダージを聴き、族長は泣いてくれたらしい。

 平気で死ねと命じるくせに、族長はいちいち悲しいらしいのだ。

 ひどく涙もろい男だ。

 それが仲間の死に泣いたという、ただそれだけのことで、デンたちはあの、玉座の男に忠誠を捧げている。

 でも、それがなぜなのか、ギリスにも今日は分かる気がした。

 そんな気がするのは初めてだ。

 新星が俺を、こんな奴いらないと言った。そしたら俺は死ぬしかない。

 玉座が求めるから、英雄たちは生きているのだ。いらないと言われたら、もう、生きている意味がない。

「君の父上は、そんなこと死んでも言わないぞ。スィグル、竜の涙の忠誠を得ずに、玉座に座ることはできない。この王宮は、族長と、それを守ってる魔法戦士の家なんだ。君の家じゃない」

「僕は族長リューズ・スィノニムの息子だぞ」

 驚いたようにスィグルはジェレフに言った。デンは心苦しいらしく、スィグルと向き合い苦々しい顔だった。

「俺たち竜の涙は族長の兄弟だ。君より偉い。ギリスと和解してくれ」

「何言ってるんだよジェレフ」

 裏切られたという顔で、スィグルが震えて言った。

「殿下に謝罪しろ、ギリス」

 何を?

 ギリスはぽかんとしてデンを見た。

叩頭こうとうしろ!」

 気絶している弟のほうの殿下にはばかってなのか、ジェレフは抑えた声で怒鳴ってきた。

「なんでだよ……」

「お前は殿下の英雄でありながら、殿下の命令なしに私闘した。重罪だぞ、ギリス」

 そんな決まりがあったのだろうかと、ギリスは驚いた。

 魔法戦闘には族長の攻撃許可がいる。もしくは族長が任命した指揮官の許可が。

 だがギリスはさっき、魔法を使っていない。衛兵は体術で倒したのだ。そんなことデンも知っているはずだ。

「叩頭して、殿下のお許しをえ」

 デンの口調は厳しかったが、どことなく頼み込むようだった。とにかくやれと、デンの目がギリスを睨んでいた。

 派閥でも、デンの命令は絶対だ。

 ジェレフは頭ごなしに命令してくるようなデンではないが、目上は目上だった。

 ギリスは諦めて膝を折った。

 ふかふかした上物の絨毯が敷かれている寝室の床に座り、黙って叩頭した。

 叩頭礼は王宮ここではありふれた行為だ。深い意味はない。ギリスはそう思おうとした。

 納得はいかなかったが、納得がいくことなど、この世にそう多くはない。

「許してやってくれ、殿下。ギリスは悪気のない奴だ。こいつは……他の英雄エルとは違うかもしれないが、忠実だ。今は殿下に仕えるたった一人の英雄なんだ。それを従えられないのなら、殿下に玉座は無理だ」

 スィグルと向き合って話すジェレフは、辛抱しんぼう強く説得する口調だった。

「これがもっとまともな奴なら、僕だって喜んで従えるよ」

 ギリスが叩頭から顔を上げると、スィグル・レイラスは悔しげに唇を噛んでいた。

「殿下も知ってるだろうが、俺たちは皆、まともじゃない。殿下の父上は、それでも俺たちを従えてる」

「僕に狂人の群れを率いろというのか」

 スィグルは怒っているようだったが、えらく察しのいいことを言った。

 ギリスはそれが可笑しくて、くすっと笑った。

「何が可笑しいんだ!」

 地団駄じだんだ踏みそうな顔で、スィグルが激怒していた。それを眺め、ギリスはまた笑った。

「やめるか。スィグル・レイラス。族長は大変だぞ。俺みたいなのが何百人もいる」

 ギリスが教えると、スィグルはまた殴ってきそうな目つきで、ギリスをにらんだ。

「やめられる訳ないだろ。もう始めたんだ。お前のせいで!!」

 新星の物分かりの良さに、ギリスはつい大笑した。

 その時だった。スィグル・レイラスがまた殴りかかってきたのは。

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