020 死霊

「喧嘩?」

 ジェレフは盛大に顔を顰めて、ギリスの血塗れの肌着を見ていた。

 そこにはもう傷がない。ジェレフが治した。

 それでもジェレフが消えた傷口と、この相談事を結びつけたのは、透視術でジェレフの頭の中を見なくてもギリスにはわかった。

 察しのいいデンだ。治癒者としてはジェレフは確かに当代の奇跡かもしれないが、ただの治癒者にしておくのは惜しい。打てば響く男だ。

 長老会がなぜジェレフをあの鈍色にびいろの部屋に招き入れなかったのか、ギリスには分からなかった。

「何があった」

 起き上がってギリスの腕を掴み、ジェレフは聞いてきた。

 ギリスは何から話そうかと思案して、考える時間を作るためにのんびりと自分の長衣ジュラバを着付けた。

 イェズラムがあつらえてくれた大事な礼服だったが、あの侍女のせいで穴が空いてしまった。王宮の針子に頼めば、元通りに直してくれるだろうか。

 結局、そんな他所ごとに気が散って、何をどう話すか考えていないまま、ギリスは口を開いた。

「あいつが引っ越すのが嫌だって言うから、もっといい部屋に移れって説得したかったんだ」

 ギリスが要点を言うと、ジェレフは真剣味のある顔で頷いた。 

 ジェレフもそう思うらしい。誰だって思う。あの部屋は王族の子供たちが住むもので、もうほとんどが空き部屋だ。

 族長リューズは後宮に入れた女たちの人数分の男子を挙げると、それで満足したらしく、もう熱心に子作りしていない。あとは出遅れた末の何人かが元服を待っているだけで、幼年の王子たちが王宮にひしめく時代は終わろうとしていた。

 族長のことは嫌いだが、ギリスはあの男の合理性は買っていた。

 王子たちの年齢がほぼ同じならば、年齢で差がつくことがない。継承権を持つほぼ全員が同時期に成人し、同時期に子を成すだろう。それによって皆は同じ条件で新しい星を選ぶことができる。

 ある者には既に孫がいて、ある者はまだ幼児だというのでは、どれが玉座に相応しい星かわからず、実は稀代の名君であるべきものが、まだ幼少であるせいで、その光輝を示す機会もなく葬られるかもしれない。

 もちろん、多少の取りこぼしはあるだろうが、王子は十七人もいる。もういいだろう。

 そう思う気持ちも分かった。

 だが、それなら、スィグルだけが不当に不利なのはいただけない。不公平だ。ギリスはそう思っていた。

 同じ条件で競わせるから、この遊戯ゲームには意味がある。そうではないのか。

「何をした」

 ジェレフは長い付き合いのせいか、さすがに聞くところを心得ていた。

 それが面白くて、ギリスは思わず笑っていた。

「ちょっとビビらせただけだよ。そしたら、あいつ、本気で怒りやがって」

 ギリスは自分の左頬を撫でて、ジェレフの呆れた目と見つめ合った。

「殴ったのか。スィグルが?」

 ジェレフがギリスの頬を見て、あんぐりとしていた。

 触った感触では、頬は片側だけ少々腫れていた。笑うと引き攣るのでそれが分かる。

「聞きたくないが、お前が何をしたか具体的に言ってくれ、ギリス」

 ジェレフはもう緊迫の表情だった。

 そんな大したことでもないのに、まるでこれから敵陣に突っ込むみたいな顔だ。

「衛兵を二人気絶させて、それから侍女をビビらせただけだよ。あいつには何もしてない。触ってもないよ」

「当たり前だ。太祖アンフィバロウの末裔だぞ。もし何かしたらお前は地獄に落ちる」

 ジェレフは真顔でそう言った。地獄などというものが実際にあるのか、ギリスは知らなかった。まだ死んだことがないし、死んで戻ってきた者もいない。

 子供の頃から繰り返し聞かされたその話に、嫌な気がしたが、恐ろしいという気はしなかった。

 ただ、そこには良い英雄は落ちないのだ。部族に尽くして英雄譚ダージを得たものは、そこには行かない。

 ギリスはもう英雄譚ダージに詠まれたので、大丈夫だろうと思えたが、イェズラムはもちろん、そんな地獄には落ちていないはずだ。

 ギリスは死後には養父デンと同じところに逝きたかった。

 それがもし迷信でも、もし本当だったら困る。そんな愚は犯せないと思っていた。

 ギリスは部族の伝承にある、死後に行くという楽園の船に乗りたかったのだ。月と星の船に。

 そこではもう、石に苦しめられることもなく、デンたちは皆、生きていて、何でも好きなことができる。それが何かは、ギリスにはまだ分からなかったが。

「でも、でも、族長位の継承では、王子を殺すだろう。絹布で首を絞める。それをやる奴はどうなるんだよ」

 ギリスは心配になって聞いた。

「大丈夫だ、それは。聖務だから。今は関係ないだろ」

 ジェレフはムッとした顔で答えた。

「じゃあ俺のだって聖務だ。新星を昇らせるための仕事だ」

 ギリスは顔をしかめて言った。

 なんでそれが、あいつには分からないんだよ。

 ジェレフは一瞬、不可解そうにそれを聞いていたが、次の瞬間、デンが青ざめて寝台から立ち上がるのをギリスは見た。

「何をしたか早く言え」

 怒った顔をして、ジェレフが聞いてきた。

「俺、別に本気じゃなかったよ。あいつの覚悟を見たかっただけで……」

「馬鹿!」

 怒声を浴びせてきて、ジェレフは羽織っていただけだった普段着の長衣ジュラバにそのまま袖を通した。

 寝台のそばの衣桁いこうにあった帯と剣帯を取り、ずっと前にイェズラムから拝領したという剣をジェレフは身につけた。

「来い」

 そう言ってジェレフはギリスを立たせ、自分は先に立って垂髪すいはつを紐で結びながら足速に行ってしまった。

「来いって……?」

 ギリスは唖然として、デンがいなくなった部屋を見回し、ついていくべきか悩んだ。

 だいたい、ジェレフはどこへ行く気なのか。

 ぽかんとして椅子に腰掛けたままでいると、ジェレフが足音高く戻ってきた。

「来いって言ってるだろ、ギリス。ぼけっとするな」

 ぼけっとしているつもりは無かったが、デンは相当頭に来ているようで、ギリスの肩を掴んでがくがく揺らすと、腕を引いて引っ立てていった。

 長身のジェレフに引っ立てられると、まだ背の追いつかないギリスは走らねばならなかった。

 王宮の廊下を走ってはならないと言われている。余程の時なら別だが。今は余程の時か?

 ジェレフは長い足で、走らずとも速歩でいいのだろうが、こいつといると格好つかねえなとギリスは思った。

 ジェレフはいつも格好がいいし、着るものや立ち居振る舞いの様子もよくて、他の派閥のデンたちも一目置く。

 そのような英雄になれば良いのだろうけどなと、ギリスは残念に思った。

 どうもそういうふうには、自分はなれそうにない。

 それでもイェズラムは自分のほうを射手に選んだのだ。ジェレフでも、他のデンたちでもなく。

 それはギリスの一生には珍しく、誇らしいことだった。

「どこ行くの、ジェレフ」

「頭を下げろ。とにかく」

 こちらが質問に答えないと怒るくせに、ジェレフも質問に答えなかった。

「お前……本当に殿下の射手なのか」

 夜の廊下で、ジェレフは声を潜めて聞いた。

「本当だよ」

 隠すようなことなのか分からず、ギリスは戸惑って答えた。

 ジェレフは王宮の廊下の、王族の群れるあたりに差し掛かる曲がり角で、急に足を止めた。

「何でお前みたいなやつが、星を選ぶんだ。ギリス。分かってるのか。誰が皆を幸せにする族長になるか、どうやって決める」

「俺が決めるんじゃない。もう選んだ。イェズラムが。スィグル・レイラスが次の星だ」

 ギリスが当たり前のことを教えると、ジェレフは真面目な顔で頷いた。

 それが何だと言ってスィグルは全く理解していなかったが、さすがジェレフは同じ派閥のデンだった。

「なぜ、デンはスィグルを選んだ。他の王子と違う、あの子だけが持っているものは何だ」

癇癪かんしゃく?」

 立ち止まった岐路で、ギリスは考えて答えた。

 さっき別れた王族の子供部屋で、ものすごい剣幕で怒っていたスィグル・レイラスのことを思い出すと、あそこまで怒る者が王族にいるとは考えにくかった。

 他の王子たちは皆、上品で、しずしずとしていて、気は弱いものの頭が良さそうに見える。

 スィグルも最初はそんな感じで、顔も可愛くて小柄だし、にこにこ楽しげに喋ったりして、可愛い弟分ジョットだなと思えたが、キレると違っていた。

 弱すぎるんだよ、お前は。とギリスが断じて、だから今後はもっと体や武術を鍛えて、身辺を固め、己の弱点となるような邪魔な弟は始末するべきだと、ギリスが年長者らしく説いて聞かせたら、あいつはいきなりキレて殴ってきやがった。

 あんな女みたいな可愛いつらで、虫も殺さないようなのに、少々避けなきゃ鼻を折られただろう。

 それはさすがに面相めんそうが変わると思い、ギリスは少しだけ避けたのだが、少しだけにしたのはイェズラムが、もし王族が殴ってきたら殴らせろと言っていたからだ。避けると不敬だし、それに後々面倒なものらしい。

 実に養父デンはいろいろなことに精通していた。

 スィグルも一発殴ったら早速気が済んだらしく、出ていけと絶叫したが、もう来るなとは言わなかった。

 それでギリスはさっさと退散してきたのだ。

 王族の命令は絶対だ。イェズラムも言っていたように。叛逆は重罪で、もちろん地獄行きだった。

 ギリスはそんな愚は犯さないつもりだ。

癇癪かんしゃく? スィグルが?」

 何も知らないつらで、ジェレフが言った。

「俺、なんであいつが死ななかったのか分かったぜ。あれが俺の隊のジョットだったら、絶対に先鋒で突撃させる。さすがに根性あるよな、人喰いレイラスは」

 ギリスは感心して言ったが、ジェレフは分からないという顔だった。

デンは、一体お前に何を託したんだ」

「長く生きて新星を戴冠させろって。でももし、あいつが駄目なら、俺が殺す」

 ギリスが教えると、ジェレフは目眩めまいがしたような惑う目つきをした。

「駄目とは?」

「即位には条件がある。イェズラムが決めた。俺はあいつが良い族長になるよう、仕えるだけだ」

 イェズラムは族長リューズ・スィノニムを育てた男だ。だから養父デンの目には間違いがない。ギリスはそう信じていた。それを越えるものが、この部族になにかあるだろうか。

 養父デンは名君のデンなのだ。生涯、リューズ・スィノニムに仕え、間違いがあれば諫め、迷いがあれば相談に乗った。それが射手ディノトリスというものだ。名君の兄なのだから。

 それをギリスにもやれと、イェズラムは命じていったのだ。

 簡単なことにギリスには思えた。名君とはいかなるものか、常々、養父デンはギリスに教えていった。

 やり方は知っている。

 スィグル・レイラスが正しい星である限り、間違いは起きない。

 ジェレフはそう思って見つめるギリスと、困惑の顔で向き合っていた。

 ジェレフが納得していないようなのを、ギリスは不思議に思った。馬鹿なのか、このデンは。

「ギリス。デンは……まだいるな。この王宮に、お前を遺していった」

 ジェレフは奇妙なことを言った。イェズラムは死んだという者ばかりのこの王宮で、そんなことを言う者をギリスは初めて見た。

 やっぱりジェレフはイカれてるんだなと、ギリスはこのデンを好ましく思い、微笑んだ。

「エル・イェズラムの遺志を実行するつもりなのか。ギリス。それはお前の意思か」

「そうだよ」

 深刻な顔のデンが何を心配しているのやら分からず、ギリスはただ微笑んで答えた。

「そうじゃないだろ。お前は迷ってるはずだ。石封じダグメルんでない」

 いかにもお節介な治癒者の口調で、ジェレフは言ってきた。

 ギリスは急に気を削がれて、奥歯を噛み締めた。

「そんなの関係ないだろ。勝手に覗くなよ、俺の記録を」

「施療院で相談を受けたんだ。お前が服薬の指示に従わないと」

 今まで黙っていたくせに、ジェレフはいかにもずっと心配していたように言った。

「そんなの服んでたら魔法が鈍るんだよ。お前だって服んでないだろ」

「もう戦いはないんだ。ギリス。自分のために生きてもいいんだぞ」

 小声で言うジェレフの顔に、ギリスは呆れた。お前に言われたくない。お前はどうなんだ。お前は……さっきも、自分はさっさと死ぬって言っただろ。

 そうやって、デンたちは、次々と燃え尽きるように死んでいくのに、長く生きろとは、どういう命令だ。そんな難しいことをイェズラムに命じられても、ギリスには分からなかった。

 どうやって生きればいいのか。

「うるせえ、ジェレフ。自分もできないくせに、偉そうに言うなよ。お前はいつだって、あの族長の言いなりのくせに」

 ギリスが言うと、ジェレフは困った顔で笑っていた。

「そうだな。お前に何か言える立場じゃないけど。お前は俺よりとおも若いんだからさ、まだ諦めるな」

 落ち着けよというように、ジェレフは恨んで見上げているギリスの肩をぽんぽん叩いてきた。

 このデンは本当にいつも自分を子供扱いしてくると、ギリスは不満だった。

 そう言うなら、デンもイェズラムも、自分で道を示すべきだった。長く生きて新しい星を見る。自分のために生きるっていうやつを。

 俺は皆の真似しかできない。自分で考えるのは苦手だと、ギリスは心許なく思った。

 イェズラムの言うとおりにしか、俺はできないんだ。

 それでも養父デンはいつも、ギリス、自分で考えろと言った。

「誰か来る」

 ギリスの腕を掴んで、ジェレフが言った。

 通路の曲がり角の向こうから、曲がりくねった王宮の道を、誰かの駆ける足音がした。

 廊下には絨毯が敷かれ、足音は小さかったが、ギリスには聞こえた。

 動かぬように、ジェレフがギリスの腕を掴んだまま、その音に耳を澄ませていた。

 女の足音だ。

 小さな靴が絨毯を踏む、遅い足音が近づくのを感じ、ギリスはそう思った。

 薄紅の透ける袖を振る姿が、曲がり角から躍り出てきた。

 それが化粧した顔で驚き、紅をさした赤い唇で言った。

「エル・ジェレフ!」

 驚いた顔で女はデンを見ていた。曲がり角で出くわすとは思っていなかったようだ。

 向こうはこちらがこの場にいるとは想像もしなかったらしい。

 それでも、デンの顔を見て、ほっとしたようだった。

 白粉おしろいに泣いた跡のある顔で、女はまた泣きそうな目になった。

「お呼びしに参るところでございました……!」

 女はそう言いかけてから、ジェレフのすぐ後ろにいたギリスに気づき、さっと青ざめた。

 そして彼女がつんざくような悲鳴を上げてうずくまるのを、ギリスは唖然と見た。

 こいつ、知ってる。俺を刺したやつだ。

 悲鳴を上げ続ける侍女を、ギリスはあんぐりとして見下ろした。

「静かに……」

 ジェレフは困った顔で、女を宥めている。自分も床に膝をつき、震えている彼女の背を撫でて。

 なんでデンは女に触っても怒られないんだろうかと、ギリスは不思議に思った。大体の者が同じことをしたら、女はもっと悲鳴をあげるに違いない。

 王族の住む区画から、紅い徽章きしょうをつけた衛兵が二人、わざわざ見に来た。悲鳴を聞きつけたのだろう。

「大丈夫。何でもない。驚かせてしまっただけだ」

 ジェレフがレダの衛兵たちにそう言うと、相手はジェレフの顔を知っており、それだけで納得したようだった。

 持ち場に帰っていった。

 なんでだよと、ギリスはそれにも唖然とした。

 なんでジェレフは信用されるんだ。よっぽど人気があるんだなと、ギリスは感心したが、それだけに惜しいデンだった。

 イェズラムはなぜこいつを射手に選ばなかったのか。

「どうした」

 ジェレフは女に静かな声で尋ねた。

「この方が……! スフィル様のお部屋で暴れて、殿下が、また発作を」

「俺、暴れてないよ」

 女が指差してきて、ジェレフが怒った顔で見上げてきたので、ギリスは説明した。

 部屋では暴れてない。廊下では暴れたかもしれないが、ヘスの衛兵を倒す一瞬だけだ。大体、ヘスを倒すのに一瞬以上の時間はいらない。デンも知ってるはずだ。ジェレフも同じ体術の師匠についてる。

「兄君が……レイラス殿下がエル・ジェレフをお呼びするよう仰せです」

 女は叫ぶように言った。

 それを聞き終わることもなく、デンが走り出した。

 王宮の廊下を走るなと、常々言っているくせに、長衣ジュラバの裾を翻して走っていく。

 そんな馬鹿なとギリスは焦ったが、ついていくべきなのか。

 どういう状況なのかと、ギリスはまだ蹲っていた女官に声をかけた。

 それに女は、まるで人を食う魔物にでも襲われたかのように絶叫した。

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