019 治癒者

 とんとんと扉を叩くと、しばらく返事はなかった。

 相手は中にいないのかもしれない。眠っているのかも。それでもギリスは辛抱強く待った。

 個人房の扉には、外を見るための覗き窓がある。そこから小さな光が漏れるのが見え、すぐに消えた。

 いるんじゃないかと、ギリスは安心した。

 それでも中々扉は開かず、相手が嫌がっているのが感じられて、ギリスは扉の横の壁に腕で凭れ、注意深く待った。

 壁を汚すと怒られるだろうと思い、血のついた手では触れないようにした。

 脇腹の傷からは血が流れている。そう深傷ふかででもないが、礼装の長衣ジュラバが白っぽいせいか、やけに血が目立った。

 扉が開き、夜着よぎの上に袖を通していない長衣ジュラバを纏ったジェレフが、既に怒った顔で立っていた。

「どういうつもりだ」

「邪魔した?」

「いいや」

 長身のジェレフは嫌そうな伏目で、ギリスの血のついた脇腹を見下ろしてきた。

 いつも身なりは整えている男だが、もう寝るつもりだったのか、髪はもう結っておらず垂髪すいはつで、珍しいなとギリスは思った。

施療院せりょういんに行きたくないんで、診てくれない?」

「ふざけるな」

 ジェレフは眉間に皺を寄せ、腕組みして言った。

 それでも扉は閉じずに、部屋の中に戻っていった。

 入っていいということだろう。

 扉を汚さないよう気をつけながら閉じ、ギリスは中に入った。

 ジェレフの部屋も恐ろしく質素だ。派閥のデンだし、初めて来た訳ではないが、以前にも増して質素になった気がする。

 飾り気のない、必要最低限の調度が置かれ、施療院せりょういんほどではないが、壁の装飾も地味な色合いで、いかにも静かな部屋だった。

 長く留守だったのもあるのだろう。ジェレフは王都おうとを出る時には、いつ死んでもいいように部屋を片付けていく。次に入る者のためということだろう。

 その、あっさりとしたところが、魔法戦士らしいとギリスは思っていた。

 兄弟たちの中にも、実際にはいろいろいて、王侯貴族なみの待遇の暮らしを満喫する者もいた。過酷な境遇の埋め合わせとして、ここでは贅沢ができる。特に尊い血筋でもないのに、食うにも着るにも、不自由がないという以上のものが望めた。

 でも、ジェレフはそういうことには興味がないのだ。

 誰に聞いてもジェレフは良い奴だと言った。誰の敵でもない。それも王宮では稀な事だ。

「座れ」

 明らかに怒っている声で、ジェレフが寝台の側の背もたれのない椅子を示した。

「何でやられた」

「侍女の懐剣で」

「何をやってるんだ、お前は。玉座の間ダロワージで遊んでるのか。まだ餓鬼のくせに」

 ジェレフは忌々いまいましそうに言って、部屋の奥から治療道具の入っている箱を取ってきた。

 女と揉めて刺されたと思われたらしい。

 晩餐の終わった夜の玉座の間ダロワージでは、政治的な調略を行う者も中にはいるが、一夜の恋の相手を求めて戯れる者もいる。英雄たちは忙しいのだ。

 皆、そこで適当な相手を見つけて個人房へやにしけ込む。広間ダロワージは派閥や所属を超えて人が混ざり合う場所だ。

 貴人に仕える上級の女官もいるし、日頃は別々の派閥の部屋サロンたむろしている女英雄もいる。

 ギリスもそういう年頃と思われたのだろう。

 ジェレフがそう思うなら、それでもいいが。

「まったくエル・イェズラムが聞いたらなんと言うか。懐剣を振り回さない、まともな相手と付き合え」

 怒っているのは自分のくせに、ジェレフはいかにも嘆かわしそうに言った。

 そりゃあジェレフは懐剣を振り回さない相手を大勢知っているのだろうが、余計なお世話だった。

 今夜もデンが一人でいるとは、ギリスは思っていなかった。ジェレフは巡察から王都に戻ったばかりだし、それでなくても、誰も彼もにいつもモテる。

 しかし今日は食いっぱぐれたか。珍しいこともあるものだった。

「イェズは死んだし、もう俺に何も言わないよ」

「馬鹿」

 身も蓋もない返事で、デンは怒っているようだった。

「治癒術は使わないからな。お前にくれてやる命はないぞ。傷が浅ければ自分で治すんだ」

 そう言ってからジェレフはギリスの礼装の帯を解き、血のついたほうの脇腹を見るために長衣ジュラバの片肌を脱がせた。礼装用の肌着にべったりと血がついている。

 もう半ば固まりかけている血で張り付いた絹の肌着を、ジェレフはそうっと捲ったが、途中で気づいたようだった。

 傷にくっついた布地を剥がしても、ギリスが痛くないのだということを。

 それからはデンは容赦無くばりっと剥いだ。

 痛くなかった。

 それでも、寒かったせいか、体がぞわっとした。

 出血したのだから、体は疲れているのだろう。痛くないからといって、不死でも無敵でもない。

「馬鹿だな、ほんとにお前は。なんで避けないんだよ」

 刺された傷がデンの期待より深かったらしい。ジェレフは傷口を指さして怒っていた。

「今だったらジェレフがいるし、まあいいかと思って」

「殺すぞ」

 きっぱりとジェレフは言った。

 それでも、たらいに水を汲んできて、亜麻布あまぬのを浸し、それでギリスの傷口をそうっと拭いた。

 相手が王族なら猫撫で声で話すくせに、ジェレフは同輩には案外口が悪いのだ。

 こっちがジェレフの本性だとギリスは思っていた。

 患者や女官にはにこにこと愛想がいいが、派閥の部屋サロンで飲む時には、デンは身も蓋もない。

 他の荒っぽい武闘派のデンたちと何も変わらないのだ。

「治してくれるの」

「施療院に行かないんだろ。縫わないといけない傷だ」

「縫ってよ」

「面倒くさい」

 憎々しげに言って、ジェレフは生温い手でギリスの脇腹に触れてきた。傷のあるところを手で覆い、デンは細いため息のようなものを吐いたが、その一息をつく一瞬のことだった。

 ジェレフが手をどけると、傷が塞がっていた。

「すごいね」

 いつもながら、ジェレフの治癒術はまさに魔法と言えた。怪我をしたのが記憶違いだったように、傷が綺麗に消えている。

「もう二度とするな」

 何度聞いたか分からないような説教だった。ギリスは曖昧に頷いておいた。

 どうせまた怪我はするのだが、ジェレフにそう言うとキレられる。

「あの後、エレンディラと何か話した?」

「話すわけないだろ。女部屋のデンだぞ」

「ジェレフ、女好きだろ」

 ギリスが悪気なく言うと、ジェレフは吹き出すようにせた。

「話してくれりゃあいいのに。スィグルの帰還式をやるんだし。相談しといてよ」

「俺はすぐ王都からいなくなる。手伝えない」

「なんでだよ」

 当てが外れて、ギリスは口を尖らせた。

 派閥のデンたちの中では、ジェレフは話しやすいほうだった。

 あからさまにギリスを嫌っている者も少なくなかったが、ジェレフはいつも優しかったからだ。

 この男は誰にでも優しいだけだが、そのせいで顔が広い。ジェレフが頼めば、ギリスが直に言うより、力を貸してくれる者も多いだろう。

「人を集めないといけないんだけど」

「まあな」

 ジェレフは分かっている顔で、頷いていた。

「前はイェズラムがいたから、簡単だっただろう」

 スィグルの出立式しゅったつしきのことを、ギリスも憶えていた。王都を発って異郷の地、トルレッキオに赴く殿下を、皆が玉座の間ダロワージで見送り、多くの儀仗兵ぎじょうへいと、華麗に着飾った魔法戦士の隊列が都市の出口まで送り出し、都市内部でも行列を見に、多くの市民が集まっていた。

 人質に送られる殿下を見たいのもあったが、行列を先導するエル・イェズラムや、それに付き従う英雄たちの群れを見たくて来た者も少なくなかった。

 部族では、特に戦功のない王族より、歴戦の魔法戦士のほうに民の信頼が集まりやすい。

 それもそのはずだ。実際に戦場で民を守って戦っているのが誰かを、民はよく知っている。

「今回は? まさかエレンディラがジョットどもを送り込んでくるつもりかな」

「それは別の意味で壮麗な行列だな」

 寝台に座り、デンくつろいで言った。

「それで良いわけない。殿下を女どもに盗られてしまうぞ」

 ギリスは小声で言った。

「皆、行かないと言ってる」

 ジェレフも小声で答えた。

 ギリスは顔を顰めた。

 なんだよ。知らん顔してんのかと思ったら、もう派閥に声かけたのかと、ギリスは感心した。ジェレフは仕事が早い。やるとなったらやる男なのに、やる気がないのだ。

 ギリスが属する派閥は、エル・イェズラムがデンを務めていたもので、そこに群れ集う英雄は男ばかりだった。英雄に性別はないというのは王宮の建前で、女英雄は女だけの部屋サロンに集まり、こちらはと言えば男ばかりだ。

 それが混じり合うのは夜の玉座の間ダロワージでだけで、日中はお互いに口もきかない。いがみ合っていることさえある。派閥の部屋サロンがある区画さえ遠いのだ。

 もし、新星スィグル・レイラスが女英雄おんなどもの手に落ちたら、容易には近づけなくなる。

 腕っ節は弱くとも、あいつらは魔法においては何ら変わらない。それに王宮では剣を振り回して殴り合うわけではないのだ。暗躍がものを言う。

 エレンディラが長老会の首席に座ったことを見れば、それは明らかだ。

「なんでだよ」

「そりゃ仕方ないだろう。大喜びで推したいような殿下じゃないんだ。皆にとっては」

「ジェレフは」

 ギリスが尋ねると、ジェレフはひどく重たいため息をついた。

「俺がどう思うかは問題じゃない。派閥の決定には従うしかないだろう」

「ジェレフは狙わないんだ。派閥のデンの座は」

 忌々しい気持ちでギリスは尋ねた。

 イェズラム亡き後の派閥を誰が率いるかは確定していない。力のある者が自然とその座につくが、あいにくイェズラムがあまりにも強すぎた。その後を襲おうとしていた者が誰もおらず、イェズラムが優秀な駒をそろえていたものの、誰もが似たり寄ったりだった。

 ジェレフもそうだ。馬鹿でもないくせに、野心がない。イェズラムに仕えた、忠誠心しかないような奴だ。

 そんな案の定のことをデンはギリスに答えた。

「俺がそんな玉か。見りゃわかるだろ。俺は治癒者だ。派閥では代々、デン先鋒せんぽうを率いる。何で俺が先頭を走るんだよ」

 ジェレフが言っているのは戦場での話だ。もっともな反論だが、ギリスが言いたいのは、王宮での先鋒せんぽうの話だ。

 実際、治癒者が派閥を率いた実例がない訳ではない。

 悪名高き、暗君の時代の支配者、不戦のシェラジムも派閥のデンだった。

 今はもう存在していない、治癒者だけの派閥を率いていた。

 彼らは戦場でも、英雄たちの生殺与奪を握り、誰を癒し、誰を見捨てるかを選り分けていた。大きな力だったが、それゆえに憎まれたのだ。

 ジェレフがデンわれば、皆、治癒者シェラジムを思い出すだろうか?

 ジェレフは族長の信任も篤く、それを有力派閥のデンとして横に侍らせたリューズ・スィノニムを見たら、皆は嫌な気分になるのだろうか。あの時代の再来かと。

 ギリスには分かりかねたが、子供時代にその当時を知っているジェレフが、そう思っていることは間違いなかった。デンは子供の頃に施療院で、タンジール陥落に備えて市民に配る毒を調合する手伝いをしたらしい。皆で心中するために。

 それがデンにとっての、暗君と治癒者が支配した時代だ。

 おそらく、それがジェレフが長老会に一度も呼ばれなかった理由でもある。

「けど皆、不戦のシェラジムは嫌いでも、ジェレフは好きだぜ」

 ギリスが教えると、ジェレフは難しい顔だった。

「お前らに愛されて俺は幸せだよ」

 そうは思っていなさそうな顔でジェレフが悪態をついた。

 たぶん冗談なのだろうと思ったが、ギリスにはよく分からなかった。

「皆の気を変えさせるような何かが、スィグルにあればいいが。短期間では無理だ」

「親父と将棋でもさせてみる?」

 ギリスが言うと、ジェレフは寝台に寝そべって、ふふふと皮肉に笑った。

「たぶん負けるし、万が一勝ったら反感を買う」

「誰の?」

「皆のだ。お前にはわからんのだろうけど、族長は特別なお方なんだ。俺たちにとっては。常勝無敗の名君なんだ」

「へぇ」

 本気で言ってるらしいジェレフに、ギリスは少し面白くなって、にやにやした。

「皆、イカレてる」

「イカレてないお前がおかしいんだ」

 ジェレフが寝台から椅子を蹴ってきた。

 ジェレフが族長にイカレてるのは間違いない。

 少年時代から側仕えの治癒者として信頼も篤く、族長が当代の奇跡と褒め称える英雄だ。治癒者嫌いとはいえ、リューズ・スィノニムはジェレフには旨みのある族長なのだ。

 それを別にしても、ジェレフは単に族長を崇拝している。当代の星として。それが魔法戦士の忠誠というものだった。

 族長は皆に多くの英雄譚ダージを与えた。煌びやかな詩と、それが歌う、生きる意味を。

 しかしギリスの新星スィグル・レイラスがトルレッキオから持ち帰ったのは、戦いの終わりを命じる天使の命令書だった。

 あいつは、白羽の紋章がついた紙切れ一枚で、英雄たちの時代を終わらせたのだ。

「長期戦を覚悟しろ。今、急に、スィグルが頭ひとつ群を抜いたら、何が起きるかわからん。族長冠の継承はまだずっと先なんだ。殿下を守って盛り立てていける後見もなしに、名声だけ高めたら、身の危険がある。無害だと思われているほうが安全だ」

「もう玉座の間ダロワージで一発やっちまった後だけど」

 ギリスがにっこりして言うと、デンはまたギリスの膝を蹴ってきた。

「馬鹿野郎。エル・エレンディラも呆れていたぞ」

 そう言われても、 驚いてひっくり返る王族を見たのは、ギリスにはいい気分だった。

 貴重な種馬だ。殺すわけにはいかないが、それでも別に全部でなくていい。

 金と宝石しかない大広間でちまちま争いやがって、くだらねえとギリスは思っていた。

 いつでも殺せる。あれが輝く星でないのなら、なぜ命を削って守ってやらねばならないのか。

「エレンディラおばちゃんもビビったから、あの場で咄嗟に力を貸してくれたんだろ」

「まあな」

 ジェレフは腹立たしそうに言い、寝台の枕元にあった煙草盆に手を伸ばして、煙管を取った。

 それにはもう葉が詰めてあり、ジェレフは寝台に寝そべったまま、煙草盆の火口に火種を吸いにいった。

 はぁ、と淡いため息のような微かな音がして、ジェレフが煙を吐くのを、ギリスは見つめた。

「頭痛いの、ジェレフ」

「いいや」

「じゃ吸うなよ」

 ギリスが言うと、ジェレフは低く籠った笑い声をたてた。

「長生きしてよ、ジェレフ」

「嫌なこった。紫煙蝶ダッカ・モルフェスはじきに効かなくなる。俺は痛いのは嫌いだ。さっさと逝く」

紫煙蝶ダッカ・モルフェスよりいいのが施療院にあるだろ」

 当代が全土に禁令を発し、英雄たちにも麻薬アスラの使用を制限している。

 どの薬を使ってもよいか、それを決めたのはジェレフだ。

 まだ大人とは言えない年齢の、稀な秀才だったこいつに、英雄たちの品位を保てる範囲の鎮痛薬を族長が選ばせた。

 英雄はかくあるべしと、ジェレフは選んだのだろう。まだ石の症状の軽かった、少年時代の頭で。

 薬が切れれば英雄たちは死ぬしかない。族長はそれを知っていただろう。英雄イェズラムに育てられたのだから。

 それまでに殺す。そうなるまで生きてはいないのだから安心しろと、あの綺麗な男は皆に言っているのに、なぜ誰も気づかなかったのか。

 戦時だった。鎮痛する暇もなく、皆、苦悶して戦い、すぐに死せる英雄になったのだ。そういう時代だった。

 ジェレフも思ったのだろう。それが英雄の本懐だと。どうせ死ぬなら、せめて品位を保ちたい。

「あとに残っているのは、気が狂うような薬だけだ。戦えないんじゃ意味がない」

 ジェレフはそれが嫌なように言っている。

「今だってイカレてんじゃん」

 ギリスが悪気なく言うと、ジェレフは心外そうな顔をして、何を言いたいのか自分を指差して、しばらくあんぐりとしていたが、結局なにも言わなかった。

「用が済んだなら、さっさと帰って寝ろ」

 ジェレフは諦めたように、先輩風を吹かせて言ってきた。

「それが、もうひとつ相談があるんだけどさ」

 言おうかどうしようか悩んで、ギリスは結局言った。他に相談できそうな者の心当たりがなかったので。

 ジェレフは寝台に寝そべったまま、不愉快そうにこちらを見ていた。

 うるさい帰れとは、ジェレフは言わなかった。なら話していいのだろうと思い、ギリスは打ち明けた。

「俺、スィグルと喧嘩しちゃった」

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