018 襲撃

 戻ってきた主人を見て、宮廷用の槍を持っていた衛兵が槍を上げ儀仗礼ぎじょうれいをした。それはスィグルを迎え入れるための一礼で、いつものことだった。

「見送りはもういいよ、ギリス。もう遅いし、お前も帰って寝たら」

 ギリスも眠いものだと思い、スィグルはねぎらったつもりだった。

 しかしギリスは首を横に振り、まだスィグルの先に立ったまま歩いた。

「まだ用がある」

 ギリスはそう言い、儀仗礼の衛兵の前まで行って歩みを止めた。

「お前ら、所属は」

 ギリスは自分よりも背の高い衛兵二人に、胸を張って聞いた。

 衛兵は宮廷に仕える者たちで、軍に所属していない。こう見えて官僚なのだ。

 武官である彼らは宮廷での階級を持っていた。

ヘス二階であります」

「なんでだ。王族の警備はレダ以上の者が務めるはずだ」

 ギリスの声はのんびりと聞こえたような気がした。

 そういえば、この扉の衛兵はいつも、鎧に緑色の徽章きしょうを付けている。その色が彼らの所属を表していたのだろう。

 なるほど、とスィグルが思った矢先、ギリスが舞踊のようにくるりと身をひるがえし、晩餐用の礼装の靴のかかとで、緑の衛兵の顎を振り向きざまに蹴り上げた。

 短いうめきを上げ、片方の衛兵が昏倒こんとうし、それを見ていたもう片方の衛兵が、儀仗礼ぎじょうれいのままぎょっとしていた。

 それが槍を構え直すより早く、ギリスがまたくるりと回旋かいせんして、衛兵の膝を蹴り払った。

 よろいを鳴らして倒れた兵の首を、唖然とするスィグルの見ている前でギリスが締めた。

 華麗な刺繍のある礼装の腕を首にかけ、もう片方の腕で自分の手を掴んで締め上げる。

 衛兵の足がばたばたと暴れたが、それも僅かの間で、兵は自分より小柄なギリスに抵抗できなかった。

「やめろ‼︎」

 スィグルがやっと声を出せたのは、衛兵がぐったりと無抵抗になった瞬間だった。

 その時やっと、スィグルはどっと冷や汗をかいた。王族の衣装の中で。

 この服装では走って逃げることもできない。そう思ったが、スィグルは咄嗟とっさに廊下をはさんだ向かいの壁に後退あとずさり、力なく横たわる衛兵を廊下に打ち捨て立ち上がるギリスと向き合った。

「どういうつもりだ」

 怒鳴る声で言い、スィグルは魔法の使い方を思い出そうとした。

 念動が使える。ギリスの氷結術には敵わないだろうが、ギリスを突き飛ばす程度の力はあるはずだ。

 それでも魔法戦闘には集中力がいる。

 急な出来事に自分が情けないほど動揺しているのをスィグルは感じた。

 殺さないと。

 そう思ったが、なぜか力が出なかった。

 どうもギリスが好きだったらしい。

 何かの間違いだと、心のどこかで思った。殺したくない。

 唯一の味方だったんじゃなかったのか。

 そう思って見つめたギリスは、ひどく冷たい目で見返してきて、そんな感情など一欠片もないように見えた。

 魔法戦士だ。早く殺さないと……。

 そう決めてにらむスィグルの視線から、ギリスは平気で目をらした。

 彼が衛兵のいない扉に手をかけ、押し開くのをスィグルは見た。

 なぜそっちへ行くのか、スィグルには分からず、ギリスが礼装用の剣を抜くのを呆然と見た。

 魔法戦士は武装している。剣は細身で華奢な宝剣ではあるが、ギリスが抜いた剣には刃があった。

「やめろ‼︎」

 部屋に入っていくギリスの早足を追おうとして、スィグルは自分の足がまともに動かないのを感じた。

 一人目の兵が蹴り倒されるのを見てから、どうも腰が抜けそうだった。

 でもギリスを追わないとと、感覚の薄くなった足で自分の部屋に走ると、盛大な女たちの悲鳴が聞こえた。

 その声に頭がしびれるような恐怖が湧き、スィグルは立ちすくんだが、立ち止まっている場合ではない。

 宝剣を抜き、スィグルは後を追った。

 ギリスは侍女たちがいる控えの小間こまの扉の前にいた。

 そこは通りのになっており、侍女だけが通る通路にも出口がある。そこを通って女たちは食事や衣装を運んでくるのだ。

 ギリスはそれを知っていたらしい。

 最初に謁見えっけんに来た時に中を見ていたのだろう。

「逃げろ、女ども」

 抜き身の剣で扉を開き、そう言うギリスと向き合う侍女は数人いた。

 皆、腰を抜かして青ざめていたが、慌てたように胸元を探り、震える手で次々に懐剣かいけんを抜いた。

 その光景に見覚えがあり、スィグルはぞっとした。

 いつか、これと同じものを見た。

 元服の旅の行列が襲われた時。

 侍女たちが懐剣を抜き、母と自分たち兄弟を守ろうとしたが、戦った者は死んだ。

「やめろ‼︎ 抵抗するな。早く逃げろ」

 戦うしかないんだ。

 スィグルは覚悟を決めた。

 かと言って剣術に覚えはなかった。

 いくらか習いはしたが、どうも得意とは言えない。せめて弓があればと思えたが、祖父から貰った立派な弓矢は、離れた壁に豪華な装飾具とともに飾られていた。

「俺と戦ったら一撃目で死ぬぞ、スィグル」

 剣を構えもせず、ギリスはそう伝えてきた。

 では念動しかない。

 そう決めたとき、思いがけず甲高い声がして、懐剣を構えた侍女がひとり、ギリスにぶつかって行こうとした。

 その顔に見覚えがあった。

 晩餐にいつまでも呼ばれないスィグルに、食事を持ってくるか聞きにきた女だ。

 ギリスはその足を簡単に払って避け、女はそのまま小間から転がり出てきた。スィグルの足元に。

「お逃げください殿下」

 青ざめた侍女の決死の顔に、スィグルは衝撃を受けた。

 なんの義理で助けてくれるんだ、この女は。そんな恩義もかけた覚えはない。名前も知らない相手だ。

「馬鹿、お前が逃げろ。居ても居なくても同じだ」

 スィグルは咄嗟とっさにそう叱責したが、何が可笑おかしかったのか、ギリスが急に笑った。声を上げて。

「そうだろ? 俺もそう思うよ、スィグル。同感だ」

 小間こまにはまだ懐剣を構え泣いている侍女が数人いたが、襲ってくる気配はなかった。

 ギリスはそれに背を向けて、抜き身の剣を提げた手で、スィグルの方を指して言った。

「その女が仮に俺に向かってくるとするだろ、そしてお前が逃げても、俺は女を斬ってすぐ追いつく。なんで来た。さっきなら逃げられただろ?」

「何をする気だ」

「お前の弟をる」

 そう言うギリスに、結われた髪が逆立つような感覚がした。

 なぜ。そう思うが、やはりとも思った。

 なぜかは分からないが、スィグルを追わず部屋に入るのには、他に理由がない。

「邪魔だろ。居ても居なくても同じだ。さっさと一人減らそう、お前の敵を」

「おやめください‼︎ 殿下はご病気です。兄上様のお邪魔はなさいません」

 悲痛な声で、床の侍女が叫び、スィグルを驚かせた。

 彼女は血の気のない紙のような顔色で、スィグルを見上げた。

 女たちがなぜ自分を恐れていたのか、スィグルはやっと察した。

 スフィルだ。

 この女たちは、自分にではなく、スフィルに仕えていたのだ。

 この二年、ここで弟を生かしていたのはこいつらだ。

 自分の部屋だと思っていたこの居室は、実は弟の部屋で、自分はこの王宮で宿無しだった。

 バン、と鋭く弾ける音がして、ギリスのいる扉の側に矢が突き立つのを見た。

 スィグルは呆然とした。

 誰が射ているのか。

 振り返って、スィグルは見た。弟が立っているのを。

「兄上」

 震えながら弓を引き絞っているスフィルが、青ざめて息ができないという顔をしていた。

 居間の入り口に立っている弟は白い夜着よぎのままで、怖いほどせていた。

 よくその腕で弓弦ゆづるを引けたものだ。

 そういえば弟は小さい時から弓が上手かった。たぶん、僕より。

 でももう弟が弓を引くことはないんだと思っていた。

「スフィル」

 驚いて、スィグルは弟の名を呼んだ。

 恐ろしかったのか、スフィルは気が遠くなったような顔で、弓矢を持ったまま床に座り込んだ。

 スィグルは思わずそれに走り寄った。

 ギリスがどうするかなど、考えていなかった。

「スフィル」

 痩せて骨張った弟を抱きしめて、スィグルは自分も床に膝を折った。

 勝てるわけは無いのだと思った。

 相手は魔法戦士だ。守護生物トゥラシェを一人で倒せるとギリスは言っていた。

 あいつが本気なら、何度でも僕を殺せる。

「その弟、本当におかしいのか。うわさほどイカれてないように見える」

「本当に病気だ。本当だ」

 スフィルはもう青ざめてがたがた震えるだけだった。息も切れ切れだ。弟が気絶するのではないかとスィグルは思った。恐怖の発作で、以前は時々そうなったからだ。

「本当だ。殺さなくていい。スフィルは敵じゃない。弟なんだ、僕の」

 弟の震えが移ったように、自分も震えているのをスィグルは感じた。

 戦わないと。スフィルが殺される。自分も殺されるのかもしれなかった。

 生きないと。生きないと。弟とふたり。必ず生きて、帰らないと。

 混乱してきた頭で、スィグルはゆっくりとそう思った。

 いいや……ここはタンジールだ。しっかりしないと。

「もうやめてよ」

 ギリスに頼んだ自分の声が、まるで懇願こんがんするようだったので、スィグルはがっかりした。

 なぜもっと勇敢な血を持って生まれなかったのだろう。父上みたいに。

「お前がどうやって生きて帰ったのか不思議だ。敵におもねって生かしてもらったんだって思ってるやつもいる。森でシャンタル・メイヨウの足でも舐めたか、スィグル」

「そんなことしてない」

 森の族長には会ったこともない。どうやってそんなことができるだろうか。

「そう言う奴もいるんだ。ジェレフはお前が戦いには向いてないと言ってる。それがどういう意味か分かるか」

「臆病だってことだろ」

 スィグルは吐き捨てるように言った。震える弟にはもう意識がなく、それでも痙攣するように震える手に、スフィルはまだ弓を握っていた。

 貸してくれよ、スフィル。ちょっとだけ。昔はお前の弓を隠してからかって、悪かったよ。今だけ、もう一度だけ、その弓を貸してくれ。

「お前が、怖いと震えるってジェレフが言うんだ。今もそうだろ。震えてるよな。お前が族長になったら、玉座で震えるのか? そういうやつは玉座には向いてない。お前には荷が重すぎる。お前もそう思うか」

 ギリスの話を聞きながら、スィグルは抱き合った弟の弓を握る指を一本ずつ開いた。

 ギリスはそれに気づくだろうか。気づかないといい。そう祈るしかなかった。

「お前の親父が、お前ぐらいの歳まで、字が読めなかったって知ってるか」

 ギリスが急に言うので、スィグルはびっくりした。

「そんなわけないだろ」

「いや本当だ。イェズラムが言ってた。お前の親父は王族としての教育は受けてない。母后が後宮での争いごとに負けたんだ。お前と同じだよ。族長は自分の部屋もなかったし、読み書きもできなかった。玉座の間ダロワージに席もなかった。それでも今は玉座に座ってる」

「そんなわけ……」

 知らない話をされて、スィグルは動揺した。でっちあげにしては、あまりに酷い話だ。

 スフィルが取り落とした矢が一本だけ、床に落ちていた。それはギリスからも見えているはずだ。

 それを拾ったら、すぐに射なければならない。

 だんだん力を失ったスフィルの手が、やっと弓を渡してくれた。

「なんで族長が玉座に座れたか、知ってるか」

 ギリスは何かを知っているという顔で、小間の戸口からこっちを見ていた。

 まだ抜き身の剣を握ってはいるが、構えてはおらず、開いた扉に背を預け、くつろいだ様子だった。

 飛ぶ矢にとっては、ギリスの立っている戸口はすぐそこだ。この距離で射れば、絶対に外さない自信がスィグルにはあった。

 心臓に一矢いっし。それで勝てる。

「皆、知ってることだ。イェズラムが、不戦のシェラジムを口説いたんだ。お前の爺さんにリューズ・スィノニムを指名するように。族長はああ言うけど、本当なら族長になるはずだった族長の兄をったのはイェズラムだ。アズレル・レイナル・アンフィバロウ。イェズラムの新星だった殿下だよ」

「嘘だ」

 スィグルはその名の人物が系図にいたのは知っている。他ならぬ自分の一族の者だ。

 だが、その人物は継承指名には参加していない。首に絹布を巻かれていない骨が墓所にある。

「本当だって。そいつがずっと、お前の親父を王宮でいじめてたのさ。飯も食わさず廊下で寝させて、読み書きも教えなかった。なぜか分かるか」

「母親が……弱かったからだろ」

 王子たちの力関係は、幼いうちには後宮にいる母親の権勢で決まるのだ。実質的にそうだった。

 彼女らと、その背後にある血筋の者たちの力が、王子たちの継承争いを支えている。

「いいや。弱い奴は虐められない。そんな必要ないんだ」

 ギリスの話に、スィグルは顔をしかめた。そうだろうか。僕は十分、酷い目にあってる。

王宮ここでやられるのは、邪魔な奴だよ。アズレル・レイナル殿下は将棋が好きだったらしい。強かった。でも、弟には一度も勝ったことがなかった。お前の親父は餓鬼の頃から一度も、誰にも将棋で負けたことがないんだ。一回もだぞ。今でも族長は不敗だ。イェズラムはそれを見て、お前の親父を即位させることにした」

「何が言いたい」

「お前に、そういうものがあるか、スィグル」

 ギリスの質問に、スィグルはため息をついた。

「ないね。悪いけど。そんなものはないよ」

「これから作れ。怖かったら震えてもいい。俺が守る。でも、族長になるのはお前だ。お前が新星なんだっていう、あかしがいる」

 ギリスが何を言っているのが、スィグルには分かりかねた。

 そんなことは、今はどうでもいい。

 スィグルは矢を拾った。

 それをギリスも見ていたはずだ。

 それでもギリスはただ扉にもたれて立っているだけだった。

 スィグルは立ち上がって、弓に矢をつがえた。弓弦を引き絞り、ギリスの心臓を狙って躊躇ちゅうちょなく放った。そのつもりだった。

 だがギリスは宝剣で簡単そうに矢を払った。

 そんなことができるとは、スィグルは考えてもみなかった。

 矢は一本しかない。

 壁にかけられたえびらの矢を取りに走るか。それをギリスが許すだろうか。

 そう迷った時、床に伏していた侍女が急に立ち上がって、懐剣をギリスに向けて走り寄っていった。

 女は斬られると思った。ギリスは剣を持っていたし、侍女の動きはスィグルの目にも、ずいぶん遅かったからだ。

 それでもギリスは刺された。平然と。

 体当たりするように突進した侍女の懐剣がギリスの脇腹に突き立ち、侍女は驚いた顔で英雄を見上げた。

 うまくいくとは、侍女も思っていなかったらしい。

 ギリスは自分を刺した女を、何事もなかったように、じっと見つめていた。

「お前は合格だな。でも場所がまずい。刺すなら肋骨は避けろ。致命傷にならない」

 侍女の握る懐剣から血が滴っていたが、ギリスは平然としていた。

 まるで死霊しりょうでも刺したようだった。痛がる様子もない。

「スィグル。この部屋は引っ越そう。これじゃお前を守れない。もっと腕の立つ衛兵もいるし、侍女にも武術の手練てだれを置きたい」

 懐剣が突き立ったまま、ギリスは嘆かわしそうに言った。

「その弟はどうするんだ」

 床で丸くなって気絶しているスフィルを宝剣で示して、ギリスは聞いた。

「弱すぎるんだよ。お前は」

 困ったようにギリスは言った。

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