017 狂人たち

「お前の部屋なんだけど」

 先に立って歩きながら、ギリスは思案する声で言った。

 それについて行きながら、スィグルは部屋まで送るつもりらしい英雄の話を聞いた。

「子供部屋のままだろ。引っ越したほうがいい。明日、手配する」

「明日?」

 急な話に、スィグルは驚いた。

 確かに今の居室は子供時代の王族が過ごすための部屋だった。

 それで特に不自由ということはなく、日々の暮らしには十分だったが、王族は成人すると部屋を移るのがしきたりだ。

 タンジール王宮には無数の部屋があり、砂漠の蟻塚ありづかのように、それらが通路で繋がれている。

 全ての部屋に住人がいるわけではなく、使われずに閉鎖されているものもあるが、そこに住むべき主人が現れたら、部屋はまた開封されて使い始められる。

 王族として数えられる者が、その代に何人いるかは分からない。行き場のない者が出ないようにか、王宮にはとにかくたくさんの部屋があった。

 部屋にはそれぞれの格式があり、王宮の中心である玉座の間ダロワージに近いものほどくらいが高い。族長の居室のそば近くで寝起きするのが王族には一番の名誉だ。

 そういった部屋はもう埋まっている。

 おそらく、今の子供部屋のほうが父の寝室には近い。

 引っ越せば遠くなってしまうだろうとスィグルは思ったが、こういうものは早い者勝ちだ。

 前に住んでいた者をよそに移してでも入居するという強権の者がいれば別だが、そこまでの荒事あらごとは王族の間では滅多に起きるものではない。

 誰が誰より強いかは、生まれる前から決まっており、誰がどの部屋で日々を送るのかも、あらかじめ決まっているようなものだ。

「お前の部屋はある。工事は途中で止まったままだけど、住めなくはないだろう。いつまでもチビの寝床で寝起きしてるよりはいい。面目めんぼくが立つ」

 学院から戻って以来、スィグルが漠然と思っていたことを、ギリスはてきぱきと説明してきた。

 そんなことはスィグルも分かっていたが、誰に何を命じればよいのかも分からなかった。相談相手もいない。

 それに悶々として無策だったのは認めるが、それにしてもギリスは手際がいいようだった。

 今までひと月もの間、ただ悶々とするだけだった自分のほうが馬鹿みたいだ。

 スィグルはそう反省しながら、先に立って歩くギリスの後ろ姿を見上げた。

 その背中は堂々として見えたし、背もスィグルより高い。

 ギリスが腰の煙草入れに挿している銀の長煙管も、英雄然として見えたし、心強いような気がした。

 こいつに任せて、よろしく頼むと言えばいいのか。

 即答できないわだかまりを感じて、スィグルは黙っていた。

「明日中に、住める程度に部屋を整えさせておくから、明日からそっちで寝ろ」

「それだと、急じゃないか?」

 気が進まず、スィグルは俯いて答えた。

 今更、見慣れた子供部屋の景色が惜しくなったのかもしれなかった。

「いいや急じゃない。本当ならもうとっくに、そっちで寝てるはずなんだ。お前がヤンファールで人食ってなけりゃ、もう二年はそこに住んでたはずだ」

 指を二本立てて見せ、ギリスはそれが酷い遅刻だという顔で振り返って見てきた。

 スィグルは顔をしかめてそれと向き合った。

「その話、しないでもらえないかな」

 スィグルが怒った声で言うと、ギリスは不思議そうに目を瞬いていた。

「お前は気にしていないのかもしれないけど、僕は気にしてるんだ」

「二年ぐらい気にするな。大丈夫だ。必ず取り戻せる」

 励ます口調で言うギリスの真顔に、スィグルは怒りを忘れて面食らった。

「いや……そうじゃないよ。そっちの話じゃない」

 ふざけてるのかと、他の者なら思っただろうが、スィグルはこの年上の少年が他の者とは違うのを感じていた。

 不可解そうにこちらを見ているギリスの顔には全く悪気がなさそうだった。

 それが演技だとは、スィグルには思えなかった。

 悪気なく人を騙すような奴なのかもしれないが、そんなことは、まだ分からない。

 どうするか決めかねて、スィグルは歩きながら小声で話した。

「ギリス……僕がヤンファールでどうだったか、軽く話すのはやめてくれ。お前が気にしてないのは分かったよ。でも僕は思い出したくないんだ」

「どうして」

「怖いからだよ」

 スィグルはうつむいて歩きながら、ギリスに答えた。

 英雄だという少年は、しばらく答えず、ただ黙って王宮の通路を先導して歩いた。

「何が怖いのか、俺には分からない」

 ギリスはやがて、ぽつりと答えた。

 スィグルを非難している訳ではないようだった。

「俺はその、怖いっていうのが、分からないんだ。全然。皆、すぐに怖がるが、俺には分からない。戦いも、死も、森の守護生物トゥラシェも……」

「それほど勇敢だって言いたいのか?」

 そうではないと思ったが、スィグルはそう言ってみた。ギリスがもしそう思っているなら、それでもいい。

「馬鹿だってことだろ。お前の親父に言わせれば」

 ギリスがそう言うのに、スィグルは可笑しくなって、ふふふと笑った。

 晩餐での父の話と、その時の突拍子もないギリスの声を思い出したのだ。

 でも、振り返ったギリスの顔は真顔だった。

 スィグルは淡い笑みのまま、その冷たい容貌を見上げた。

「父上は、僕を励ましたんだよ。僕が臆病だってご存知だから。それはいいことだって、僕を励ましたんだよ。恐れるのは良い事だって」

「臆病なのがいいことな訳ない。お前は王族なんだ。誰よりも勇敢でないと」

 ギリスはきっぱりと言った。

 それも可笑しくて、スィグルはふふふとまた笑った。

「まあ、そりゃあそうだけど。でもお前も、エル・イェズラムには馬鹿じゃないって言われたんだろ?」

「そうだよ」

「じゃあそれでいいじゃないか。お前は馬鹿じゃないし、僕も臆病じゃないんだ」

「お前は臆病じゃない」

 ギリスはそれも、きっぱりと言った。

「イェズラムがそう言ってた。お前が生きて戻ったのは、勇敢だったからだ」

 断言するギリスには、全く疑いがないようだった。会ったこともなかったスィグルのことを、まるでよく知っているみたいに。

「なんでお前はイェズラムの話ばかりするんだ」

 スィグルは注意深く聞いた。ギリスはそれがおかしいとは思っていないらしかったからだ。

 王宮には大勢の竜の涙がいるが、彼らは多かれ少なかれ病人だ。母親の胎内にいる時から、竜の涙という宿痾しゅくあに冒されていて、それは頭の中で脳を食う病魔なのだ。

 ほとんどの者はまともだが、それは彼らが厳選されているせいだ。

 生まれ落ちてすぐ、英雄たちは全土からこの王宮に引き取られ、ここで育てられる。

 だが成人まで生きている者は一握りだ。英雄として使い物にならないものには、幼いうちに死が与えられる。

 英雄譚ダージに称えられる大英雄になる者は、砂漠の中の一粒の砂だ。

 それでも、ギリスは既に自分の英雄譚ダージを持っていると言っていた。彼が強力な魔法を持っているという証だろう。

 ギリスはその能力のゆえに王宮で生かされているが、でも結局は病人なのだ。

 彼らは生来の病理の他にも、鎮痛のための様々な麻薬アスラも吸う。それは薬効と引き換えに、彼らを壊しもする薬だ。

 英雄たちは王宮ここで徐々に狂い、病み衰えながら戦うのが定めだ。

 その強大な魔法で、この部族は戦い抜いてきた。彼らの命を消費して。

 それを兄弟として王宮で生きるのが、王族である自分の定めだった。

 ギリスにとって自分が新星だというなら、彼はスィグルの双子の兄だ。英雄ディノトリス。

 太祖アンフィバロウはその双子の兄が持っていた千里眼せんりがんの魔法によって、隷属れいぞくの地だった森を脱出し、王都タンジールへの逃避行を成功させた。部族の始祖を語る英雄譚ダージには、そううたわれている。

 後の王都タンジールとなる最初の廃墟に到着したとき、エル・ディノトリスは末期的な竜の涙に冒されており、最期に双子の弟アンフィバロウを族長として戴冠させて死んだ。

 ディノトリスとは、射手いてと言う意味の名だ。

 ギリスは僕の射手ディノトリスになろうとしてる。イェズラムがそう命じたからというだけの理由で。

 大英雄イェズラムは本当にこんな奴に、そんな大任を与えていったのか。

 もしもそうだったとして、その時の彼はまだ正気だったのか。

 エル・ギリスも、実は既に正気ではないのかもしれないではないか。

 それを考えるべきかと、スィグルは思った。

 新星と射手。それは多分、あっさりと信じて良いような話ではない。

「なんでって……イェズラムはいつも賢くて強い。俺が分からないことも全部知ってる。だから、なんでもイェズラムに聞けばいいんだ。答えを教えてくれる。イェズラムの言う通りにしていれば、俺たちは何も間違えたりしない」

 ギリスはスィグルの質問に、困ったように答えた。

 スィグルにはそれが、ギリスの考えとは到底思えなかった。

 父がさっき、ギリスを諭していったのは、きっとこの事だ。

「イェズラムはもう死んだんだよ。ギリス。彼はもうお前に答えを教えられない」

 スィグルがそう教えると、エル・ギリスは傍目にもよくわかるほど、苦痛の顔をした。

「なら、イェズラムは死ぬ前に、俺に答えを全部教えたんだろう。お前が新星だ、スィグル。それがイェズラムが俺に教えた最後の答えだ」

「イェズラムがそう言ってたから、ってこと?」

 ギリスは頷いた。

「ギリス。お前はどう思うんだ。僕が本当に族長になれると思うのか」

「俺が戴冠させる」

「それがイェズラムの命令だからか」

 スィグルが繰り返し聞くと、ギリスは混乱した顔をした。なぜ何度も聞かれるのか、分からなくなってきたのだろう。

「ギリス。僕はお前のこと、なんにも知らない。イェズラムのことも」

 スィグルは歩きながら、今、自分の唯一の味方だという英雄を見上げた。

「族長の戴冠は、この部族のみんなの運命を変える出来事だ。さっき父上がおっしゃっていたように、僕はもっとよく考えよう、自分がどうするべきか。僕がただ生きたいがために冠を求めるのでは、玉座には座れないんだ」

「族長がさっきそんなこと言ったか?」

 ギリスはまた不可解そうな顔をしていた。

 それを見て、スィグルは少し呆然とした。

 こいつはさっきも僕の横で話を聞いていたはずだけど、実は何も聞いていなかったのか。食っていただけで。

 あんなところに僕を連れていっておいて、話も聞かずに、ただご馳走を食っていたのか。

 そう思うと、スィグルは震えた。とんでもないことだ。

 それを玉座の間ダロワージにいた全員が見たのだ。僕の兄弟も、その取り巻きも、後宮の母親たちも。

 あれは宣戦布告だった。自分はもう、その矢を放った後なのだ。

 いつかはそうするつもりだったとはいえ、こんななし崩しに始めるつもりはなかった。

 では、どんなつもりだったのかと言えば、無策だったのだが。

 臆病者のスィグル・レイラスには実は、そんな勇気はいつまでもなかったのかもしれない。

 恐れを知らない、この馬鹿のお陰で、僕は玉座の間ダロワージに引き出されたんだ。ほとんど怖がる間もなく。

 そう思うと急に可笑おかしさが込み上げてきて、スィグルは低く堪えた声で笑った。

 ギリスは不思議がる目でこちらを見ていた。

 どうやらこの馬鹿と、臆病者とで、助け合って行くしかなさそうだ。

 他に味方らしい味方もいない。それが孤軍よりましなのかも、さっぱり分からない。

 イェズラムがなぜ、こんな奴に射手になれと言ったのかも。

 何もかもが分からないなりに、もう始めてしまったことだけは明らかだった。

「なんで笑ってるんだよ。やっぱりおかしいのか、お前」

 気味が悪そうにギリスに言われ、スィグルは心外だった。お前に言われたくない。

「まあ、まずは自己紹介の続きを聞くよ、エル・ギリス。今日はもう遅いから、明日から追々。それでいいだろ?」

 そう頼むと、ギリスは顔をしかめて不満そうだった。

 しかしもう、スィグルの居室の扉が見えていた。扉の前に衛兵が二人。

 ここでギリスと別れてもいいと、スィグルは思った。

 もう部屋は目の前だ。

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