011 英雄の訪問

 晩餐の身支度には早くとも半刻はんときはかかる。

 長年仕えた者なら勝手がわかり気心も知れているため、そのぐらいで開放してもらえるが、今の部屋付きの者たちはそうではなかった。

 王宮に仕えるのだから相応に教育された者たちだろうが、なにしろ主人に不慣れだ。

 髪を結い、正装の長衣ジュラバを着付け終わって、神妙な面持ちで一番年嵩の侍女がスィグルの髪に最後のかんざしを挿し終えたのが、普通ならばもう呼び出しの侍従が来ようかという刻限だった。

 宴席の支度を毎日するとなると、大変なことだ。

 そんなもの毎日でなくて良いというジェレフの話も、あながち冗談とは思えない。

「少し痛いんだけど、これはこんなものか?」

 言うかどうか迷って、スィグルは支度用の腰掛けに座ったまま、結局言った。

 侍女が挿したかんざしが痛い。少々頭にざっくりと来た気がした。

 単に正装で着飾るのが久しぶりだったせいで、この服装に耐えられないだけか。それとも侍女の髪結いの腕が悪いのか。

「申し訳ございません」

 青ざめて侍女がかんざしを直しに来た。震える手で位置を直されたが、次は別の場所がえぐられる感じがした。

 もう諦めた方が良さそうだ。そのうち慣れるだろう。

 慌てて道具類を片付け、居間を整える侍女たちに腰掛けを明け渡して、スィグルは居間の主人が客を迎えるための上座に座りに行った。

 美しい衝立ついたてや花を生けたつぼなどで飾り付けられた壁を背景に、主人がゆったりと座れる敷物と円座がしつらえられており、家臣の叩頭こうとうを受けるにふさわしい場所だ。

 居室の主人はそこで侍従が呼び出しに来るのを待ち、部屋を出立して玉座の間ダロワージに続く通路を歩いて移動する。

 なにしろ王族だけでも何人もいるため、廊下で鉢合わせたり、広間ダロワージに入る入り口で行列が溜まって、順番などでごたごたと揉めないように、宮廷の侍従たちがうまく差配しているのだ。

 そのように、宮廷暮らしとは、食事一つとっても決まり事がある。王族と言えど、たとえそれが部族で最高の権力を持つ族長でさえ、侍従が行けと言えば行き、戻れと言えば戻らねばならぬ。そうでなければ重々しく着飾った者の群れが、この入り組んだ地下宮殿の中を、日々滞りなく行き来することはできない。

 だが今宵も侍従はやってこなかった。彼らが連れ出して広間ダロワージに引き出していく王族の一人として、スィグルは予定されていないのだろう。

 待っていても、それが今宵、急に変わるものなのか、見当がつかなかった。

 あの、エル・ギリスとかいう少年が、何かの手配ができるということなのだろうか。

 ジェレフの話では、あの少年は魔法戦士たちのデンである長老会と縁のある者なのだそうだ。それが侍従たちの仕事に口出しできるものなのか、スィグルには分かりかねたが、晩餐に出ろというのだから、そうなのだろう。

 何がどうなるのやら。

 そう思って待つと、エル・ギリスがやって来た。

 着替えの後片付けが済むか済まないかという、すぐの頃合いに、上座に座したスィグルに飽きる暇も与えず、慌てた様子の侍女がまた戻ってきた。

「ご来客でございます、殿下。英雄エルギリスが御目通りを願い出ておられます」

 本当に来たなと、スィグルは内心、少し驚いていた。来るはずがないような気も、どこかでしていたのだ。

「通せ」

 侍女に命じると、彼女がそれを伝えに行くより早く、居間の戸を潜ってくる者がいた。

 見覚えのある顔が、この前見たのと同じ、まるで表情のない顔でスィグルの居室に押し入ってきた。

 入って良いと答えてないのに勝手に入ってくるとは。

 無礼だが、先日よりはましだった。エル・ギリスは正装していたからだ。

 英雄エルは白っぽい灰色の長衣ジュラバを着ていた。もちろん礼装のだ。髪も結い上げ、魔法戦士らしい凛々しさのある髪型を、王宮の竜の涙らしく銀と宝石で飾っていた。

 片耳にだけ、幾つもの紫の雫石を下げた意匠の耳飾りをしている。

 スィグルには見覚えのあるものだった。

 人質としてスィグルが王都を発つ時、行列の先導役として随行してくれた、エル・イェズラムが身につけていたものだ。

 ギリスがあの亡き大英雄の息のかかった者だというのは、少なくとも嘘ではないのだろう。

 形見の品を身に帯びる程度には。

 スィグルが声もかけずにじっと見ていると、ギリスは戸をくぐってすぐの敷物の上で、黙ってひざまずき、叩頭礼こうとうれいをした。

 王族の血筋の者に対するのに相応しい礼儀だった。

「お迎えに参りました。殿下。玉座の間ダロワージへ」

 挨拶もせず、ギリスがそう言うのを、スィグルは困った顔で聞いた。

 この少年は確かにその用事で来たのだろうが、それにほいほいと付いていくには、手順が略式に過ぎた。

 そもそも、お互いまだ知り合いですらない。

 こいつが、呼び出しに来た侍従ならば良いが、そうではないなら、スィグルを連れ出せる立場ではないはずだ。赤の他人なのだから。

「その前に、お前が何者なのか言ったらどうだ。エル・ギリス」

「殿下の射手いてです」

 前も聞いたようなことを、ギリスは平然と言った。

 侍女があたふたと謁見用に客用の円座を持ってきた。

 そう言えば、ギリスが来ることを前もって侍女の誰かに言っただろうか。今夜は晩餐に行くから正装させるようには命じたが、客が来るのは伝えなかったかもしれぬ。

 仕える者も不慣れだが、スィグルも主人として不慣れだった。

 ギリスは慌てて客座をしつらえる侍女を、不思議そうに見ていた。

「殿下、エル・ギリスより献上品でございます」

 高い台座のついた黒塗りの盆に乗せ、侍女が控えの間から何かを見せに来た。

 脇に置かれたそれに目をやると、小さな菓子のようなものが載っていた。砂糖菓子だろう。

 透明な砂糖の容器に糖蜜を詰めたものに、糖蜜漬けの果物で飾り付けがされた、いかにも宮廷らしい精緻せいちな菓子だった。

「手土産です。控えの間にも」

 至極当然そうに、ギリスが説明した。

 初対面の挨拶の品ということだろうが、まさか菓子を持ってくるとは意外だった。

 そういえば宮廷はそういうところだったかもしれない。

 もらったものの、返礼としてギリスに下賜かしするためのものを、スィグルは特に命じていなかった。

 侍女も来客を知らなかったのなら、気を利かせて用意したりはしていないだろう。急なこととは言え、不調法だった。

「エル・ギリス……来訪ご苦労だったが、あまりにも急な話だ。お前と親しくするか、僕はまだ決めていない。まずは誰かを通じて、お前の意図を僕に話せ。正式な話はそれから……」

「ジェレフが話しただろう。俺が何者かぐらいは」

 ぶつぶつと言い訳するスィグルに、ギリスはあっさりと言った。

 スィグルは驚いて、押し黙った。

「ジェレフが僕とお前を引き会わせたのか?」

 ギリスには気をつけろと言っていたのはジェレフだったではないか。あれは英雄の小芝居だったのかと、スィグルは不快な驚きを感じて、そういう顔をしたのかもしれない。

 それを見て、ギリスが笑った。あははと、可笑しそうに。

 まるで子供のような笑顔だった。

「ジェレフがそんなことする訳ないだろ。あいつは政治のわかんない男だよ。頭はいいけど、それだけだ。施療院せりょういんで働くにはいいが、玉座の間ダロワージへの先導役は俺にしとけ」

「ジェレフと親しいのか」

「同じ派閥のデンだよ。ジェレフはいい奴だよな。殿下」

 席に座って良いとは言っていないが、ギリスは面会を許されたと思ったらしく、立ち上がって客座まで歩き、すとんと円座に座した。

「それで。ジェレフは俺のことを何だって言ってた?」

「お前は悪面レベトだと」

 スィグルは聞いた話を正直に教えた。それにもギリスは面白そうな顔をした。

「違うよ。俺は氷結術師なんだけど、ジェレフはそれは話さなかったのか? 俺も一応、ヤンファールの戦いの英雄なんだけど」

 にっこりとして、ギリスは教えた。

 ヤンファールの。

 スィグルは自分が救出された戦いの名を聞いて、にこやかなギリスと顔をしかめて見つめ合った。

「知らないんだな、俺の英雄譚ダージを」

 ギリスはがっかりしたような声だ。

「異郷暮らしが長くてね」

 活躍を知らないことをギリスが無礼と思うかと、スィグルは言い訳をしておいた。

 本音を言えば、スィグルはヤンファールの戦いのことを詳しく知るのを避けていた。そこで死んだ大勢のことを想像すると、気がとがめたからだ。

「まあいい、追い追い知っても遅くはないさ。とにかく、俺は殿下と無縁の英雄じゃないよ。殿下の救出のために突撃した魔法戦士隊の先頭にいたのは俺だったんだもん」

「お前はいなかった」

 救出に来た者の中に、こんな子供はいなかった。それとも気づかなかっただけか。

 スィグルはじっとギリスの顔を見た。

「いないさ。守護生物トゥラシェがいたんだ。俺はそれをやっつけるよう、イェズラムに言われて、忙しかった。俺のおかげでジェレフたちはお前を助けに行けたんだぞ」

 守護生物トゥラシェ

 スィグルはますます顔をしかめて聞いた。

 それは、部族と敵対する森エルフ族が率いている巨大な生き物だ。乗り物といってもいい。

 主人である森エルフの乗り手を身の内にある嚢胞のうほう状のものに乗せており、それの指示通りに動く。人を食う生き物だ。

 戦場の悪夢だ。

 スィグルは戦ったことはない。初陣もまだなのだから。

 それでも子供の頃から、それがいかに恐ろしい悪魔か、繰り返し聞かされてきた。

 火で倒せる巨獣で、無敵ではないものの、それでも味方には多くの犠牲が出る。

「イェズラムは守護生物トゥラシェ殺しだ。それは知ってるだろ? 養父デンは火炎術を使うけど、俺は氷結術だ。でも同じだよ。守護生物トゥラシェを殺せる」

「お前、何歳なんだ」

 ギリスの背格好を見て、スィグルは聞いた。自分より少し年上なだけに見える。ギリスもまだ少年だ。

「十六だよ」

 なぜそんなことを聞かれるのかという顔で、それでもギリスは素直に答えてきた。

 それなら、ヤンファールの戦いの時、こいつは僕と同じぐらいの歳だったということだ。

「なんでエル・イェズラムはお前みたいな子供を戦わせたんだ」

「そりゃあ、俺が一番強いからだよ。魔法戦士の中で」

 いかにも当然だというように、ギリスは淡い笑みで言い、スィグルの背後にあった壺を指さした。

 大輪の花が生けられている。

 ギリスが何かしたようには見えなかったが、彼に目を戻したスィグルが、魔法戦士がかすかに半眼になったのを見つめた瞬間、激しい音を立てて壺が割れた。

 飛び散った破片に驚いて、スィグルが身を引き振り返ると、壺があったところには氷の塊があり、その中に凍りついてしものおりた花束が囚われていた。

「世の中の大抵のもんは水だ。守護生物トゥラシェもそうだ」

 ギリスは淡い笑みのまま、そう言った。そしてスィグルを見つめた。

 まるで、お前の血も水みたいなものだと彼が言っている気がして、スィグルは身構えていた。

「もっと自己紹介を聞くか」

「お前が僕の味方だと信じてもいい理由を知りたい」

 スィグルが強ばった声で言うと、ギリスはきょとんとした顔をした。予想外の質問でもされたようだった。

「理由? お前が新星で俺が射手なんだ。それ以上何がある」

 ギリスは自分の中では筋が通っているらしい、その話をした。

 しかし、その答えにスィグルがますます険しい表情になるのを見て、ギリスは困った顔をした。

「お菓子を持ってきたのじゃ駄目だめなのか。嫌いなやつにお菓子を持ってきたりしないだろ?」

「馬鹿なのかお前は」

 相手が何を言っているのか分からず、スィグルは聞いた。

 ギリスは首をかしげた。

「そうかもしれない。皆はそう思ってるらしい。俺は馬鹿だって。でもイェズラムは違うと言っていた」

 その話を聞いて、スィグルは自分が何かを期待していたのを感じた。

 気づかなかったが、自分は昨日からずっと、この得体の知れない奴が自分の運命を変えてくれる救いの手なのではと期待していた。

 何か奇跡的なことが起きて、今までの悲しい境遇を跳ね返せる好機になるのではないかと。

 でも、そうではなかったのかもしれない。

 こいつはただの狂人で、大英雄の養い子ジョットではあったのかもしれぬが、救いの手ではない。ただの魔法戦士だ。

 その理解に、スィグルはひどくがっかりした。

 変な夢を見ていた自分にだ。

「そうか……そりゃ、よかったね」

 スィグルが褒める口調で言うと、ギリスはうんうんと頷いていた。

「スィグル」

 ギリスは急に慣れたふうに呼び捨てにしてきて、スィグルをぎょっとさせた。

「俺も知りたい。お前が新星だっていう証拠を見せてくれ」

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