010 スフィル

 スィグル・レイラスは居室に篭り絵を描いていた。

 子供の頃から絵が得意だった。見たものをそのまま記憶して描き写すことができる。

 それが誰にでも出来ることでは無いと知ってからは、得意げにあれこれ紙に描き写して、褒められようと玉座の父に見せたりもしたが、全てはまだ呑気だった子供時代のことだ。

 そんなことに意味はなかった。王族に趣味や特技があっても良いが、そこでふるったところで何の役にも立たない。

 絵は絵師が描くもので、宮廷には高級官僚の待遇で取り立てられた宮廷絵師たちが大勢いた。

 彼らはスィグルの絵を見て、お上手です殿下、と言ったが、絵師になれとは言わなかった。

 当たり前のことだ。

 王族の一生は最初から決まっていた。選ばれて族長になるか、それとも選ばれず墓に入るかだ。

 ふう、とため息をついて、スィグルは文机の筆置きに筆を預けた。

 紙の上にはトルレッキオで見た学院の風景が墨一色の線で描き出されている。

 我ながら、そっくりに描けていた。

 今からその場に行って、絵と実在の景色を重ねても、ぴったりと重なるのではないかと思った。

 だが、それを誰が喜ぶ訳でもない。

 ジェレフに見せようかと、スィグルはうっすら考えていた。

 昨日話した時に、学院の景色を見たいと言っていたし、とりあえず会いに行ける相手もスィグルには他にいなかった。

 こんなことに意味はない。ただの虚しい暇つぶしだった。

 何もしないでいるには、王宮の一日は長すぎるのだ。

 文机から立って、スィグルは広い居間を横断し、幾つかの扉を潜った奥にある暗い寝室に向かった。

 居室はどこもかしこも、しんと静まっていて、誰もいない。自分以外に動くものの気配はなかった。

 それでも、この部屋は一人用ではない。それも子供の頃からずっとそうだった。

 寝室の奥に赤い天蓋のかかった丸い寝台があり、そこにうずたかく枕が積まれている。

 天鵞絨ビロードや絹に刺繍をしたもので、部族の手工芸品だ。

 その山に埋もれて、寝具を被った小さな塊がある。人型の。

 それがゆっくりと上下しているのを眺め、スィグルは自分の目が暗闇に慣れるのを待った。

 布団から白い手が少しだけ出ている。

 弟の手だ。

 スフィルは眠っている。

 大抵の時間を弟は眠って過ごしていた。本当に寝ているのかは分からないが、寝室に篭り、布団をかぶって出てこない。

 枕で防塁を築き、そこに隠れて怯えて寝ているか、じっと身動きもせず息を潜めている。

 無理に連れ出そうとしたり、部屋を明るくすると、弟は恐慌して暴れた。

 弟はいつも、何かが恐ろしくてたまらないらしいのだ。

 おそらく弟は今もまだ、子供の頃に敵に囚われていた地下の穴蔵にいるのだろう。暗闇に潜み、何かに捕まるのを恐れて眠っていた頃のことが、あいつには忘れられないのだ。

 救出されて王都に戻ってすぐの頃には、弟の病状はそこまで酷くはなかったと、スィグルは過去を悔やんだ。

 自分が同盟の人質にとられてトルレッキオにいた間に、弟はこの部屋にずっと一人でいて、気の病を重くしたらしかった。

 自分の身に染み付いた恐怖に寄り縋るようにして、弟は生きている。

「スフィル」

 寝ていると思ったが、スィグルは声をかけてみた。小声で。

 返事はなかった。

「昨日、ジェレフに会ったよ。好きだろ、ジェレフ。お前も会えばいいのに」

 弟に聞こえないよう、スィグルは囁く声で話した。

「スフィル。元気になってくれよ」

 そう頼んだが、弟が回復するはずがないのは分かっていた。侍医たちもそう言っていた。ジェレフでさえも。

 できるかぎり優しくしてやって、スフィルの望むようにしてやり、残りの日々を心穏やかに過ごさせてやるのが一番だと、皆そう言っていた。

 それでも、スィグルはまた子供の頃のように、スフィルと王宮を遊び歩いたり、話したりしたかった。

 自分たちは助かったのではなかったのか。

 眠るスフィルの様子を見ていると、いつか地下の暗闇で見た弟と、何も変わっていない気がした。

 今にも死にそうだ。恐怖で痩せ衰え、今では双子といっても、スィグルとは一見あまり似ていなかった。

 元通りの弟に戻してやりたいと、見るたび思ったが、もしスフィルがそうなったら、自分は不幸だろう。弟も。

 そうなればいずれ、族長位を巡って、同じ顔をした双子の兄弟で殺し合うことになるからだ。

 双子を引き離すのは不吉だという迷信から、今も幼年期の名残りとして二人まとめてこの居室にいるが、どちらかが出て行く必要があるだろう。

 自分の身を脅かす者と一緒に寝起きしたい者はいない。

 弟が正気じゃないお陰で、まだしばらく一緒にいられる。

 弟がずっとそうだといいとスィグルは思った。心がなく眠っているだけの弟なら、ずっとここで飼ってもいいんじゃないか。

 そして、時々こうして話しかける。兄弟みたいに。

 それが一生続くのを空想すると、気が滅入った。

 弟も自分も、本当はさっさと死ぬほうが幸せだったのかもしれない。

 どうしたら幸せになるのか、未来に何を願えばいいのかすら、今は分からない。

「スフィル……今日、お前の知らない奴が居室ここ来るかもしれない。僕の客なんだ。許してくれ」

 スィグルは弟に詫びた。

 王族ならば、もうじき晩餐の支度にかかる刻限だ。風呂に入って髪を結い直し、正装の重く絢爛けんらん長衣ジュラバを侍女に着付けさせて、侍従からの呼び出しを待つ。

 故郷に戻って何度かはスィグルもそうした。王宮の暮らしとは、そうしたものだったので。

 特に命じずとも、居室に仕える者たちが刻々と必要な支度を整える。

 しかし幾日も、正装で待ちぼうけを食わされると、わざわざ時をかけてそれを解き、寝支度をするのが馬鹿らしく思えた。

 それで、もう支度は要らぬと侍女に申し付けてある。

 なぜでしょうかと誰も聞かなかった。

 スィグル・レイラスの王宮での凋落ちょうらくは、聞くまでもないほど明らかだったのだろう。

 病身の弟が玉座の間ダロワージにとても顔を出せないのと同じで、自分もその必要はないと皆に思われているのだ。

 だが今夜は着替えて待てと射手いてが言うので、支度をせざるを得ない。

 あの魔法戦士にからかわれているだけだったら惨めだが、もう今さら惨めさの一つや二つを上塗りしたところで、大差がない。部屋付きの侍女たちにも、きっと良い噂話になるだろう。

「おやすみ」

 少しも動きはしない弟の影にスィグルは挨拶をして、そうっと扉を閉じた。

 居間に戻ると、緊張した面持ちの侍女たちが数人待っており、主人の着替えの準備をしていた。

 見覚えのある暗い赤の宮廷衣装が衣桁いこうに掛けられ持ち出されている。王族のための正装だ。

 束髪そくはつを飾るためのかんざしも盆に整然と並べられていた。かつて元服の祝いとして亡き祖父より贈られたものだ。

湯浴ゆあみをなされますか、殿下」

 小声で聞く侍女は、こちらがいつ飛びかかってきて食いつくのか恐れている顔をしている。

 なぜそうなるのか、スィグルには理解しかねたが、とにかく恐れられている。

「よろしく頼む」

 気まずい思いでスィグルは答えた。

 子供の頃からの馴染みの侍女はいない。

 皆、死んだからだ。スィグルと親しかった者は、あの元服祝いの旅に随行して、皆もういない。

 知らぬ顔ばかりだ。

 助かったのは、母と自分たち双子の兄弟の、三人だけだったのだ。

 女たちが恐れるだけのことはある。

 侍女は主人と命運を共にするが、主人は侍女と生死を共にはしない。

 無能な主人に仕えれば、割りを食うのは下々の者のほうだ。

 その恐れる目に答える言葉を、スィグルはまだ持たなかった。

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