009 悪面《レベト》

 エル・ジェレフはスィグルを居室きょしつには送っていかなかった。

 スィグルにその後の予定がなにもないのを知ると、ジェレフは魔法戦士たちの派閥の部屋サロンに寄っていかないかと聞いた。

 晩餐ばんさん最中さなかなら、皆、玉座の間ダロワージに出かけていて留守だろうし、殿下は食事をしたほうがいいとジェレフは心配げに言った。

 魔法戦士の部屋サロンを訪ねたことは、スィグルには無かった。王族が日常的に出入りする場ではない。

 しかし、全く足を踏み入れない場所でもなかった。

 魔法戦士たちの派閥は、宮廷ではある種の勢力だ。

 彼らは幾つかの派閥に分かれて王都での生活を過ごしている。それぞれの派閥は長い伝統のあるもので、各派閥が彼らの詰所つめしょにあたる共同の部屋を持っていた。

 派閥の勢力を誇示こじするべく、ぜいらした広間と、幾つかの客間がある。

 魔法戦士たちは、そこで寝起きするわけではなく、各自に別の居室が与えられているが、その個人房が彼らにとっての寝床だとしたら、派閥の部屋サロンは共同の居間だ。

 彼らはそこで共謀きょぼうして他の派閥と争い、時には王族を招いて王位継承のはかりごとを巡らす。

 だが普段はただ、皆で寄り集まってくつろぐための場所だ。

 親兄弟がいない魔法戦士にとって、派閥は家族のようなものだ、とジェレフは言った。

 彼らはそこで同じ派閥の者同士で協力し、支え合って生きている。

 誰かが病みつけば看取り、死んだ際の葬儀も派閥が資金を出して取り仕切るものだ。

 どの派閥にも属していない魔法戦士は存在しない。そこから切り離されては、宮廷では生きていけないからだ。

 ジェレフが属する派閥は古い歴史のあるもので、つい先ごろまで、そのデンはエル・イェズラムだった。

 イェズラムは長老会のデンとして魔法戦士全体にも君臨くんりんしたが、一派閥のデンでもあったのだ。

 そこは彼にとっては家族のようなものだった。彼にもっとも忠実な者がいた場所だ。

 ジェレフは、自分もそうだったとは言わなかったが、スィグルを案内するとき、ここはエル・イェズラムの派閥だと教えた。ここではまだ、死者が生きている。その名を忘れない者たちの心の中では。

 スィグルは小さめの客間に通され、ジェレフは部屋サロンにいた者に、客に食事を持ってくるよう言いつけていた。

 その誰かはジェレフに叩頭こうとうし、すぐ立ち去った。王宮の厨房ちゅうぼうに指示を伝えに行ったのだろう。

 見たところ、スィグルとそう年の変わらないような少年だったが、魔法戦士らしく、額には小さな石を生やしていた。

「あの子は晩餐には行かないのか」

 出て行った伝令の魔法戦士が平服だったので、スィグルは不思議になってジェレフに聞いた。

「全ての魔法戦士が玉座の間ダロワージの晩餐に出るわけじゃない。行きたい者や、行く必要がある者だけだ。あんなところで毎晩、正装して飯を食いたいやつがいると思うか?」

 居馴いなれた場所に戻ったせいか、スィグルと卓越しに向き合って円座に座るジェレフは、いくぶんくつろいだ様子だった。笑って軽口を言う。

「君たち王族はそうはいかないだろ。正装して何時間も、あそこに座ってないといけない。大変だ」

 ねぎらうようにジェレフは言ったが、スィグルはじわりと苦笑するしかなかった。

「王族には、あそこに座れないほうが大変なんだけどね」

 自嘲じちょうして言うと、ジェレフも笑っていた。淡く。

「そのことだけど。殿下は玉座の間ダロワージの晩餐に戻りたいだろうか。戻れば継承争いに復帰したことになる。今は幸い、君は誰の敵でもないだろう。大人しくしている限りは」

 ジェレフの話を、スィグルは驚いて聞いた。

「そうだっけ? 僕は自分が皆の敵なのかと思っていたよ」

「悪名をせてるという意味では、そうかもな」

 ジェレフは否定しなかった。苦い笑みでそう言うだけだった。

 スィグルはそれに何と答えて良いかわからず、ただじっと座って黙り込んだ。

「君は争いには向かない。死にに行くようなものだよ、殿下」

「死を恐れない竜の涙がそんなことを言うなんてね」

 ジェレフに何を止められているのか分からず、スィグルは内心動揺して言った。

「君は違うだろ。竜の涙じゃない。うまくやれば俺の何倍も生きられるはずだ。たとえ最期さいごは同じでも」

 ジェレフは暗い目でそう言った。

「なんとかして君を助けられないかな」

 思案する目線を床に落とし、ジェレフは考え込んだようだったが、その話は居心地の悪いものだった。

 ジェレフがしているのは、逃げる算段だ。逃がすよりほかに、スィグルには生きる道がないと考えている。

 だが、スィグルも知らない訳ではなかった。継承権から逃亡した王族がどうなったか。

 彼らは、運が良ければ何者かにいつの間にか殺されて終わるが、運が悪ければ一生、幽閉される。

 王宮の地下にある、一条も陽のささない地底湖の上におりを吊るされて、終生そこで生きた者もいた。

 死よりも酷い待遇だ。

 そのおりは地底湖に今もある。王族の子なら、一度は見るものだ。

 あれを見れば、自分にとっての道はひとつだけだと王子たちは理解する。

 玉座に続くのが、生きることを許された唯一つの道だ。

 だから自分も、疑う余地もなく、それを目指していたかもしれない。名君への道を。

「僕を助けたいなら、玉座に座らせるしかない」

 スィグルが淡々と伝えると、ジェレフはまだ思案する顔のまま、小さくうなずいていた。

「そうだね」

「さっきのあいつ」

 うなずいているジェレフに、スィグルは小声で聞いた。

「誰なの」

「ギリス?」

 ジェレフはため息と共に確かめてきた。スィグルはそれにうなずいて見せた。

「ギリスはエル・イェズラムのジョットだった。今もそうだ。デンの伝令として長老会にも出入りしていた。射手いてだという話は聞いていないけど……でも、そうなのかもしれない」

射手ディノトリス?」

「族長冠の継承にまつわる仕事をする竜の涙だ。誰がそうだというのは仲間内でも明らかにはされないけど、エル・イェズラムもそうだった。デンが君の父上を即位させただろう。理屈上は今も同じ役目の者がいるはずだ。王族を監視して、族長位にふさわしい器を持った者を、選ぶ者が」

「魔法戦士が即位を支援するっていうこと?」

「まあ、そうかな」

 歯切れ悪く、ジェレフは肯定した。

「あいにく俺は詳しくないんだ、殿下。俺は派閥はここだけど、治癒者だから、施療院せりょういんにも属している。長老会は施療院を信用しない」

「どうして?」

 彼らの社会の仕組みがわからず、スィグルは首を傾げた。

 彼ら竜の涙は、常人以上に施療院とは切っても切れない間柄のはずだ。

 ジェレフは困ったように笑っていた。

「君の父上が治癒者をお嫌いだからだよ」

「そんなことはないよ、父上はいつもジェレフのことはめるじゃないか」

 スィグルが心外で、早口にそう言うと、ジェレフはさらに苦笑していた。

「そうだね。でも、さきの族長は……君のお祖父じい様にあたる方だけど、宮廷で治癒者を重用ちょうようしたんだ。先代の射手いてが治癒者だったからだ。その時代、部族は森との戦いに大敗していた。君が生まれる前だけど、皆、もうすぐ死ぬんだと思ってたんだよ、俺ぐらいの年の連中は。タンジールが陥落するんだと思っていた」

 歴史の書物の中でだけ知っている、その話を、スィグルは黙って聞いた。

「その敗北が、治癒者だった射手いてのせいだって、皆は思ってたんだよ。施療院が王宮を支配してたんだ」

「信じられない」

 その時代の空気がスィグルには想像できなかった。父の前の代の宮廷でのことだ。

「だろうね」

 ジェレフは可笑おかしそうに笑って言った。

「でも、そうだったんだ。その頃のことが元で、長老会は君の父上が即位してからずっと、施療院を排除してきた。施療院に属している者が射手いてに選ばれることは当分はないだろう」

「ジェレフが僕の射手いてだったらよかったのにな」

 スィグルは半ば冗談で、気安く言ったが、ジェレフはよほど可笑おかしかったらしい。笑いをこらえる顔をしていた。

 それは幾分、自嘲の笑みだった。

「治癒者じゃなくても、俺は射手いてには向いてないよ。俺には君を玉座に座らせることはできないと思う」

「そんなことないよ。それに……こんなの冗談だろ」

 微笑むジェレフの目が暗かったので、スィグルは心配になった。

 軽口を言うような話ではなかったのかもしれない。

「ギリスは悪面レベトだ」

 ジェレフはほとんど息だけの声で言った。

 そして、帯に持っていた煙管きせる入れから、銀の煙管きせるを取り出していた。

 そこには魔法戦士が鎮痛に使う薬効の葉が詰められており、見ればジェレフは額に軽く汗をかいていた。

うわさだ。俺は信じてなかった。信じたいような話じゃなかったし、俺にはずっと関係なかったからな」

 派閥の卓上に置かれていた煙草盆たばこぼん火口ほくちから、ジェレフは馴れた様子で煙管に火を入れていた。

 吸ってよいかと聞かれなかった。だめだと言われても困るからだろう。

 英雄たちには、どこでも喫煙する権利がある。そうしないと生きていられないからだ。石による苦痛のために。

 スィグルから顔を背けて麻薬アスラの煙を吐くジェレフの物憂い横顔を、スィグルは見つめた。

 話しかけても良いのかどうか、少し迷い、それでも聞かざるをえない。

悪面レベトって、あれのこと……? 死刑執行人がかぶるお面だろ」

 部族では昔から、死者の断末魔の一睨ひとにらみには、呪いの力があると言われている。事実かは知るよしも無いが、ひどく不吉なものとして忌み嫌われている。

 だから死刑執行人は、その同族殺しの呪いから自らを守るために、悪面レベトと呼ばれる、一つ目の怪物の顔を描いた素焼きのめんをかぶり、仕事を終えた後にそれを地に叩きつけて割るのだ。呪いを我が身から引きがすために。

 ジェレフは煙管からもうひと息吸いながら、小さくうなずいていた。

「エル・イェズラムがギリスを重用するのは、あいつが悪面レベトだからだと言う者がいたんだ。デンにはギリスにしか命じられない用事があるのだと」

 それが何を意味するのか、ジェレフはそれ以上は説明しなかった。

「ギリスはちょっと……変わってるだろう。だから皆は、デンがそれを可愛がっている分かりやすい理由が欲しかっただけかもしれない。だけど殿下、気をつけてくれ。デン亡き後、ギリスが誰に仕えてるのか俺は知らない」

「あいつが僕を始末しに来たってこと?」

 スィグルがそう言うと、ジェレフはまた苦笑いしていた。正解ではないのかもしれないが、否定もしなかった。

「さあ。そうかもしれないな。でも、そうじゃないかもしれない。ギリスはエル・イェズラムに忠実だった。今もそうかもしれない。もしそうなら、殿下は、よく考えたほうがいい。あいつの手を取るかどうか……他に生き残る道はないのか、よく考えてみてくれ」

 ジェレフは話の核心を避けている。

 はっきりとは見えない、彼の言おうとしていることを、スィグルは顔をしかめて考えていた。

 だが、ジェレフは結局、教えてくれた。言わないでおくのもずるいと思ったのだろうか。

「スィグル、君は本来、優しい子だと思うよ。ギリスと手を組めば、今後は君には相応ふさわしくない道を行くことになるだろう」

 一体、何が自分に相応ふさわしい道だったとジェレフは思っていたのだろうか?

 スィグルはいつも優しかった英雄エルの目と見合って、それを考えていた。

 ジェレフだって、戦場では敵を殺しただろう。いつもいつも、治癒術で味方を救うばかりで、誰も傷つけたことはないのか。本当に?

 それにしたって、優しかったと言えるのか。ジェレフが助けなければ、僕はたぶんもう死んでて、ここでこうして考えていることもなかった。どうやって自分の兄弟たちを始末すればいいのかと。

「ジェレフは、何で皆が僕を人喰いレイラスって呼ぶか知らないのか?」

 答えながら、スィグルはジェレフを安心させたいのか、傷つけたいのか、自分でも分からなかった。

「僕は自分が生きるためなら何でもするような奴だよ。同族殺しを恥じて悪面レベトをかぶる奴の方が、僕よりずっとマシだと思う」

 礼拝堂で見た、あのエル・ギリスの冷たい目を思い出していた。

 ジェレフはいつも優しいけど、あいつなら、僕が何をやっても傷ついたりしないんだろう。

 そうだといいなとスィグルは思った。

「何がどうなっても、君のせいじゃないよ。今までも、これからも。俺はそう思ってる。幸運を祈るよ、殿下」

 困ったような笑みで、ジェレフはそうねぎらったが、スィグルはそれをに受けようとは思わなかった。

 これから何が起きても、全部が自分のせいだ。今までも、これからも。そうでないなら玉座は遠いだろう。

「ありがとう、ジェレフ」

 スィグルは感謝したが、ジェレフはそれを首を振って断った。甘い煙の匂いがした。

「次の星が誰であろうと、俺がそれを見ることはないと思う。でももし君なら、俺も見たかったな」

 ジェレフはそれが遠い先のことと思っているようだった。

 代替わりは族長の死を意味する。ジェレフはスィグルの父、族長リューズ・スィノニムの英雄で、いつも父に忠実だったのだ。

「できるだけ君の即位を遠くしよう。それが俺にできる一番の手助けだ」

 スィグルはうなずいた。

 ジェレフが僕に時間をくれる。

 その間に自分は、人喰いレイラスの異名にふさわしい者にならねばならない。

 派閥の部屋に、食膳しょくぜんを持った女官が現れ、スィグルに食事を与えた。

 ぜんはひとつだけで、ジェレフは食べず、魔法戦士は食事をする王子をただ見ていた。

 食事には何の味もなかった。いつからそうだったか記憶はない。ジェレフにヤンファールで助け出された時からずっと、何を食べても味がしない。

 そのことを侍医じいだったジェレフも知っているはずだったが、食膳には子供の頃のスィグルが好んだ料理が乗っていた。

 美味いかと、ジェレフはいた。助けた子供の傷がもう全て治ったのかを、ジェレフは知りたかったのか。

 それにスィグルは嘘をつき、振る舞われた食事を全て腹に収めた。

 宮廷のどんな美味も、まるで砂を噛むようだ。

 それは自分への呪いで、罰なのだと、スィグルは思っていた。

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