009 悪面《レベト》
エル・ジェレフはスィグルを
スィグルにその後の予定がなにもないのを知ると、ジェレフは魔法戦士たちの派閥の
魔法戦士の
しかし、全く足を踏み入れない場所でもなかった。
魔法戦士たちの派閥は、宮廷ではある種の勢力だ。
彼らは幾つかの派閥に分かれて王都での生活を過ごしている。それぞれの派閥は長い伝統のあるもので、各派閥が彼らの
派閥の勢力を
魔法戦士たちは、そこで寝起きするわけではなく、各自に別の居室が与えられているが、その個人房が彼らにとっての寝床だとしたら、派閥の
彼らはそこで
だが普段はただ、皆で寄り集まって
親兄弟がいない魔法戦士にとって、派閥は家族のようなものだ、とジェレフは言った。
彼らはそこで同じ派閥の者同士で協力し、支え合って生きている。
誰かが病みつけば看取り、死んだ際の葬儀も派閥が資金を出して取り仕切るものだ。
どの派閥にも属していない魔法戦士は存在しない。そこから切り離されては、宮廷では生きていけないからだ。
ジェレフが属する派閥は古い歴史のあるもので、つい先ごろまで、その
イェズラムは長老会の
そこは彼にとっては家族のようなものだった。彼にもっとも忠実な者がいた場所だ。
ジェレフは、自分もそうだったとは言わなかったが、スィグルを案内するとき、ここはエル・イェズラムの派閥だと教えた。ここではまだ、死者が生きている。その名を忘れない者たちの心の中では。
スィグルは小さめの客間に通され、ジェレフは
その誰かはジェレフに
見たところ、スィグルとそう年の変わらないような少年だったが、魔法戦士らしく、額には小さな石を生やしていた。
「あの子は晩餐には行かないのか」
出て行った伝令の魔法戦士が平服だったので、スィグルは不思議になってジェレフに聞いた。
「全ての魔法戦士が
「君たち王族はそうはいかないだろ。正装して何時間も、あそこに座ってないといけない。大変だ」
「王族には、あそこに座れないほうが大変なんだけどね」
「そのことだけど。殿下は
ジェレフの話を、スィグルは驚いて聞いた。
「そうだっけ? 僕は自分が皆の敵なのかと思っていたよ」
「悪名を
ジェレフは否定しなかった。苦い笑みでそう言うだけだった。
スィグルはそれに何と答えて良いかわからず、ただじっと座って黙り込んだ。
「君は争いには向かない。死にに行くようなものだよ、殿下」
「死を恐れない竜の涙がそんなことを言うなんてね」
ジェレフに何を止められているのか分からず、スィグルは内心動揺して言った。
「君は違うだろ。竜の涙じゃない。うまくやれば俺の何倍も生きられるはずだ。たとえ
ジェレフは暗い目でそう言った。
「なんとかして君を助けられないかな」
思案する目線を床に落とし、ジェレフは考え込んだようだったが、その話は居心地の悪いものだった。
ジェレフがしているのは、逃げる算段だ。逃がすよりほかに、スィグルには生きる道がないと考えている。
だが、スィグルも知らない訳ではなかった。継承権から逃亡した王族がどうなったか。
彼らは、運が良ければ何者かにいつの間にか殺されて終わるが、運が悪ければ一生、幽閉される。
王宮の地下にある、一条も陽のささない地底湖の上に
死よりも酷い待遇だ。
その
あれを見れば、自分にとっての道はひとつだけだと王子たちは理解する。
玉座に続くのが、生きることを許された唯一つの道だ。
だから自分も、疑う余地もなく、それを目指していたかもしれない。名君への道を。
「僕を助けたいなら、玉座に座らせるしかない」
スィグルが淡々と伝えると、ジェレフはまだ思案する顔のまま、小さく
「そうだね」
「さっきのあいつ」
「誰なの」
「ギリス?」
ジェレフはため息と共に確かめてきた。スィグルはそれに
「ギリスはエル・イェズラムの
「
「族長冠の継承にまつわる仕事をする竜の涙だ。誰がそうだというのは仲間内でも明らかにはされないけど、エル・イェズラムもそうだった。
「魔法戦士が即位を支援するっていうこと?」
「まあ、そうかな」
歯切れ悪く、ジェレフは肯定した。
「あいにく俺は詳しくないんだ、殿下。俺は派閥はここだけど、治癒者だから、
「どうして?」
彼らの社会の仕組みがわからず、スィグルは首を傾げた。
彼ら竜の涙は、常人以上に施療院とは切っても切れない間柄のはずだ。
ジェレフは困ったように笑っていた。
「君の父上が治癒者をお嫌いだからだよ」
「そんなことはないよ、父上はいつもジェレフのことは
スィグルが心外で、早口にそう言うと、ジェレフはさらに苦笑していた。
「そうだね。でも、
歴史の書物の中でだけ知っている、その話を、スィグルは黙って聞いた。
「その敗北が、治癒者だった
「信じられない」
その時代の空気がスィグルには想像できなかった。父の前の代の宮廷でのことだ。
「だろうね」
ジェレフは
「でも、そうだったんだ。その頃のことが元で、長老会は君の父上が即位してからずっと、施療院を排除してきた。施療院に属している者が
「ジェレフが僕の
スィグルは半ば冗談で、気安く言ったが、ジェレフはよほど
それは幾分、自嘲の笑みだった。
「治癒者じゃなくても、俺は
「そんなことないよ。それに……こんなの冗談だろ」
微笑むジェレフの目が暗かったので、スィグルは心配になった。
軽口を言うような話ではなかったのかもしれない。
「ギリスは
ジェレフはほとんど息だけの声で言った。
そして、帯に持っていた
そこには魔法戦士が鎮痛に使う薬効の葉が詰められており、見ればジェレフは額に軽く汗をかいていた。
「
派閥の卓上に置かれていた
吸ってよいかと聞かれなかった。だめだと言われても困るからだろう。
英雄たちには、どこでも喫煙する権利がある。そうしないと生きていられないからだ。石による苦痛のために。
スィグルから顔を背けて
話しかけても良いのかどうか、少し迷い、それでも聞かざるをえない。
「
部族では昔から、死者の断末魔の
だから死刑執行人は、その同族殺しの呪いから自らを守るために、
ジェレフは煙管からもうひと息吸いながら、小さく
「エル・イェズラムがギリスを重用するのは、あいつが
それが何を意味するのか、ジェレフはそれ以上は説明しなかった。
「ギリスはちょっと……変わってるだろう。だから皆は、
「あいつが僕を始末しに来たってこと?」
スィグルがそう言うと、ジェレフはまた苦笑いしていた。正解ではないのかもしれないが、否定もしなかった。
「さあ。そうかもしれないな。でも、そうじゃないかもしれない。ギリスはエル・イェズラムに忠実だった。今もそうかもしれない。もしそうなら、殿下は、よく考えたほうがいい。あいつの手を取るかどうか……他に生き残る道はないのか、よく考えてみてくれ」
ジェレフは話の核心を避けている。
はっきりとは見えない、彼の言おうとしていることを、スィグルは顔を
だが、ジェレフは結局、教えてくれた。言わないでおくのも
「スィグル、君は本来、優しい子だと思うよ。ギリスと手を組めば、今後は君には
一体、何が自分に
スィグルはいつも優しかった
ジェレフだって、戦場では敵を殺しただろう。いつもいつも、治癒術で味方を救うばかりで、誰も傷つけたことはないのか。本当に?
それにしたって、優しかったと言えるのか。ジェレフが助けなければ、僕はたぶんもう死んでて、ここでこうして考えていることもなかった。どうやって自分の兄弟たちを始末すればいいのかと。
「ジェレフは、何で皆が僕を人喰いレイラスって呼ぶか知らないのか?」
答えながら、スィグルはジェレフを安心させたいのか、傷つけたいのか、自分でも分からなかった。
「僕は自分が生きるためなら何でもするような奴だよ。同族殺しを恥じて
礼拝堂で見た、あのエル・ギリスの冷たい目を思い出していた。
ジェレフはいつも優しいけど、あいつなら、僕が何をやっても傷ついたりしないんだろう。
そうだといいなとスィグルは思った。
「何がどうなっても、君のせいじゃないよ。今までも、これからも。俺はそう思ってる。幸運を祈るよ、殿下」
困ったような笑みで、ジェレフはそう
これから何が起きても、全部が自分のせいだ。今までも、これからも。そうでないなら玉座は遠いだろう。
「ありがとう、ジェレフ」
スィグルは感謝したが、ジェレフはそれを首を振って断った。甘い煙の匂いがした。
「次の星が誰であろうと、俺がそれを見ることはないと思う。でももし君なら、俺も見たかったな」
ジェレフはそれが遠い先のことと思っているようだった。
代替わりは族長の死を意味する。ジェレフはスィグルの父、族長リューズ・スィノニムの英雄で、いつも父に忠実だったのだ。
「できるだけ君の即位を遠くしよう。それが俺にできる一番の手助けだ」
スィグルは
ジェレフが僕に時間をくれる。
その間に自分は、人喰いレイラスの異名にふさわしい者にならねばならない。
派閥の部屋に、
食事には何の味もなかった。いつからそうだったか記憶はない。ジェレフにヤンファールで助け出された時からずっと、何を食べても味がしない。
そのことを
美味いかと、ジェレフは
それにスィグルは嘘をつき、振る舞われた食事を全て腹に収めた。
宮廷のどんな美味も、まるで砂を噛むようだ。
それは自分への呪いで、罰なのだと、スィグルは思っていた。
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