008 射手《ディノトリス》

「晩餐に行けば会えるかと、玉座の間ダロワージに行ってみたけど、殿下はいなかった。探したぞ」

 エル・ギリスはまるで晩餐で会う約束でもしていたように、スィグルをとがめた。

 礼拝堂の入り口でジェレフに守られながら、スィグルはそれと対峙たいじしていた。

 相手は記憶にない顔だった。親しく会ったことがある相手を見忘れない自信がスィグルにはあったが、この顔は知らない。

 会っていれば忘れはしないだろうと思える相手だった。

 エル・ギリスはただならぬ様子だった。他の誰ともまとっている空気が違う。表情からも、何を考えているのか全く読めず、にこりともしないが敵意も見せない。

 心を隠しているというより、まるで心がないように見えた。

 さっき見た礼拝堂の天使像が生きて動き出したら、こんな感じだろうな。

 スィグルはそう思ってギリスを見た。

 エル・ギリスの容色は悪くなかった。まだスィグルより少し年上なだけに見えたが、成長すればいずれはエル・ジェレフのような美丈夫として詩人たちがたたえ、民に愛される英雄エルになるのだろう。

 もちろん、それにふさわしい魔法と、能力を持っていればだが。

「なぜ黙ってるんだ」

 ギリスが不思議そうに聞いてきた。

 答えるべきなのかスィグルには分からなかった。

叩頭こうとうしろ」

 呆れた調子でジェレフが答えた。

 知らぬ間柄ではないようだった。ジェレフの声には気安さがある。

叩頭こうとう? ここでか。廊下じゃないか」

「初対面なのにこんなところでお前が声をかけるからだ」

「初対面じゃないだろ、お前とは」

 分からないという表情を見せて、ギリスはジェレフを見上げている。

「俺じゃない、殿下だ! 王族に対する礼儀も知らんのか、お前は……!」

 声を荒げてから、ジェレフはすぐ困ったようだった。

 場所も礼拝堂の戸口であるし、スィグルにも礼儀を欠くと思ったのだろう。

 ジェレフは小さくため息をつき、小声でギリスに言った。

「殿下に会いたいなら時を改めろ。今は帰れ」

叩頭こうとうすればいいのか?」

 さとす口調のジェレフにしれっと答えて、ギリスは納得したようだった。

 彼が一歩引き下がったので、スィグルはほっとした。通してもらえるらしい。

 そう思った矢先、エル・ギリスはその場で王宮の通路に座った。

 叩頭礼こうとうれいだ。

 王宮では見慣れた作法だが、どこでもやって良いものではない。最下級の女官でさえ、通路では略式の立礼りつれいで済ます。

 よほど公式の何かが通路を行くときに叩頭礼で送ることもありうるかもしれないが、それは族長の出陣か、国葬に相当する葬列でも見送るような時に限られる。

 廊下で座る奴がいるか。

 とにかく呆気に取られる行為だったが、ギリスの叩頭礼はまるで作法の教師の行儀見本のように美しかった。

「初にお目にかかります、殿下。お話があります」

 叩頭はしたが、それでもギリスの話は単刀直入だった。

 スィグルもさすがに顔をしかめた。

 不快ではなかったが、不可解だったからだ。

「何の用だ」

 スィグルは思わず答えたが、振り向いたジェレフが首を振っていた。相手にするなという意味だろう。

 王族と竜の涙は、兄弟だ。宮廷ではそのように考えられている。

 対等に口を聞いてもいい。族長に対してすら、そうだ。

 しかし儀礼的に、それは王族のほうが近しい付き合いを認めた場合に限る。律礼にそう定められてはいないが、習慣だ。常識と言うのか。

 彼ら竜の涙は、軍団にいる時は一兵卒の友であり、玉座の間ダロワージにいる時は族長の友で兄弟だ。そう定められてはいるが、それはそれとして、日常の礼儀があるではないか。

 対等の鉄則を体現するような振る舞いのギリスに、スィグルは呆れたが、とがめることはできない。ギリスのほうが正しいせいだった。

「殿下の即位について相談を」

 ギリスの話に、すぐ側にあるジェレフの背が、電撃でも食らったようにびりっと緊張するのをスィグルは感じた。

 自分もそうだったかもしれない。空腹のはずの胃がずしりと重かった。

「帰れ、ギリス。殿下は帰郷間もなくお疲れだ。お前と話などなさらない」

 ジェレフは有無を言わせぬ重い声で伝えた。しかし相手は意に介さないようだった。

「戻ってひと月も経ってんだろ。何に疲れてんだよ」

 ギリスはジェレフにそう答えたが、スィグルの胃はさらに重くなった。石でも呑んだように。

 ジェレフはさらに言い返そうとしているようだった。

 スィグルは彼の正装の重たい袖を引いて、それを止めた。

 心配げに顔をしかめたジェレフが少しだけこちらを振り返って見た。

 ジェレフがこんな怖い顔をしている時もあるのだなと、スィグルはどこか心の片隅で驚いていた。

 ジェレフはいつも優しかったが、それがジェレフの全てではなかっただろう。皆、そういうふうに、自分には良いところだけを見せていたのかもしれない。王族への気遣いとして?

 だが、それが現実だっただろうか。

 ジェレフの優しさに頼るのは、自分にとっては、礼拝堂の天使像の足にすがるようなことだったかもしれない。

 甘えてもよかっただろうが、そうしているうちは、どこにも歩き出せない。

「疲れてない。もう。何の用だ、エル・ギリス」

 スィグルはもう一度、同じことを尋ねた。

 エル・ギリスは氷のような目で、こちらを見た。

 両目を通して頭の奥まで見通そうとするような、強い無表情な視線だった。

「エル・イェズラムが貴方を新星に選んだ。俺は貴方の射手です。即位させます、殿下」

「どうやって」

 こちらの表情まで凍り付かせるような、冷たい目だなとスィグルは思っていた。自分も彼と同じ、笑みも怒りもない顔で答えていた気がする。

 ギリスは少し首を傾げたようだった。考えているというより、不思議そうに彼は見えた。

 少しの思案の後、ギリスは迷いのない声で答えた。

「どんな手を使ってでも」

 ギリスの答えは端的だった。

 ジェレフは物言いたげに息を呑んでいたが、何も言わなかった。

 スィグルも沈黙した。簡単な答えを返すには、奇妙で難しい話だった。

 よろしく頼むと答えるのは、狂人のすることだろう。

 そもそもこの少年は誰なのだ。そんなことを自分に提案してくるどんな義理がある。頭がおかしいとしか思えない。

「へえ。そりゃいいね。やってみせてくれ」

 そう自分が答えたので、スィグルは自分が狂ったのだと思った。まともな神経なら、そんなこと言いはしないだろう。

 だが、狂ってもいいような経験はしてきたはずだ。僕には発狂する権利がある。

 母も弟も、遠の昔に正気を手放している。次が僕の番でも、誰も不思議とは思うまい。

「わかった。お前は俺の新星だ。明日の晩餐の前に行く。着替えて待ってろ」

 ギリスはそう言うと、くるりときびすを返して、去っていった。

 辞去じきょの礼はなかった。

 呆れと驚きで、スィグルもジェレフもそれを無言で見送るしかなかった。

 あいつがどこで聞きつけて、礼拝堂に会いに来たのかもわからぬ。

 今さら何もかも不可解で、スィグルは呆然と立っていた。

「申し訳ない、殿下。あいつは……派閥の弟分ジョットで、少し、その……変わってる」

 これ以上は和らげようのない説明をジェレフがした。

 そうだろうなとスィグルは思った。

 ギリスは晩餐の刻限というのに、玉座の間ダロワージの儀礼にふさわしい正装をまとっていなかった。

 あいつも広間ダロワージから締め出され、食いっぱぐれているということだろう。

 つまりは、病人でないのなら、狂人だということだ。

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