007 英雄《エル》
「久しぶり。元気そうで良かった」
ジェレフはそう言った。ほんのしばらく会っていないだけの友人のようだった。
まさに
どんな傷でも治癒術によって立ち所に治してしまう。
その奇跡の力で、スィグルも癒されたことがあった。ヤンファールの東で救い出された後、スィグルと弟の治療にあたったのはジェレフだ。
その頃と変わらない優しい笑みで自分を見ている
「なんで晩餐にいないんだ。探したよ」
困ったようにジェレフが聞いてきた。
「席がないからだよ」
「そんなの用意させればいい」
ジェレフは至極当たり前のように言った。いとも簡単なことのように。
そうなのかもな。スィグルはそう考えてみたが、それでも一向に、そうだという気はしなかった。
「いなかっただろ……ジェレフは、このひと月ほど。ちっとも見かけなかった」
スィグルは
近づいてこないジェレフが数歩先から自分を見ているのに、嫌な記憶を呼び覚まされていた。
かつて、墓所に現れた時も、ジェレフはこんなふうに少し離れたところから、自分たち兄弟に話しかけてきた。
お父上の命により、救出に参りました。と、ジェレフは言ったが、スィグルは初めそれが幻覚だと思った。助かりたい一心で自分は狂ったのだと恐れ、ジェレフが怖かった。
怯えて逃げようとするスフィルと自分を、ジェレフは抱え上げて墓所から連れ出したが、その時にジェレフは傷を負ったはずだ。自分たちが抵抗したので。
助けられているのだと分かっていたはずだが、なぜ
それでもジェレフが大丈夫だよと微笑んで救い出してくれたから、今も自分と弟は生きているのではなかったか。
エル・ジェレフは終始、優しかった。今もそうかもしれない。今もこの宮廷で、自分の力になってくれるかも。
そう思うのが、なぜか今も恐ろしかった。
ジェレフがまだ自分たちの味方なのか、自信がなかった。そうじゃないなら、彼を信じて、傷つきたくない。
「俺は王都にいなかった。族長の命で
ジェレフは本当に済まなそうに言って、また一歩二歩、ゆっくりとスィグルに近づいてきた。
「大丈夫か」
心配げに聞かれ、スィグルは言葉に詰まった。
自分が大丈夫なのかどうか、こっちが聞きたいぐらいだよ。
そう言いたいのを呑み込んで、スィグルは
どちらが正しいかも分からないせいで、できなかったのだ。
「殿下。まずは休むことだ。今は急な動きをするべきじゃない。部族領は新しい態勢に動揺している。族長はこれから軍を解体しなくてはならない。竜の涙たちも、今は行き場を失っている」
「それが僕のせいだって言うのか!」
慎重なジェレフの説明にも、思わずカッとして、スィグルはすぐ反省したが、また何も言えなかった。何も言えない。
「殿下のせいじゃない。でも注意したほうがいい。一人歩きはしないほうが。
危険だから。ジェレフはそうは言わなかったが、そういう意味だろう。
ここには出入り口が一つしかない。逃げ場がないだろうとジェレフは言いたいのだろう。
「一人じゃなきゃ誰と来るのさ。女官について来てもらうのか? 僕にどうしろって言うんだ」
気づくとジェレフから
これが助けてくれるはずはないと良く知っているはずなのに、まだ天使の足に
「ごめんよ……急に言いすぎた。あまり時間がなくて。俺はずっと王都に居られるわけじゃないんだ」
「どうして?」
スィグルは驚いて聞いた。もう戦も無いのに、なぜジェレフは王都を出撃するのか。
「巡察だよ、殿下。族長は魔法戦士を民に与えることにしたんだ。まずは治癒者から」
微笑んで言うジェレフに、スィグルは
「どういう意味。ジェレフが……何をするんだ、
「戦がなくても民は怪我をするし、病気にもかかる。治癒者には仕事があるさ。他の連中と違って……」
「何でもない奴らをジェレフが治療するのか? 魔法で?」
魔法を使えばジェレフの命は削られていくのに、なぜそんな事を。
部族の命運をかけた戦場でこそ振るうべき
「何でもない奴らなんて居ないよ、殿下。皆、生きてる。君もそうだろ」
そう言われて、スィグルはよろめくような衝撃を感じた。
自分もジェレフの命を浪費して、彼の石を
そう思うとジェレフに済まない気がした。
しかも自分は彼から戦場を奪った。
戦って死にたい奴などいないだろう。
だが、魔法戦士たちには、戦って華々しく散る他に、
彼らには戦場こそが生きるための場所だったのではないのか。
たとえ戦場で死と隣り合わせでも、彼らの一生はどうせ、どこに居ようがずっと死と隣り合わせだ。
それならせめて
自分もそれを、本当は知っていたはずだ。
「王都に居てよ、ジェレフ」
「俺もそうしたいよ、殿下」
ジェレフは
ジェレフも本当は、王都にいるのが辛いのではないか。
そんな居つかない気配がジェレフから感じられた。王都の住人ではなく、たまたま立ち寄った旅の途中の誰かのような。
「済まない」
ジェレフが何を
「まだ何日かは王都にいる。殿下の旅の話を聞かせてくれ。トルレッキオはどうだった」
ジェレフは努めて明るく言っているようだった。スィグルも苦笑した。それでも笑みには違いなく、ジェレフはほっとしたようだった。
「
スィグルは友たちのことを言うのは止した。ジェレフには理解されないかもしれない。
「景色か。どんなだろうな。そうだ殿下、絵に描いてみたら?」
ジェレフの提案に、スィグルはきょとんとした。そういえば自分は以前、絵を描くのが好きだった。子供時代の落書きだったが、それでも好きだった。
「描いたら見せてくれるかい」
ジェレフは励ます口調だった。それに素直に励まされている自分が、スィグルは恥ずかしかった。
自分はもっと罪を問われるべきなのかもしれない。ジェレフにも、他の大勢にも。
それが当然の報いだったか。
それなのに自分は何を嘆いていたのか。
「見てくれる?」
「もちろん。ぜひ……ここをもう出よう、殿下。部屋まで送るよ」
ジェレフはこちらの腕を取り、礼拝堂の入り口へと導いた。
礼拝堂に何が居るわけでもない。聖像の天使しかいないのに、ジェレフはまるで何かを恐れているみたいだった。何かの襲撃を。
ジェレフに連れられて、スィグルは足早に礼拝堂の扉まで歩いた。
ジェレフが扉に手を伸ばしかけた時、両開きの大扉が急に、こちらを叩く勢いで開かれ、目が
ジェレフが
平服の
晩餐のためにジェレフが身につけている華麗な宮廷衣装と比べ、影のように質素だ。
まだ
黒に近い濃紺の
魔法戦士だった。
氷の欠片のような石を額に生やし、冷たい両目の虹彩の色までが、凍ったような淡い灰色をしていた。その中に宿る
「何でお前がここにいるんだ、エル・ジェレフ」
出会い頭に、その少年は言った。
「いてはまずかったか?」
「晩餐の最中に礼拝か」
皮肉めかして答えたジェレフに、相手は無表情に質問を浴びせた。
「用があってね。お前こそ何してるんだ、ここで。祈りに来たのか、エル・ギリス」
ジェレフと話しながら、その少年はじっとこちらを見ていた。ジェレフの後ろに留め置かれているスィグルのほうを。
「そいつに会いに来た。人食いレイラス」
好ましからぬ
「不敬だぞ、殿下に」
驚いた声でジェレフが
「殿下。俺はエル・ギリス。貴方の
淡い色の目でじっと見て来て、氷の色をした魔法戦士はそう言った。
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