006 礼拝堂

 なぜこんな事になったのかと、スィグルは自分の一生をかえりみていた。

 幼い頃には神童しんどうほまれ高く、宮廷でも皆がスィグルをめそやした。

 玉座は近いと値踏みして、自分や母におもねってくる者も一人や二人でなくいたはずだ。

 その当時は母方の祖父である地方侯も客分として王宮にいて、スィグルは強く優しい祖父を頼りにしていた。

 しかし祖父は死に、そもそもその祖父も、宮廷でスィグルの後ろ盾となれるような身分ではなかったのだ。

 高貴な血筋は確かでも、すでに領地を敵の侵攻に呑まれており、領地なき地方侯だった。

 祖父は族長に嫁がせた娘が産んだ息子である、第十六王子スィグル・レイラスに期待していた。その双子の弟だったスフィルは母親に似て気が弱く、勝気で優秀だったスィグルに祖父が期待を寄せるのも無理はなかった。

 母は繊細で優しげな弟の方を内心可愛がっていたかもしれぬが、それでもスィグルが頼りだったはずだ。

 息子の栄達えいたつのほかに、母に頼れるものは無かった。

 族長とは政略結婚で、父は部族のおもだった高貴な血統の娘と全員同時に結婚し、今日に至るまで、特に誰を寵愛ちょうあいすることもなかった。

 父にとって結婚は玉座にまつわる義務でしかなく、妻たちを大切にはしたものの、愛しはしなかったのだ。

 しかし父は息子たちは愛した。族長リューズは子煩悩こぼんのうで有名だ。

 スィグルのことも、父はいとおしんでいるだろうが、それは十七人いる息子全員を等しく愛す父の、十七分の一の愛でしかない。

 父はスィグルだけを愛する訳にはいかないのだ。

 それで公平と言えるのかどうか。スィグルは不満だった。

 兄弟たちには後宮での政治にけ、出身領地の有力な後ろ盾や、軍や官僚に懇意こんいの派閥を持つ母親がいて、日々の政争を戦うための援護射撃を矢衾やぶすまのように放ち続けているというのに、スィグルには何もない。

 それを恨んでも仕方がないと思うが、恨まずにいられるだろうか。

 そもそも、自分の凋落ちょうらくは十二歳の折の、元服祝いの里帰りに起因している。

 帰る実家など敵地に呑まれて存在していなかった母は、どこへ向かっていたのか。

 形ばかりの行事として、王都近くのそれらしき縁者のいる都市に行き、すぐ戻るだけの真似事の旅だったはずが、親子ともども何者かに略取りゃくしゅされて敵地に投げ込まれていた。

 裏切り者というなら、それを画策かくさくした者がスィグルの敵であり、父リューズを窮地に陥れた元凶ではないか。

 今もって、それが誰か分からぬ。

 父は知っているだろうが、その女と今も平気で寝ているのだ。

 父はそうするしかあるまい。スィグルはもし自分が父の立場でも、そうするしかないと思った。

 族長冠を争う者にとって弱さは無能さだ。

 弱さゆえに敗北する者を救うことは、玉座に座す父でさえ不可能なのだ。

 それでも父リューズは、敵の虜囚となった自分たち母子を救い出しに来た。

 父の軍はそのために来たわけではないが、ヤンファールの東に侵攻した父の軍が勝った結果として、スィグルと弟は救い出された。母も。それは自分たちには過分の愛だったはずだ。

 父は失った息子と妻を、もう死んだものとして諦めることもできた。

 そのほうが良識的な判断だったと言える。

 当時、ヤンファールの東の失地回復戦に勝てると思っていた者は少なかったかもしれない。それでも戦上手の父には勝算があったのか。

 部族の子供とその母親を敵に捉えられ、ゆるゆる拷問されるという辱めは、父には好機だったのかもしれない。

 救出のため、あるいは復讐のために、部族には奮起して戦う理由があった。

 息子を救い出そうと必死で戦う族長には、誰の目にも単純な説得力があっただろう。

 妻子を殺され、やられっぱなしではないのだという父の気概は、謀った通りに民の胸を打ったか。

 部族の軍勢は脅威の奮闘をし、スィグルは救出された。ただそれが自分にとっては新たな転落の始まりだったというだけで。

 それでも自分は父に感謝すべきだろうか。助かって良かったと思うべきか。

 救い出された後も、母と弟は拷問の恐怖ゆえに正気を失ったままだ。スィグルは宮廷での地位を失い、挙句に神殿に命じられた同盟のための人質としてまた敵地にやられた。

 死んでいれば良かったと、父も本音ではそう思っていたのだろうか。皆と同じように。

 自分は何をしに故郷に戻ったのだろうか。

 いずれ起きる玉座の継承争いに敗れて、王族らしい刺繍入りの絹布で絞め殺されるためにか?

 それとも、そんなものは待たずに、誰とも知れない何者かに、さっさと始末されるのかもしれぬ。ありうる話だった。

 スィグルは歩き疲れて、気付くと礼拝堂にいた。

 部屋で女官たちの悲鳴を聞いて、急に恐ろしくなり、その足で居室を出てきてしまったのだ。

 本当に女の悲鳴というのは耐えがたい。拷問された時の母の悲鳴を思い出す。

 スィグルは王宮の廊下を歩き回り、自分が何から逃げているのか、それともどこかへ向かっているのか、分からなくなった。

 どこへ行けばいいのか。

 そう思うくせに、いつの間にか王宮の礼拝堂にいて、子供の頃によく見上げていた天使ブラン・アムリネスの白い彫像の足元にいた。

 大きな翼を広げて仰け反り、心臓を矢で射られた姿で天使の像は静止している。長い巻き毛を頬に乱れかからせた断末魔のような悲しみの表情で。

 ちっとも似ていない。トルレッキオでスィグルが見た本物の天使の姿とは。

 むしろ森エルフのシェル・マイオスと似通った面差しだ。

 それもスィグルには、学院で共に過ごした友人たちを思い出させた。

「現実は甘くないよな……」

 声に出して言うつもりはなかったが、スィグルは彫像の石の素足に触れて、誰かと話したい気持ちで言った。

 そう言うと、天使の像が答えるのではないかと思えた。

 甘えるなレイラス。そんなこと、初めから分かってただろう。

 答えたとしても、どうせそんなところだ。

 別に慰めを求めてるつもりはないが、何というか……。

 ここは、孤独すぎる。

 かつて、森の地下の穴蔵に閉じ込められた時でさえ、まだ弟のスフィルがいた。暗闇で抱き合って耐えた。

 でも今のあいつはもう、生きながら遠くに行ってしまった。

 自分と心の通じる相手など、ここにはもう誰もいない。僕は一人だ、猊下げいか

 それでどうやって戦うんだ、故郷ここで。

 そう思って、恨みがましく見上げた天使の像は、もちろん何も答えなかった。

 ただ、今にも死にそうな顔で静止しているだけだ。

「スィグル」

 しかし急に、そう呼ぶ声が聞こえて、礼拝堂に残響が響き、スィグルはぞっとした。

 天使像の声が聞こえたのかと思ったのだ。

 だが、そんなはずはなかった。

 慌てて振り向き、スィグルは暗い礼拝堂の入り口の明かりの中に、すらりと背の高い誰かの輪郭を見つけた。

 その人影は部族の習わしに従い、華麗な宮廷服を身につけていた。

 礼拝堂の闇に慣れていたスィグルの目には、地下に棲む部族の者が持つ暗視の視界に切り替わっていたせいで、王宮の通路の灯りさえひどく眩しく見えた。

「スィグル……」

 確かめるように、その人物は呼びかけながら礼拝堂に入ってきた。

 ちょうどその姿が闇の領域に踏み込んで来た時、スィグルにはやっと相手の顔が見えた。

「エル・ジェレフ」

 記憶の中にあったのと同じ顔に、スィグルは呼びかけた。

 彼は、ヤンファールの東で囚われていたスィグルを、命懸けで助けに来た英雄エルだった。

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