005 帰郷

 スィグル・レイラスが王都に帰還してから、もういく日も過ぎていた。

 特に指折り数えたつもりはないが、ほぼひと月ほども過ぎた計算にはなる。

 計算するまでもない。

 自分がこの宮廷で放置されているのは明らかだ。

 スィグルは自室の文机に向かい、何をする訳でもなく、ただじっと座ってそう考えた。

 晩餐ばんさんへの呼び出しがかからないことでも、それは分かった。

 息子の帰還を、父である族長リューズ・スィノニムが喜んだことは間違いない。帰着してすぐに謁見えっけんを許され、玉座の間ダロワージで会った。

 その時の父の顔にあった喜びの色が嘘とは、スィグルには思えなかった。

 息子が戻って嬉しいと父の顔に書いてあった。しかし、こうも書いてあった。

 お前の扱いに苦慮くりょしている、と。

 一切の魔法らしい魔法を使えないはずの父が、まるで念話でも使えるように雄弁に、スィグルと同じ王家の黄金の目で伝えてきた。

 お前は歓迎されていない。しばし、自重じちょうせよと。

 スィグルはそれに平伏し、引き下がる他なかった。

 父を困らせるような息子になるつもりはなかったが、十二歳で元服して以降ずっと、自分は父の苦悩の種だっただろう。

 ふう、と深いため息をついて、スィグルは目を閉じていた。

 腹が減った気はしないが、かと言って食べない訳にもいくまい。

 飢え死にするまで自室にこもっていろと言われた訳ではない。

 王宮では、朝餉あさげ昼餉ひるげは部屋に運ばれてくる。皆で集って食べる習わしの晩餐ばんさんに食いっぱぐれているだけだ。

 普通ならしかるべき刻限になると、玉座の間ダロワージにお出ましくださいと侍従が呼びにやってくるが、それが来ない。

 しばらく留守の間に第十六王子スィグル・レイラスは故郷の宮廷で忘れ去られたのだろう。

 来るなということだった。皆の前に顔を出すなと。

 それももっともな事かもしれない。

 もともと不本意であった四部族フォルトフィア同盟を、皆いずれは反故ほごにするつもりだっただろうが、そのための捨て石として人質に差し出したはずのスィグルが、同盟の監視者として戻ってきてしまった。

 一度破られた同盟は、天使ブラン・アムリネスの名において再び締結ていけつされ、人質だった王子たちは故郷に帰された。もう人質が必要なくなったせいだ。

 もしも再び同盟を破る者があれば、四部族フォルト・フィアを皆殺しにする天の槍ディノス・アシュワスを発動するとブラン・アムリネスは宣言している。

 今や全土の一人一人の命がしちにとられており、皆、武器を置くしかなかった。

 戦いの時代は終わったのだ。天使にひざまずくしかない。

 とは言え、この大陸はもともと天使たちの支配地だったはずだ。改めて不戦が命じられたというだけで、この大陸にむ自分たち一人一人にとって、何が変わったわけでもない。

 もう戦わないというだけのことだ。少なくとも、天使の意にそむいた戦はできない。

 天使ブラン・アムリネスは四部族フォルト・フィアの和平を願っている。従うしかないだろう。

 それは天使の意向であって、スィグルのせいではない。天使の命令書を持ち帰ったというだけで、裏切り者呼ばわりされるのは心外だ。

 臆病者呼ばわりされていた頃のほうがましだった。それはまだしも真実だったからだ。

 和平など、戦いに比べたら難しいことではないと、スィグルは思っていた。戦いたい者などいないだろう。

 積年の恨みのある森の者どもと和解すれば良いだけだ。あのシェル・マイオスと兄弟の抱擁を交わし、僕たち友達ですよねと、恥じらいもなく友誼ゆうぎを交わせば、万事はそれで済む。

 あいつらは敵か? 信用できないか? あの森の白い豚どもと握手するぐらいなら、いっそ死んだ方がましなのか?

 そんなことがあるかと思うが、自分もそう思っていた。以前、この部屋を同盟の人質として出立する前は。

 自分は確かに、トルレッキオで別人に作り替えられて戻ってきたのだろう。

 故郷に厄災をもたらすために?

 スィグルには、そんなつもりはなかった。

「お食事をお持ちいたしましょうか」

 女の声に呼びかけられて、スィグルは座ったままびくりとした。

 振り返ると、気まずそうな顔をした宮廷服の女官が、部屋の戸口から心配げにこちらを見ていた。

 目が合うと、彼女は慌てて再び叩頭こうとうし、うつむいたまま言った。

「お部屋にお食事をお持ちいたしましょうか」

 どうも、何度か呼びかけられていたようだが、スィグルは気づかなかったのだろう。女官は、これで返事がなければもう引き下がろうという気配を見せていた。

 晩餐ばんさんにお呼びがかからない部屋の主人をあわれんだのだろうか。

 病人か、人前に出るのがはばかられる狂人でもなければ、晩餐ばんさん玉座の間ダロワージでとるのが王族の男子のしきたりだ。

 なぜならそこに参加していることが、王族の成年の証で、族長や臣下と食事を共にするのは王位継承権を持つ者の権利だからだ。

 そこに席がないとは、いかなることか。

 自分にも飯を食わせろと、こちらから父に直談判じかだんぱんしなくてはならないのか。

 故郷でそんな目にあうとは、スィグルは想像もしていなかった。

 言葉は出ず、スィグルは首を横に振って、女官に答えた。

 腹は減っているのかもしれないが、餌をもらって食う気はしない。

 いらないと答えたつもりだったが、女官はまだ心配げに去りがたくしていた。その目がいかにも不遇の王子を憐れむようだったので、スィグルは腹が立った。

「もう退がれ。グズグズしてるとお前を食うぞ」

 腹立ちに任せてスィグルが語気を荒げると、女官はこちらが思った以上にびくりとした。

 悪い冗談だっただろうが、どうも本気に取られたらしい。

 女官は薄紅の薄物をひらめかせて、逃げる獲物のように走り出ていった。

 しまったな、とは勿論もちろん思ったが、やってしまったものはもう手遅れだ。

 スィグルは深くため息をついた。

 女官に詫びるべきだろう。食いっぱぐれの王子を気遣ってくれたのに、脅しつけられて心外だっただろう。

 気は進まないまま、スィグル・レイラスは立ち上がり、女官が退がった方へ歩いた。

 王宮にある王族たちの居室は、生活用に使う幾部屋かの続き部屋と、そこで仕える女官や侍従が控えて待つための小部屋がそれぞれに付いている。

 女官が逃げ込んだのは、その小間こまのほうだ。

 スィグルが丈の低い扉を開くと、中には観賞魚の群れのような薄紅色の透ける袖をした女官たちが数人いた。

 皆、床に座り、車座に寄り集まっている。

 どれがさっきの女官だったかと、スィグルが顔を見ると、皆一様に青ざめており、震えさえしてこちらを見上げていた。

「怖がらなくていい。誰もお前たちを食ったりしないよ」

 スィグルは作り笑いで言ったつもりだったが、それもまずかったのか。

 女たちは青ざめて袖で口元を覆い、泣くような悲鳴を上げた。

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