004 長老会

 ギリスはゆるゆると王宮の長廊下を行った。

 地下に建造されたタンジール王宮には窓もなく、陽の光などもう何日も見てはいないが、それを懐かしいとも思えないほどの絢爛けんらんさがあった。

 特に玉座の間ダロワージ周辺の部屋部屋には、部族の代々の職工が技術のすいを尽くした装飾がらされ、自分がまるで一枚の絵に囚われたような気分になる。

 長老会の鈍色にびいろの部屋は、そこからやや離れた場所にあり、いつも薄暗くほの灯りが揺れていた。

 ギリスは子供の頃からこの部屋に出入りしてきた。長老会のデンだったイェズラムの伝令として、あるいは従者として付き従うのが慣わしだったし、弟分ジョット兄貴分デンに仕えるのは当然のことだった。

 竜の涙に家族はいない。赤子の時に親から引き離されて、王宮に囲われ、同じ境遇の仲間とともに生きるのだ。

 そこでは自分を後見してくれる兄貴分デンと、それに仕える弟分ジョットの繋がりだけがきずなと言えるものだ。

 部族のデンである族長への忠誠を別にしたら、それは至上のものだった。

 しかし養父デンうしなったギリスにとっては、もはや、長老会に出入りする理由がない。そこには自分を待っている者がもういないのだ。

 それでも、ギリスはあくまで当然という顔で、その組み木細工の装飾が施された重い扉を押し開いた。

 かれた香木こうぼくかおる暗い室内。

 見慣れた車座の円座が置かれた、長老会のデンたちが座る席には、もうイェズラムの姿はなく、いつも厳しく泰然たいぜんとして見えた養父デンのいた席には、長い髪を華麗に結い上げた女が座っていた。

 女英雄エルエレンディラだ。

 なぜかたまたま他の重鎮デンたちは居らず、エレンディラだけがそこにいた。

 ギリスは一瞬、それに面食らったが、突っ立っている訳にもいかぬ。戸を潜り、長老会の広間に踏み込んだ床に座して、エル・エレンディラに叩頭こうとうした。

 床に額をつけるほどの深い座礼だ。この宮廷では、目上の者に対する当然の礼儀だった。

「エル・ギリス」

 まだ若さの残る声で、大英雄エルエレンディラは言った。

 イェズラムと同世代の英雄で、彼女も竜の涙としては晩年と言える年頃のはずだった。

 だが豊かなまつ毛に縁取られた大きな双眸そうぼうは美しく輝き、まだ死の影を寄せ付けぬ女だ。

デン

 複雑な思いで、ギリスはエレンディラにそう答えた。

 自分のデンではない。それでもどうやら、イェズラム亡き後、この女英雄が長老会の円座を巡る遊戯ゲームに勝ったようだ。

 信じがたいことだ。

 竜の涙に女はいないと言われている。女を蔑むこの部族では、女は英雄になれない。竜の涙として生まれた時、その娘は女であることをやめるのだ。

 エレンディラもしきたり通りに男装していた。しかしそれで彼女の美貌びぼうを隠せるものではない。

「何の用です。お前を呼んだ覚えはない」

施療院せりょういんに行って来ました」

 睥睨へいげいする目線のエレンディラに、ギリスはどう話したものか、探りながら話した。

 エレンディラの美しい顔面の額より上には、花冠のような赤い石がびっしりと埋まっていた。それが死をもたらすものでなければ、美しいと言えなくもない。

 実際、宮廷詩人たちはこの女英雄の活躍をで、雷撃のエレンディラの血の花冠を、彼女の英雄譚ダージの中で何度もたたえている。

 彼女も自分の脳を押しひしぐこの石を、誇りに思っているようだった。

「そなたは息災そくさいでしたか」

 くすりと笑う唇になって、エレンディラはギリスに尋ねてきた。

「ええまあ」

「それは良かったこと。イェズラムはそなたに目をかけていました。亡きデンに代わり、そなたが玉座に仕えるのです」

 諭す口調で言うエレンディラに、ギリスは淡い渋面じゅうめんになった。

「族長にはもう仕えています。元から」

「そうですね」

 何が面白かったのか、エレンディラはギリスの顔を見てくすくす笑った。よく笑う女だった。

「ところで、来たついでです。そなたの新星はどうなりましたか」

 微笑んでギリスを見下ろし、エレンディラはそう聞いた。まるで何かの謎かけのような口調だ。

「新星」

「そうです。イェズラムはそなたに何も言い残さなかったのですか?」

 ギリスは渋面のまま内心きょとんとして、養父デンが言ったかも知れぬ何事かを思い出そうとした。

 思い出の中に、養父デンから聞いた話は山ほど詰まっていたが、エレンディラが言っているのが何のことか分からぬ。

 ギリスは、エレンディラの下問かもんに黙っている訳にもいかず、何を言うかも決めぬまま唇を開いた。

「新星……を、次の世の新星を放てと。射手いてとして」

 ギリスが言葉に詰まりながら答えると、エレンディラは小さくうなずいて聞いていた。

「そう。それがわたくしたちの任務です。次代の星を選ぶこと」

 新星とは長老会が使う、次代の族長になる王族の隠語だった。

 タンジールでは、次の族長を選ぶのは族長の役目で、継承争いに名乗り出た王族の中から、指名によって継承者が決まる。

 だが族長リューズは次の王子を選んでいない。族長はまだ若く、王子たちは幼いため、そのような決断には早すぎるということだろう。

 だからといって争いが始まっていないと考えるのは甘すぎる。

 継承争いに名乗りを挙げて敗れた者は死をたまわるしきたりで、名乗り出なかった者も結局は政争の中でほうむられることが多かった。

 王族にとっては命懸けの争いだ。

 英雄エルたちは、その争いを勝ち抜いた新星に族長冠を与える。その戴冠をさせる役目の魔法戦士を、部族ではずっと射手ディノトリスと呼び習わしてきた。

 それがこの部族領の最初の族長の兄の名で、彼は竜の涙だったのだ。

 エル・ディノトリスになり代わり、新星に戴冠させろと、養父デンはギリスに命じていた。

 その新星とは。

「スィグル・レイラス殿下はとっくにお戻りです。会いましたか」

 会っただろうなという口調でエレンディラは言った。

「いいえ」

「なぜ」

 不思議そうに聞くエレンディラの美しい目と、ギリスは困って見つめ合った。

 なぜ?

 会ったこともない相手だ。

 どんな奴かは知っていた。

 族長リューズの十六番目の息子で、人食いレイラスだ。そういう悪名が陰で囁かれている、傷物の王子だ。

 かつて敵の虜囚となり、死んだと思われていたが、敵地から救い出された。

 その時、敵であった森の者たちは、スィグル・レイラスとその双子の弟を、飢え死にさせるつもりで奴らの墓所に閉じ込めていたのだ。

 それは墓だったのか。誰の墓なのかもわからぬ。とにかく地下の穴蔵で、そこにいたのは二人の幼い王子だけではなかった。

 食料は与えられなかったが、飢えて死ぬはずだったスィグル・レイラスは生きていた。

 何が起きたかして知るべしだ。

 部族では、同族殺しは重罪とされている。

 それにそもそも、高潔なる王族たるもの、敵の手に落ちるよりは死を選ぶべきだった。

 族長リューズは息子を人質に取られ、森の者たちから脅迫とはずかしめを受けた。それは部族へのはずかしめでもあったのだ。

 スィグル・レイラスは死ぬべきだったと考える者もいる。

 だが、その時、族長の二人の息子は十二歳になったばかりだった。

 やむを得まい。養父デンはそう考えたようだった。

 ギリスもそう思った。

 王宮育ちの甘っちょろい王族の餓鬼が、自ら命を絶てるわけがない。

 そのように見えた。

 玉座の間の晩餐ばんさんに集まる、母親に連れられた綺麗なお人形のように着飾った王子たちが、そんな気骨を持っているようにはギリスには見えない。

 その中から新星を選ぶのは難しい。それは確かだ。そこに部族の命運を預けるとなれば尚更なおさらだ。

 族長リューズは、その優しげな美貌に似合わず、戦略に優れ残酷な男だった。異民族には砂漠の黒い悪魔と呼ばれ、恐れられている。

 その性質を受け継いだ王子が一人でもいれば御の字だ。

 それについてはイェズラムはこう言っていた。リューズのような者は、あと千年待っても、もう現れぬと。

「そなたの新星に目通りしなさい、エル・ギリス。これは命令ではありませんけど、イェズラムの命令ではあるのでしょう?」

「イェズがそんなこと言ってただろうか」

 動揺して、ギリスは思わず独り言を言ったが、エレンディラはふふふと鷹揚おうように笑っていた。

「あら。忘れたの? 馬鹿な子ね」

 優しげな声で言うエレンディラの言葉はきつかったが、敵意が感じられなかった。

「考えてもごらん。イェズラムがなぜ死んだか。誰のためにあの人はったのですか?」

 また謎かけのようにエレンディラは問うてきたが、考えるまでもないことだった。

 イェズラムは、再び敵地に人質として送り出された王子、スィグル・レイラスを救出するために死んだのだ。

 二度までも死にぞこなった王族の餓鬼を、イェズはなぜ助けに行ったのか。

 新星だからか?

 そんなこと、なぜ分かるんだ。

 たとえ何かの魔法でそれが分かったとしても、ギリスにとっては養父デンが生きているほうがよかった。

 王族の子はまだ他に何人でもいるが、イェズラムはこの世に一人しかいなかった。

 何者にも代え難い大英雄だったのに。

「何でそうなる。俺がそいつに何の義理があるんだ。その王族の死にぞこないを戴冠させろって、イェズラムがそう言ったのか」

「いいえ。わたくしは聞いていません。でも、もしもあれが新星であるならば、イェズラムはそのために死にました。それがもし次の名君であったならば、あの人は後の世、何のために死んだと詩人たちにうたわれるのでしょうね?」

 エレンディラはもう笑っていない顔で、ギリスにまた謎かけをした。

 その言葉の意味は、ギリスには分からなかった。分かるのが嫌だっただけだ。

「ギリス。デンが何のために死んだか、そなたが決めなさい」

 命令ではないと言うくせに、エレンディラは命令口調だった。

 ギリスは叩頭こうとうする他なかった。人をぬかづかせる力を持った女だ。

 もしも死に損ないの王子が新しい星でなく、ただの臆病者のくずだったら、イェズラムは無駄死にだ。

 そんなものを救って戦ったところで、詩にんでくれる詩人なんていないだろう。

 大英雄の死が、そんなつまらない一幕だなんて、皆がっかりするだろうな。

 俺はずっとそれに、がっかりしてる。悔しくてたまらない。

 養父デンは無駄死にだと言う者がいて、悔しくてたまらないだけだ。

 王族の王子なら、皆が命懸けで助けてくれるのに、なぜイェズは、自分は、あの施療院で見た誰かも知らない餓鬼は、救い出されず殺されるのか。

 誰かが養父デンを助けて、王都で待つ皆のところに連れ帰ってくれたらよかった。

 ギリスは本当に心からそう祈っていた。今も祈っているのかもしれなかった。それを一体誰が聞いてくれるんだ。

 そう思うと惨めで、ギリスは拳を握って耐えた。

「さっき施療院で石が暴れた子供を見た。そいつも生きて英雄になりたかっただろう。誰がそいつを殺したか知ってるか?」

 ギリスは誰かにそれを言ってやりたくて、エレンディラに尋ねた。

 女英雄はうなずいて、真正面からギリスを見た。

「わたくしです。助からないなら眠らせるよう命令書に署名しました」

「それが俺でも、あんたの命令は同じだったんだよな」

「そうよ」

 あっさりと響くエレンディラの声に、ギリスはどう思っていいか分からず、目をまたたいた。

「ギリス。それがわたくし自身でも、わたくしは署名しました。英雄の一生は短いの。迷っているひまはないわ」

 それがどのくらい差し迫った話か、ギリスは分からず、エレンディラのきらめく目と見つめ合った。

 女英雄は赤い血の冠をかぶって、じっとギリスを見た。

 答えは分からなかったが、ギリスはもう一度深く叩頭こうとうし、長老会の部屋を辞去じきょした。

 時間がない。

 急にそんな気分に襲われ、王宮の中のどこへ行けばいいのか、ギリスは道に迷った。

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