004 長老会
ギリスはゆるゆると王宮の長廊下を行った。
地下に建造されたタンジール王宮には窓もなく、陽の光などもう何日も見てはいないが、それを懐かしいとも思えないほどの
特に
長老会の
ギリスは子供の頃からこの部屋に出入りしてきた。長老会の
竜の涙に家族はいない。赤子の時に親から引き離されて、王宮に囲われ、同じ境遇の仲間とともに生きるのだ。
そこでは自分を後見してくれる
部族の
しかし
それでも、ギリスはあくまで当然という顔で、その組み木細工の装飾が施された重い扉を押し開いた。
見慣れた車座の円座が置かれた、長老会の
なぜかたまたま他の
ギリスは一瞬、それに面食らったが、突っ立っている訳にもいかぬ。戸を潜り、長老会の広間に踏み込んだ床に座して、エル・エレンディラに
床に額をつけるほどの深い座礼だ。この宮廷では、目上の者に対する当然の礼儀だった。
「エル・ギリス」
まだ若さの残る声で、
イェズラムと同世代の英雄で、彼女も竜の涙としては晩年と言える年頃のはずだった。
だが豊かなまつ毛に縁取られた大きな
「
複雑な思いで、ギリスはエレンディラにそう答えた。
自分の
信じ
竜の涙に女はいないと言われている。女を蔑むこの部族では、女は英雄になれない。竜の涙として生まれた時、その娘は女であることをやめるのだ。
エレンディラもしきたり通りに男装していた。しかしそれで彼女の
「何の用です。お前を呼んだ覚えはない」
「
エレンディラの美しい顔面の額より上には、花冠のような赤い石がびっしりと埋まっていた。それが死をもたらすものでなければ、美しいと言えなくもない。
実際、宮廷詩人たちはこの女英雄の活躍を
彼女も自分の脳を押し
「そなたは
くすりと笑う唇になって、エレンディラはギリスに尋ねてきた。
「ええまあ」
「それは良かったこと。イェズラムはそなたに目をかけていました。亡き
諭す口調で言うエレンディラに、ギリスは淡い
「族長にはもう仕えています。元から」
「そうですね」
何が面白かったのか、エレンディラはギリスの顔を見てくすくす笑った。よく笑う女だった。
「ところで、来たついでです。そなたの新星はどうなりましたか」
微笑んでギリスを見下ろし、エレンディラはそう聞いた。まるで何かの謎かけのような口調だ。
「新星」
「そうです。イェズラムはそなたに何も言い残さなかったのですか?」
ギリスは渋面のまま内心きょとんとして、
思い出の中に、
ギリスは、エレンディラの
「新星……を、次の世の新星を放てと。
ギリスが言葉に詰まりながら答えると、エレンディラは小さく
「そう。それがわたくしたちの任務です。次代の星を選ぶこと」
新星とは長老会が使う、次代の族長になる王族の隠語だった。
タンジールでは、次の族長を選ぶのは族長の役目で、継承争いに名乗り出た王族の中から、指名によって継承者が決まる。
だが族長リューズは次の王子を選んでいない。族長はまだ若く、王子たちは幼いため、そのような決断には早すぎるということだろう。
だからといって争いが始まっていないと考えるのは甘すぎる。
継承争いに名乗りを挙げて敗れた者は死を
王族にとっては命懸けの争いだ。
それがこの部族領の最初の族長の兄の名で、彼は竜の涙だったのだ。
エル・ディノトリスになり代わり、新星に戴冠させろと、
その新星とは。
「スィグル・レイラス殿下はとっくにお戻りです。会いましたか」
会っただろうなという口調でエレンディラは言った。
「いいえ」
「なぜ」
不思議そうに聞くエレンディラの美しい目と、ギリスは困って見つめ合った。
なぜ?
会ったこともない相手だ。
どんな奴かは知っていた。
族長リューズの十六番目の息子で、人食いレイラスだ。そういう悪名が陰で囁かれている、傷物の王子だ。
かつて敵の虜囚となり、死んだと思われていたが、敵地から救い出された。
その時、敵であった森の者たちは、スィグル・レイラスとその双子の弟を、飢え死にさせるつもりで奴らの墓所に閉じ込めていたのだ。
それは墓だったのか。誰の墓なのかもわからぬ。とにかく地下の穴蔵で、そこにいたのは二人の幼い王子だけではなかった。
食料は与えられなかったが、飢えて死ぬはずだったスィグル・レイラスは生きていた。
何が起きたか
部族では、同族殺しは重罪とされている。
それにそもそも、高潔なる王族たるもの、敵の手に落ちるよりは死を選ぶべきだった。
族長リューズは息子を人質に取られ、森の者たちから脅迫と
スィグル・レイラスは死ぬべきだったと考える者もいる。
だが、その時、族長の二人の息子は十二歳になったばかりだった。
やむを得まい。
ギリスもそう思った。
王宮育ちの甘っちょろい王族の餓鬼が、自ら命を絶てるわけがない。
そのように見えた。
玉座の間の
その中から新星を選ぶのは難しい。それは確かだ。そこに部族の命運を預けるとなれば
族長リューズは、その優しげな美貌に似合わず、戦略に優れ残酷な男だった。異民族には砂漠の黒い悪魔と呼ばれ、恐れられている。
その性質を受け継いだ王子が一人でもいれば御の字だ。
それについてはイェズラムはこう言っていた。リューズのような者は、あと千年待っても、もう現れぬと。
「そなたの新星に目通りしなさい、エル・ギリス。これは命令ではありませんけど、イェズラムの命令ではあるのでしょう?」
「イェズがそんなこと言ってただろうか」
動揺して、ギリスは思わず独り言を言ったが、エレンディラはふふふと
「あら。忘れたの? 馬鹿な子ね」
優しげな声で言うエレンディラの言葉はきつかったが、敵意が感じられなかった。
「考えてもごらん。イェズラムがなぜ死んだか。誰のためにあの人は
また謎かけのようにエレンディラは問うてきたが、考えるまでもないことだった。
イェズラムは、再び敵地に人質として送り出された王子、スィグル・レイラスを救出するために死んだのだ。
二度までも死にぞこなった王族の餓鬼を、イェズはなぜ助けに行ったのか。
新星だからか?
そんなこと、なぜ分かるんだ。
たとえ何かの魔法でそれが分かったとしても、ギリスにとっては
王族の子はまだ他に何人でもいるが、イェズラムはこの世に一人しかいなかった。
何者にも代え難い大英雄だったのに。
「何でそうなる。俺がそいつに何の義理があるんだ。その王族の死にぞこないを戴冠させろって、イェズラムがそう言ったのか」
「いいえ。わたくしは聞いていません。でも、もしもあれが新星であるならば、イェズラムはそのために死にました。それがもし次の名君であったならば、あの人は後の世、何のために死んだと詩人たちに
エレンディラはもう笑っていない顔で、ギリスにまた謎かけをした。
その言葉の意味は、ギリスには分からなかった。分かるのが嫌だっただけだ。
「ギリス。
命令ではないと言うくせに、エレンディラは命令口調だった。
ギリスは
もしも死に損ないの王子が新しい星でなく、ただの臆病者の
そんなものを救って戦ったところで、詩に
大英雄の死が、そんなつまらない一幕だなんて、皆がっかりするだろうな。
俺はずっとそれに、がっかりしてる。悔しくてたまらない。
王族の王子なら、皆が命懸けで助けてくれるのに、なぜイェズは、自分は、あの施療院で見た誰かも知らない餓鬼は、救い出されず殺されるのか。
誰かが
ギリスは本当に心からそう祈っていた。今も祈っているのかもしれなかった。それを一体誰が聞いてくれるんだ。
そう思うと惨めで、ギリスは拳を握って耐えた。
「さっき施療院で石が暴れた子供を見た。そいつも生きて英雄になりたかっただろう。誰がそいつを殺したか知ってるか?」
ギリスは誰かにそれを言ってやりたくて、エレンディラに尋ねた。
女英雄は
「わたくしです。助からないなら眠らせるよう命令書に署名しました」
「それが俺でも、あんたの命令は同じだったんだよな」
「そうよ」
あっさりと響くエレンディラの声に、ギリスはどう思っていいか分からず、目を
「ギリス。それがわたくし自身でも、わたくしは署名しました。英雄の一生は短いの。迷っている
それがどのくらい差し迫った話か、ギリスは分からず、エレンディラの
女英雄は赤い血の冠をかぶって、じっとギリスを見た。
答えは分からなかったが、ギリスはもう一度深く
時間がない。
急にそんな気分に襲われ、王宮の中のどこへ行けばいいのか、ギリスは道に迷った。
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