012 証明

「何を言ってる、そんなもの分かるわけないだろう」

 話の筋道が見通せず、スィグルが驚いていると、エル・ギリスは客座で立ち上がった。

 そして自分の礼装の帯を解いている。

 あぜんとしてスィグルはそれを眺めた。

 ギリスは刺繍で埋まった帯の上に、薄絹の飾り布のようなものを巻いてきていた。

 妙な格好だなと思ったが、スィグルはここしばらく留守にしていた宮廷の流行など知らない。そんなのもあるのだろうと、思うともなく見ていたが、他でそんな格好をしている者を見た覚えもなかった。

 ギリスは解いた薄紫の薄布を両手で宙に広げ、スィグルに見せた。

 そこには銀糸の刺繍が一面に施されており、文字のようなものもあった。

 われが死をあたう。この者の血は高貴なればなり。

 そう書いてあった。華麗な刺繍の飾り文字で。

 スィグルには初めて見るものだった。

 それでも何かが分かり、身の奥深くが震えた。

「イェズラムが持ってたものだ。お前の親父の時に使ったんだ」

 ギリスはひどく無礼な口ぶりだったが、スィグルには咄嗟とっさにそれを咎める気が起きなかった。刺繍の文字に気を取られていたからだ。

「これが何か知ってるか?」

 もしかして知らないかもしれないという口調でギリスは聞いてきた。

 スィグルは頷いた。

「お前には誰か、これで首絞めてくれる奴が決まってるのか? ジェレフはそこまで長くは生きないぜ」

 ギリスの言葉に、スィグルは沈黙した。

 その長い布は、族長位継承のためのものだ。

 継承権を主張するべき時が来たら、王子たちはそれを首に巻く。

 継承争いに敗れた時に、その布で首を絞められる仕来しきたりだ。

 そんなことは恐れないという勇敢さを、継承者は玉座の間ダロワージで皆に示さねばならない。

 この世で最も高貴で華麗な死の形だ。

 スィグルはまだ自分用にあつらえさせてはいない。

「もう持ってた?」

 軽い口調でギリスが聞いてきた。

 スィグルは首を横に振った。

「お前が俺の新星なら、これをやってもいい。まだ未使用だし、縁起がいいだろ。お前の親父を玉座に押し上げた布っきれなんだから」

「なぜイェズラムが持っていたんだ」

 その布が用済みになった後にどうするのか知らなかった。首を絞められた王子は布と一緒に葬られるはずだ。継承者候補であったという名誉を首に巻いたまま。

 生き延びた者が布をどうするかは聞いたことがない。

「族長がイェズに持っておくよう頼んだんだ。名君じゃなかったらいつでも殺せって」

「そんな話、聞いたことがない」

 もし本当の話なら、詩人が飛び付いて部族の英雄譚ダージみそうな話だった。

「秘密なんだろ、二人の」

「そんなことが……」

 ある訳がないと言いかけて、スィグルはやめた。

 ギリスはイェズラムの側近くに仕えて知っている事も多いのかもしれないが、スィグルは父をよく知らなかった。そんな重たい話を、今まで父とした事がない。

「俺もそうしていいか。お前がもし名君の器じゃなかったら殺す」

 まだスィグルに布を見せたまま、ギリスはあっさりと言った。それが何でもないことのように。

 違うと言ってたくせに、ギリスはやっぱり悪面レベトじゃないか。

 スィグルはいいかげんな彼の嘘を不満に思った。

「そうしてくれって言いたいところだけど……怖いよ」

 答えに困って、スィグルは項垂うなだれて言った。この場限りの嘘でもいいのだろうが、では今すぐ殺すと言われそうで、迂闊うかつな返事はしたくなかった。

「怖いって何が?」

 ギリスはまた不思議そうに言った。

「死ぬのがだよ」

 スィグルが教えると、ギリスは色の薄い灰色の目をまたたかせていた。

「怖くないよ。俺に任せとけ。そんなもん一瞬だ。お前が自分が死んだ事も気づかないぐらい、綺麗きれいかせてやる」

 ギリスがそう言いながら急に近づいてきたので、スィグルは上座に座したままのけぞって彼を見上げた。

 背後は壁だ。それにしたって逃げるぐらいはできたのではと思う。

 でも全く緊迫感のない動きでギリスが背後に回り、ひょいと薄布をスィグルの首に掛けた。

 そしてめたのだ。

 本気じゃないだろうと、その瞬間にもまだ思っていた。

 でも息が詰まり、ギリスが薄灰色の正装の長衣ジュラバすそを乱して、後ろからスィグルの首筋を膝で軽く押した。触れた程度だったが、叩かれたような軽い衝撃があった。

「ほらな? もう死んでるよ。お前の死なんてこんなもんなんだよ」

 ギリスはしみじみと言って、布をゆるめた。

「息が詰まって死ぬ訳じゃない。安心しろ。首の骨折ってやるから、すぐだよ」

 布を手に巻き取りながら、ギリスは背後でそう言った。

 まだ息ができないような気がした。口の中に苦い味が広がって、何の味も感じなくなったはずなのになと、スィグルは思った。

 これが死の味か。

 ギリスが本気だったら、自分はたった今、本当に死んでいたのだろう。

 そう思うと同時に、急に耳が熱くなり、内耳に痛いほどの鼓動を感じた。

「何するんだよ……お前は……!」

 腹が立って、スィグルは立ち上がり、ギリスの胸ぐらをつかんだ。

 無意識だったが多少は持ち前の念動の魔力もぶつけたのかもしれなかった。

 スィグルより上背があり、体重もありそうなギリスの体が一瞬軽く宙に浮き、衝立ついたてに背をぶつけていた。

 そんな腕力が自分にあるはずはなかった。

「ふざけるな馬鹿! そんな簡単な事じゃないんだ、死ぬっていうのは!」

 思わず怒鳴る声で言ったが、ギリスは抵抗もせず、見下ろす目でじっと無表情にこちらを見ていた。

「僕に分かったような口を聞くな! お前みたいな奴に殺されてたまるか!」

 誰ならいいんだと自分でも不思議だったが、とにかく嫌だった。生き汚いと言われても、何が何でも嫌だった。

 死んでしまえば、あとは無だ。誰かを守ることも、愛することもできず、何かを成し遂げることもない。

 まだ何か、生きてやるべき事が自分にはある気がする。それが何かは分からなかった。

 ただただ生きたいだけで、その一生には何の意味もないかもしれないが、それの何が悪いのか。

 説明などできない。ただ生きていたいだけだ。

「何のために?」

 こちらの読心でもできるのか、無表情なままでギリスが聞いてきた。

「は? 何がだよ。そんなことお前に聞かれる筋合いじゃない。天使が僕を許したんだ。生きてていいって。お前に関係ない」

 噛み付くように言い返すと、ギリスはやっと、顔をしかめた。不愉快そうに。

「天使が? お前は王族で、天使が生きていいって言ったから、生きていくのか。じゃあ俺は? ジェレフや……イェズラムは、どうなんだ。天使が死ねって決めたから、さっさと死ななきゃならないのか」

 ギリスが傷ついたのかと思って、スィグルはあわてた。

 そんなつもりで言ったんじゃなかったが、相手は竜の涙だ。なぜかも分からない短命の呪いを受けて生まれてきている。

 望もうが、長くは生きようのない一生だ。死など大したことじゃないと、彼らは思いたいだろう。今日や明日を正気で生きるために。

「違う……そうじゃないよ。お前だって同じだ。誰だって同じだ。生きてていいんだ。天使もきっとそう言う」

「どうかな。俺は今日死んでも、百年生きても、きっと似たようなもんだと思う」

 ギリスは本気でそう思っているようだった。

「そんなことないよ」

 なぜそう思うのか推し量りかねて、スィグルのほうが息ができない心地だった。

「本当に何で生まれてきたのかわからない。英雄譚ダージのためだって皆は言うけど、俺には分からない。全然、嬉しくなかった。歌に詠まれても」

 そんな事を言う竜の涙がいるとは予想外で、スィグルは困った。聞いてはいけない話のようで。

「俺にはもうダージを聴いて喜ぶ者もいない」

「民が喜ぶだろう」

「そんなのどうでもいい」

 ギリスの目が、静かに絶望している気がして、スィグルはどう答えていいか分からなかった。

「そうだね……」

 うなずいて、スィグルは同意した。

 知りもしない相手のために、命など賭けられない。

「イェズラムがお前を新星に選んだ。お前を即位させろって。デンの望みだ。お前がなりたいなら手伝ってもいい。新しい星になりたいか?」

「なりたくない。正直に言うと。でも、そうするより他に生きる道が僕にはないんだ」

 スィグルが言うと、ギリスはまだ胸ぐらを掴ませたまま、こちらを見て小さく頷いていた。

「死にたくないんだ。生かしてもらえるなら、僕は名君になれるよう努力する」

「お前は星じゃない。民に生かされてる、王宮のくずだ。それでも努力すれば、英雄になれる。俺やジェレフみたいに」

 ギリスがそう言うと、そうだという気がした。スィグルも小さく頷いて聞いた。

「僕もそうだといいな」

 できるのかと自問する気持ちで、スィグルは呟いていた。

「素直だな、お前。スィグル・レイラス」

 めるように言って、ギリスは笑い、髪を結われたスィグルの頭を控えめに撫でた。なぜ撫でられるのか分からなかった。

玉座の間ダロワージに行くか。腹減っただろ」

 ちょっと食堂にでも行くように、ギリスは軽快に言った。

 そして何とも返事をしなかったスィグルの手首を掴み、ぐいっと引き立てた。

 足が蹌踉よろけるほどの、ついて行くしかない力だった。氷結術の魔法戦士だというのに、腕を掴むギリスの手はやけに熱い。

「呼び出しが来てないぞ。行って席はあるのか」

 引っ立てて行かれながら、スィグルは一応尋ねた。

「そんなの心配してんのか? お前は王族なんだろ。あそこで飯を食うのがお前の仕事だ。お前の言う、その努力ってやつを今からやれよ」

 スィグルの部屋から玉座の間ダロワージは遠い。それでも魔法戦士は飛ぶような早足で王宮の廊下を歩き、スィグルを子供時代の居室から連れ去った。

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