002 浴室

 寝床から這い上がり、出かけようと鏡を見たら、ひどい有様だったのでギリスは風呂に入った。

 元結の緩んだ長い黒髪は乱れて絡まっていたし、青ざめた顔の頬には、何があったか記憶のない女の紅がべったりと付いていた。

 しかも反吐へどまで吐いたのだから、そのままの姿で王宮を歩き回るのは不敬ふけいだろう。この王宮は常にきらびやかなところだった。

 幸い、自室には小さな浴室がついている。

 広い王宮とは言え、自室に風呂がついているのは、準王族としてぐうされる竜の涙ならではの特権だ。

 あいにく、この部屋は少々、手狭てぜまだが。

 自分の浸かる、馬の水飲み場かと思うような質素な浴槽を見て、ギリスはそう考えたが、それは前にいた部屋と比べて、ここが見劣りするせいだ。

 ギリスは最近になって、この部屋に移された。竜の涙を統率している長老会の命令によって。

 それ以前にいた部屋は、長老会のデンであったエル・イェズラムの住まいの隣にあったのだ。

 イェズラムはギリスの後見人で、子供の頃からの養父デンだった。

 イェズは権力に見合わず質素な住まいを好み、青年時代から寝起きしていた小さな房から終生引っ越さなかった。

 養父デンはただのものぐさで、引越しが面倒だっただけだろうが、それは族長と乳兄弟の間柄だったイェズラムが、その権威を借りて私服をやしていると見られるのを嫌ったせいだと考えている者もいる。

 デンは高潔だったのだと思いたい者たちが、今もイェズラムを崇拝しているのだ。

 そのデンが寝起きした聖地の隣を、ギリスがいつまでもせしめているのは納得がいかないという者もいる。そういうことだろう。

 死者は何者をも後見こうけんすることはできない。

 イェズラムは死んだ。まだうまく飲み込めないそれを、ギリスは反芻はんすうした。

 長老会からは、身の丈にあった場所に引っ越せという指示だった。

 なんという無駄な指令かとギリスはあきれたが、選択肢はなかった。逆らえば叛逆はんぎゃくということになる。

 そんなことで血を見るのは御免ごめんだ。

 馬鹿馬鹿しい。そう思うと、ギリスはひどく疲れた。

 青く彩色された陶板タイルで装飾された狭い浴室には、湯気とともに養父デンの不在が立ちこめており、ギリスはそれを噛み締めながら、濡れた顔を拭った。

 イェズラムは死せる英雄になった。

 それは、死して部族の伝説となるべく戦う竜の涙たちにとっては、祝い事であるはずだった。

 養父デンはとうとう本懐ほんかいげたのだ。

 それを喜べない自分のやり場がなく、ギリスはただ不満だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る