第9話
食卓には、ホッケの開きと味噌汁、白いご飯が一組、並んだ。
「ただいまぁー」
見計らったように帰宅した娘の、疲れはてたような声に、蓮江はくすりと微笑んだ。
「おかえりー」
微笑みを称えたままの蓮江の声に、娘は応えることはなく、疲れた疲れたと言いながら、鞄を引きずりつつ二階へと上がり、
「お腹空いたぁー」
ドスドス足音を響かせて階段を駆け下りてきた。その勢いのままダイニングの机につくと、
「いっただっきまーす!」
真っ赤な箸を片手に味噌汁に手を伸ばした。
蓮江は娘の前に座って、娘がご飯を食べるのを何とはなしに見つめていた。
しかし娘は蓮江を見ることもなく、側に置いたスマホ画面をじっと見入っている。
「ごちそうさまー」
やがて娘はそのままご飯を食べ終えると、正面に座っていた蓮江の横を通り抜けてキッチンのシンクに食器を置いた。その勢いのまま再び二階の自室へと戻っていく。
蓮江は、自分の座っている場所からは見えない階段をしばらく眺めていた。
ほどなく徐に立ち上がり、キッチンへと向かう。
そしてゆっくりと水道の蛇口を捻った。
「………」
食器の上を流れる水で汚れを落としながら、そっとポケットのスマホに手を伸ばす。
それを出しかけて、しかし刹那、玄関辺りで微かに物音がしたことに気がついた。
「ただいま」
バタンと玄関扉の閉まる音が轟く。
蓮江の身体はびくんと震えた。
(………!)
震えたことに、蓮江は内心驚いた。
慌ててポケットから手を引っこ抜く。
(…ビックリした、)
蓮江は、年々低く不機嫌な男性の声が聞き取りにくくなっていた。
玄関扉が閉まる音がしなければ、蓮江は旦那が帰ってきたことに気がつかなかったかもしれない。
だからこそ、あえて明るく声を張った。
心の曇りを誤魔化すために。
「おかえりなさい!」
しかし、キッチンを通り抜けてリビングをも通りすぎる旦那は、ちらりとも蓮江を見ることはなく、自室の扉に手を掛ける。
「ご、ごはんは?」
その背中に、作り笑いを浮かべたまま蓮江は尋ねた。だが旦那は「後で食べる」とだけ告げて、自室の扉を音もなく閉めた。
(…また後で、洗わないといけないのに。)
小さな息をそっと吐いて、のろのろと黄色いスポンジをつかむ。そのスポンジに洗剤を含ませようと洗剤を掴み上げた。
すると思いがけず多めの洗剤がスポンジの上に注がれて、消えない泡が手に溢れた。
* * *
「お母さん、」
旦那の食器を洗っていた蓮江の背中に、娘が声をかけてきた。その声は、少しトゲを孕んでいた。
「…なに?」
思春期の娘の機微に触れないように、蓮江は努めて穏やかに返事をする。
「お父さんは?」
「今、お風呂じゃない?」
「ねえ、…お父さん言った?」
「え?…何を?」
「だからっ、」
惚ける蓮江に、娘は言葉を言い淀みつつも、苛立ちを隠すことなく蓮江に突っかかる。
「だってお母さんは今日さっ、」
洗い物の手を止めて、蓮江は苦笑に近い笑みを称えたままようやく振り返った。
対峙した娘の瞳は、黒々と光っている。
剥き出しの怒りが目に眩しい。
蓮江はそっと俯いて、しかしすぐさま顔を上げると微笑んだ。
「何なの、どうしたのよ、」
「何って、お母さんっ、今日誕生日でしょ!?お父さん、おめでとうって言ったの!?」
「……ふふ、」
「何で笑うの!?」
「ごめんごめん、…そっか、」
蓮江はこの時、不思議と娘の成長に思いを馳せた。
ぶっきらぼうで気が利かない娘だと思っていたが、若さは、日々を着実に積み重ねて成長の糧としているのだろう。
だから、
「もちろん、言ってくれたわよ。」
蓮江は笑って嘘を吐いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます