第7話
夜勤明けの午前8時。
「……何なの。」
蓮江が重たい足を引きずるように家へとたどり着き、そのまま向かったキッチンでは、夕べの食器が乱雑にシンクに突っ込まれていた。
大きな茶碗と黒い箸。旦那のだ。
小さな茶碗と赤い箸。娘のだ。
そして平べったい二枚の皿には、夕べ蓮江が仕事前に作り置いていた回鍋肉のタレが、べっとりとこびりついたままだった。
「……。何なの、」
ぽちゃん、ぽちゃん、と、蛇口を閉めきれていない水道の水が、銀色のノズルから雫となっていくつもいくつも垂れている。
雫は一定のリズムを刻みながら、汚れた皿の上を滑っては落ち、滑っては落ちを繰り返していた。
「………」
食事を終えて、シンクへと食器を運んだことを、褒めるべきなのだろうか。
そんなことを一瞬考えて、だが次の瞬間には蓮江の歪んだ唇からは苦笑が漏れた。
(…私は、可哀想じゃないわ。)
目頭がにわかに熱くなる。
押し寄せる熱い感情を黙殺するためだけに蓮江は奥歯を噛みしめて、そう、自分に何度も言い聞かせた。
「……何なのっ」
勢いよく蛇口をひねると、割れた風船ように冷たい水が銀色のノズルから放たれた。
すると、びしゃびしゃと、重ねられた食器に弾かれた水が小さく砕けて辺りに飛び散る。
そのいくつもの水の欠片が、蓮江の顔や服へと容赦なく当たった。
「…きたな、…」
汚れた食器に弾かれて、おそらく汚れているのであろう小さな飛沫たちは、やがて蓮江をしとどに濡らす。
蓮江はただその水の飛び散るのを死んだ魚のような目で眺めていた。
「………はぁ…」
それでも一つ、濁った息を吐き捨てて、のろのろと伸びたカサカサの手は、使い古された黄色いスポンジを掴んだ。
「………」
無心で食器を洗った。
そしてふと時計を見やり、帰宅から五分も経過してはいなかったことに気がついた。
(…私は、可哀想じゃない!)
思わず掴んでいたスポンジをシンクへと投げ捨てた。
「…何なのよっ」
鉛のような身体。
まるで重い荷物を背負っているようだ。
それでも、やっとの思いでキッチンを抜け出すと、蓮江は倒れこむようにリビングの隅にある灰色のソファーに腰かけた。
しかし、
「………あれ、」
やがて気がつけば蓮江は、座っていたはずのソファーでしっかりと横になっていた。
全く意図せず眠ってしまっていたリビングで、ぼんやりと目だけを開く。
「…あれ、」
すでに部屋の中は薄暗い。
寝起きで状況がわかりかね、それでもゆっくり半身を起こすと、その虚ろな眼差しは薄暗い部屋をキョロキョロと見渡した。
そのまま無意識に投げた視線の先には、斜陽のオレンジ色が差し込む出窓が見える。
「………」
窓の外では、下校中の小学生たちの元気な声が響いては遠退いくのが微かに聞こえた。
「………ん?」
状況がわかりかねる。
何の気なしに時計を見やった。
時計の針はすでに午後4時を回っていた。
「え!うそ!いけない!。夕飯の支度をしないとっ!」
弾けたように立ち上がった蓮江は、慌ててカバンを掴むと、仕事帰りの服のまま、家の外へと飛び出した。
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