第4話
山内典子は、戦争で両親を亡くした。
そんな典子が、代用教員として小学校に勤めて15年あまり過ぎた頃、元教え子の一人が、若くして病で亡くなった。
「………、え、」
「ですから、ほら、山内先生が赴任されて間もない頃に受け持たれていた、あの内田伸弥くんがですね、先日、…」
「……え、…あ、…は、はい、」
職員室で、翌日の授業の準備をしていた典子は、教頭からその報を受け、ぽかんと呆けた顔で、
「そ、そうですか、」
とだけ答えた。
それしか、術がなかった。
この頃の典子は、もうすでに何十人もの教え子を学舎から巣立たせている。
そして気がつけば今、典子は30歳を優に越えていた。
「そんなお年まで教え子との永劫の別れを経験されなかったのは、幸運でしたね。」
そう言いながら、悲壮感に眉間のシワを深める教頭の顔を見て、典子は曖昧に笑って目を伏せた。
その日の帰り道。
典子の足取りはとても重く、何度も立ち止まってはうつむき、溜め息をついた。
(…私、…なんて、…薄情なんだろう…)
典子は子供の頃に戦争を経験した。
そしてその戦争で両親を失った。
当然両親だけでなく、多くの死に直面した。
だからこそ戦後、典子はたった一人で生きるために、ただがむしゃらに仕事に邁進した。
(…そんなことは、…言い訳にならない。)
結果典子は、亡くなった教え子の顔をはっきりと思い出せなかったのだ。
「………っ」
その事実が、じわりじわりと典子の心を追い詰める。
残暑の、じめっと絡み付く生暖かい風に、典子の遅れ髪が揺れた。
「………」
ふと、
ぎい、ぎい、
と、木の軋む音が耳を掠めて、典子は思わず顔を上げた。
投げた視線の先で、いつもの帰路、見慣れたはずの空き地のブランコが揺れている。
それは木製の粗末な作りのブランコだった。
「………」
彩りを失った広いだけの空き地を、斜陽が、あちらこちらに長い影を落としている。
だがその全ては止まって見えた。
ただブランコの影だけが、朧気ながら前に後ろにと動いていた。
「………」
典子はキョロキョロと辺りを見渡した。
だが誰かが乗っていた様子もなかった。
「………」
典子は、何故かそのブランコに誘われるように空き地へと足を踏み入れて、
「…あ、」
だが目線は、何かに呼ばれたように意図せず空き地の右端へと流れていった。
刹那、
「……わあ、素敵…」
典子は思わず呟いていた。
空き地の片隅には、人の手が加えられたとても小さな花壇があった。
瓦礫のようなレンガをいくつも並べて、丸く囲われた花壇の中に咲く花が、ぬるい風にふわふわと赤く揺れている。
(…これ、)
この赤い花の名前は千日紅。
生物を得意とする典子はすぐにその花の名を脳に浮かべることができた。
(なんて、…可愛らしい…)
魅せられたようにふらふらと千日紅に近寄りかけて、
「ほう、なんと可愛らしい。これは、何と言う花なんだろう、」
しかし典子の足は不意に止まる。
突然、背後から何者かに声をかけられたのだ。
典子は心底驚き固まってしまった。
「これはこれは、驚かせてしまって、申し訳ない、」
動かなくなった典子へ、見知らぬ声が、慌てた様子で優しく詫びる。
その声は、とても穏やかで、とても耳障りが良かった。
典子はゆるゆると振り返っていた。
そして思わず、息を飲んだ。
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