第3話


 ある日。


 夜勤勤務の蓮江は、施設内の見回りのため、懐中電灯片手に、薄暗い廊下を歩いていた。


 視線を投げた窓の外は、深い闇が広がる。


 今日は満月だとカレンダーには記されていた。しかし、重たい雲は、月明かりをここまで届けてはくれない。


 静寂のみが辺りを包む。


 蓮江しか、この世に存在しないのではないかとさえ思う。


 その蓮江の足音が、2階、205号室近くで不意に止まった。


 暗いだけの廊下に、赤い何かが落ちている。


(…何かしら、)


 蓮江の懐中電灯がそれをとらえるが、判然としない。

 蓮江は歩みを進めて近寄り身を屈めた。


「…花?」


 それは小さな赤い花。


 しかし花というには大きな花弁はなく、ただころんと丸い。


 人差し指と親指で掴みあげると、それはとても軽く、儚かった。


「これは、…千日紅?」


 くすんだ赤い色が、蓮江の掌でコロコロ転がる。その姿が愛らしく、思わず笑みが漏れた。


 それをポケットにしまい、他の部屋同様、205号室の様子を伺うべくそっとドアを開けて、ぎょっとした。


「山内さん!」


 半身不随で動けないはずの典子が、ベッドからずり落ちそうになっていたのだ。


 蓮江は慌てて典子に駆け寄り、典子の身体をベッドへと戻す。


 典子の頭の下に枕を滑り込ませながら、蓮江は典子に気づかれないように何度も短く息を吐いては捨てて呼吸を整えた。


(どうして、)


 典子は、些細なことでも事ある毎にナースコールを押す。それは職員たちの間であまり芳しくなく幾度も話されていた。


(…なのに、)


 蓮江の目は、ナースコールのボタンを探した。しかしボタンはいつもの位置、典子の枕元に変わらず置いてある。押そうと思えば容易に押せたはずなのだ。


「…山内さん、どうされたんですか、どうして、」


「…花が、」


「え?」


「あの人からの花が、なくなって、」


「………ぇ、」


 そう告げた典子の、オレンジ色の小さな室内灯に照らされた顔は、80代の女性の顔というよりも、どこか少女のような恥じらいを含んで赤らんでいた。


 その花が、特別な花なのだろうということは蓮江にもわかる。しかし、


(…誰が、…山内さんに花を持ってきたの…?)


 山内典子には身内はない。

 まして、コロナ禍の今、見舞い客は職員によって厳重に管理されている。


「山内さん、…お花って、…どなたが持ってこられたんですか?」


「ほら、前にお話ししたでしょう?…あの方が、千日紅を私に、」


 そう言って恥じらいながらも嬉しそうに微笑む典子に、蓮江は二の句を継げることができなかった。


 ただ、千日紅の花には覚えがある。


 そっとポケットに手を入れた。


 蓮江の指先に、カサカサと乾いた感触が触れる。


 千日紅のドライフラワー。


(一体、誰が、)


 蓮江の眉間には深いシワが寄った。


 それでも、蓮江はポケットの中から千日紅のドライフラワーを取り出す。それを手のひらに乗せて、典子の前に差し出した。


「山内さん、…千日紅って、もしかしてこれですか?」


「ああ…そう、これだわ。…ああ、良かった、良かった…」


 典子は千日紅の花を愛おしそうに見やると、ぎこちなく動く右手を伸ばす。蓮江は、その手を優しく支え、シワだらけの典子の手のひらにカサカサの千日紅を乗せた。


 すると典子はゆっくりと手をすぼませる。


 それはまるで、散りかけの蓮の花が花弁を閉じていくようでもあった。


 蓮江は思わず目をそらした。


「…ああ、良かった、今日もあの方は来てくれたのね、」


「あの、山内さん、その方はどういう方なんですか?」


「ほら、昔、私が若い頃に、」


 まるで昨日のことのように語りだした典子の言の葉は、暗いだけの夜にゆっくりと重なっていった。

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