第12話 阿久間と申します。①







 教室で、椅子から転げ落ちそうになったのは、はじめてだった。


 朝、ドタバタと三流コメディのようなオチもヤマもないしょうもない出来事に巻き込まれつつも、なんとか始業前に滑り込んだ教室の、ちょうど二限目に入る寸前のこと。


 次は担任の受け持ち教科なわけだけど、この時期はなにやら先生方も忙しいようで、そういえばこの時間は自習になるかもと前回の授業の折に言っていたのを思いだし、あぁ、それなら、こっそり早退出来るかな。

 なんて、家を飛び出すときに渡された不格好な砲丸みたいなおにぎりで、――何故か中身がぶつ切りのウインナーと卵焼きの切れ端だったことに戦々恐々としながらも、――ようやく腹を満たしながら、ほっと一息ついたそんなときだった。


 教室の扉が開いて、――『彼女』が颯爽と入ってきたのは。


 この高校に入学してから大体今日で半月ほど。

 周りもようやく教室内でのグループが固まってきて、まさに青春の1ページ。思い思いの話題に花を咲かせていた。そんな時だったからかもしれない。

 更には、次は自習だからと、皆、高をくくっていたこともあるだろう。

 さして大きな音もなく、なんともなしに開いた扉だけど、一転して室内は、まるで水を打ったかのような静寂に包まれる。


 だが、それもそのはず。


 確かに、理由のひとつは、来ないはずの担任が扉を開けて入ってきたことだろう。

 僕も、さて、腹も満ちたしタイミングを計って早退してしまおう。と、家に残してきた母と、あの台風のような暴走機関車、もとい『悪魔さん』の動向に気が気でない心持だったからさ、油断していたわけではないけれど、内心驚いた。

 でも、皆が会話を止めた本当の理由。それは、担任の姿が見えたからではなくて、――そう。


 話なんかしている場合でなくなったからだ。


 人間は、きっと人知を超えたものに、そうおいそれと対応できないのだろう。脳が不意を突かれ、心が萎縮し、身体がすくむ。


 ただ、彼女は教卓まで歩いただけなのだ。それなのに。


 その、例えようのない美貌に、男子生徒たちの息をのむ音が聞こえた。

 その、神に愛されたかのような体躯の可憐さに、女子生徒たちの羨望にも似た溜息が聞こえた。


 そして、チョークが黒板を叩く音が優しく響き、見事なまでに制服を着こなした彼女は、くるりとその腰まで届く “黒髪” をふわりとなびかせ、こちらに向き直って、――にこり。


「阿久間と申します」


 僕は、あっけにとられたままで呆然としてしまって。


 だってそこには、今朝、リビングで見たあの時の笑顔で『彼女』がいたのだから。







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