2-14
バージルが長い話を終えると日が暮れて部屋は薄闇に包まれていた。バージルの向かいに座る子供達二人は予想通りの反応を示している。
ケントは受け止めきれずに瞳を彷徨わせて呆然としていた。マリアは眦を吊り上げて頬を興奮で赤くし、固く握り締めた手が震えている。アリサは決して浮かべなかった攻撃的な顔でバージルをきつく睨み付けた。
「お父様は……お母様を裏切っていたのですか?国のために仕方がなくお母様を愛している振りをっ?」
言葉にすると、酷い現実が肌を焼かれるような痛みを伴ってマリアを苦しめた。怒涛のように感情が湧き上がる。
「お母様の守護者でありながら元聖女となんてっ、そんな、そんな酷い事をよくもっ!それだけじゃありませんわ、わたくし達も裏切っていたなんて!!」
「マ、マリア落ち着いて」
青白い顔をしながらも冷静さを保っているようなケントの様子は、さらにマリアの感情のボルテージを上げた。
「お兄様っ、落ち着いてなんかいられません!あんまりだと思わないのですか!お母様が可哀そうではありませんの!?あんなに、あんなにお父様を愛していらして、最後まで騙されて!挙句お母様が亡くなった途端に元恋人の元に行くなんて!!こんな酷い侮辱、許さない!!」
今までの人生でここまで怒りを覚えた事はない。こんなにも大声を出して怒鳴りつけた事も。感情の制御が出来ない。悔しくて悲しくて目尻に涙がたまる。
二人は理想の夫婦だった。愛し愛されて、マリアの憧れだった。その憧れの内実かこんなに酷いなどと思うわけがない。
―――捨てられたのだ、父に。母も自分達も、ゴミ屑のように。
心の底から震えが来る。マリアの愛に満ちた日常が粉々に崩れ、思考も目の前も血のように真っ赤に染まり、思いを口に出さなければ死んでしまう。
「のうのうと愛してるなんて囁いて、思いを封じたからなんなのですか!まやかしではないですか!お母様を馬鹿にするのも大概にして!!何が世界で一番幸せな王妃よ!一番不幸な王妃だわ!!!」
バンっと一際大きな音がなった。息を飲んだマリアの肩が揺れる。
バージルは拳を机の上に置いて、顔は冷静そのもので静かな口調で淡々と告げた。
「お前が何を思おうが構わない。ルーファスを軽蔑するのも憎むのも好きにしろ。お前の心だ。ルーファスを理解しなくていい。だがな、アリサの不幸をお前が決めつけるな。それはアリサにだけ許されるんだ」
ただでさえ冷静ではないマリアの頭にさらに血が昇る。バージルも父親と同じくらい憎らしい。
「何をおっしゃっていますの!お母様の事はわたくしが一番わかっていますわ!同じ女ですもの!貴方は男だからお父様の味方をなさりたいのでしょう!?よくもこんな仕打ちが出来ましたわね、選択肢も与えずお母様を他の世界から無理矢理攫って、お母様にこの国を守らせるためだけに誠実な振り愛している振りをして、寿命まで縮めておいて!!」
バージルもケントも憤怒に染まるマリアの激情に圧倒されていた。マリアの口は止まらない。マリア自身も自分が何を言っているのか理解していないのかも知れない。
「その元聖女とお父様の二人でお母様の死を願っていたのでしょう!?なんて厭らしく浅ましい卑劣な人間なの!!そんな人間は聖女なんかではないわ!聖女の資格を失って当然よ!何故お母様がこんな惨い仕打ちを受けなければいけないの!?こんなことならお母様じゃなく、お父様が死ねば良かったのよ!!」
「マリア!」
それまで口を挟まなかったケントがマリアを引き寄せてその腕の中に抱き締めた。
「お、お兄様………」
「これ以上は言うな。君が傷つく」
呆然と見開いた目からぼろぼろと涙が白い頬を流れる。マリアは怒っているのではない。傷つき悲しんでいるのだ。ケントには母とそっくりなマリアの涙が殊更辛かった。
「………みんな、嫌い。お父様も、お兄様も、バージルも、大っ嫌い!!」
マリアはケントを突き飛ばして部屋を出ていった。
ケントは力なく座り込む。正直、頭が混乱している。いや、理解を拒んでいる。その証拠に倦怠感のような遣る瀬無さは感じるものの、マリアのような凄烈な怒りは湧いてこない。
そんなケントを眺めてバージルが口を開く。
「お前は、何か言うことはないのか?随分と冷静だ」
「マリアが怒鳴っていたから、逆に冷静になっただけですよ。………言いたい事はほぼマリアが言いましたね」
マリアに辛い役目を押し付けたようなものだと自嘲が零れる。
「そうか」
バージルはそう言って軽く頷くだけで淡々としている。マリアが怒鳴っていた時もそうだった。マリアを諫める事もしなかった。
ケントはバージルが父を庇うのではないかと思っていたのでバージルの態度には違和感を覚える。
「………父の弁明をしないんですね」
「何もするな、と言われている。話すならありのままを伝えろと」
ケントは自分の目を覆う。疲れたように項垂れた。急に父が遠い存在になった。母を愛し家族を愛していた父は、存在していなかったのだろうか。
「私には、父がわかりません。父の母への愛は何だったんですか?愛ではなかったんですか?」
どんな時もルーファスはアリサを献身的に支えて大切にしていた。あれが愛ではないのならケントには永遠に愛がわからないだろう。
「アリサは愛されるのに値しない女だったか?」
「まさか!母は素敵な女性ですよ、それこそ愛さずにはいられない人でした」
子供の目から見ても、優しく聡明で、凛とした強さを持った美しい人だった。沢山の人に好かれて愛されていたのがその証拠だ。今も神殿にはアリサを悼む人の列は途切れる事はない。
「俺もそう思う。それに二人は聖女と守護者だった。運命だった」
「何かの謎かけのようですよ」
しかめっ面をするケントにバージルが笑う。
「聖女と守護者は最高に相性のいい魂だ」
「魂………」
ケントの眉間の皺が深くなる。ケントが子供の頃に聖女について興味を持った時、バージルはケントに聖女の器の話をした事があった。
「守護者の最大の役割は神力によって壊れていく聖女の器の修復だ。これは俺の憶測だが、聖女の器も守護者の能力も魂や本質に深く関わるものだと思う」
「つまり?」
「常識的に考えて、魂と触れ合う事が出来ると思うか?」
「まさか」
「聖女と守護者にはそれが出来るのだと思う。だからこそ器の修復が可能なのだ」
ケントは必死でバージルの話を理解しようとしている。
「それで相性がいい魂?」
「実際は相性がいいどころの話ではないのだろうな。二人の感じる多幸感はずば抜けているのだろう。俺には至上の愛に見えた。」
「なら、何故父は今ここにいないのですか?」
ケントにはとても理解できそうにない。至上の愛と言うのなら、母を最も愛していたのなら、母だけを思い、今もここにいる筈だ。こんな事になるならば、母を思って死んでくれた方が遥かにましだった。その方がずっと二人の愛を信じられた。
ケントの苦悩はバージルにはよく理解出来た。バージル自身も何度も思った。
ミズリと出会わなければ、ルーファスは運命だけを見つめて他の聖女と守護者のように至上の愛のためだけに生きて死んだのだろう。けれど、ミズリとの出会いがなければ、そもそも運命との出会いもなかった。そこにルーファスという人間の一筋縄ではいかない複雑さが垣間見える。
「ルーファスは単純な人間ではなかったからだ。至上の愛が一番ではない人間もいる」
「意味がわかりません」
「だろうな。俺もわからん」
「バージル!」
からかわれているのだろうかと思ったが、バージルは至って真面目だった。両手を組みじっとケントを見据える。
「お前は、お前の感じた事を見た事を信じればいい。お前達はルーファスを憎んでもいい。俺は文句でも怒りでも何でも受け止めてやる。いつでも言いに来い」
ケントは大きなため息をついた。
「まだ、頭が混乱しています。時間が必要なんです。私にもマリアにも。………父は本当に戻らないのですか?」
「それだけは変えられない」
「それじゃ、私達は本当に捨てられたんですね………」
ケント達だけではなく、国も、民も、王族の誇りや名誉、義務も全て捨てた。たった一人の人間のために。
ケントは元聖女を良く知らない。生まれる前の話であるし、彼女の痕跡は肖像画を含めて神殿に残されていなかったからだ。でも、一つだけ心当たりがあった。
幼い頃、父の書斎で遊んでいた時だ。本棚の本をとっかえひっかえ出していた時に本に挟まっていた古い紙。黄ばんで薄汚れた紙には笑顔の少女がいた。破れて少女の顔の三分の一はなかったけれど、鼻の頭に雀斑があって短い髪はあちこち跳ねさせて無邪気に明るく笑っていた。
ケントはそれを誰にも言わなかった。何故かはわからない。見つからないように元の場所に仕舞って、でも時折そっと取り出して眺めていた。成長するにつれていつの間にか忘れていた記憶。
ケントはただぼんやりと視線を彷徨わせた。ケントは自分が悲しんでいるのか苦しんでいるかわからない。ただ心の底から知らなければ良かったと後悔が胸に押し寄せていた。
何かを言いかけてバージルは結局口を閉ざした。ケントが言うように時間が必要なのだ。
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