2-13

 アリサを亡くしてルーファスは人前に姿を見せなくなったが、結界の補強に神聖樹の元に通っているのをバージルは察していた。


 バージルはまだ夜が明けきらない内に神殿を訪れた。聖女の居なくなった神聖樹は決して王族を拒まない。聖域に辿りつくと神聖樹を見上げて佇む男性の後ろ姿を見つけた。


 ルーファスだ。その見慣れた後ろ姿はルーファスである筈だが、決定的に違う部位がある。キラキラと光を反射して輝いていた金髪が、色素が抜け殆ど白っぽく変化していた。


 何故か、呼びかける声が喉に詰まる。無意識に唾を飲み込む。ここは聖域だ。なのに、朝の清浄な空気が纏わりつくように重く、神聖樹の葉が不穏を感じているように不自然に舞っている。一歩を踏み出す足取りが重い。ルーファスとの距離がとても遠くに感じられる。


 ルーファスは振り返らない。バージルがすぐ後ろに立ち止まっても無言のままだ。バージルの胸がざわつく。額から一筋の汗が流れた。


 バージルの緊張を他所に、ルーファスは熱心に神聖樹を見上げている。何かを探しているようだ。その姿には見覚えがあった。ルーファスが見つけようとしているもの、少女の幻がバージルの脳裏を掠める。


 もうずっと忘れかけていた術の存在を思い出す。思いを封じて結局一度もバージルがかけ直す機会は訪れなかった。ルーファスが補強し続けていた。ルーファスはバージルよりも強い力をもっている。あれは補強しなければいつまで持つのだろう。このルーファスを相手に。


「アリサが死んだ」


 温かみが抜け落ちた、凍えるような冷然とした声だった。一瞬誰の名を呼んだのかわからなかった。アリサの名を呼んだとは思えなかった。ルーファスは宝物のようにアリサの名を呼ぶのに。


「神子は死んだ。だから王族である運命である私も死んでいいだろう?」


 ゆっくりと振り返ったルーファスはバージルの知るルーファスではなかった。ミズリに嫌われたくないと臆病で不器用な情けないルーファスでも、アリサに積極的に愛を囁いた慈愛に満ちたルーファスでもない。


 深みを増したの双眸は昏く淀んでいる。白い頭髪と相成って違う生き物のようだ。

 バージルは息を詰めて背筋を凍らせた。


「何をそんなに驚いている?化け物を見たように」

 ルーファスは目を細め口元には嘲笑を浮かべている。

 バージルは愕然とした。今更と、呟くのをなんとか留めるかわりにうめき声が漏れる。


 ルーファスのミズリへの執着をどうして忘れていたのか。ルーファスのアリサに向ける愛が物語のようにあまりに優しく美しかったから、それが全てだと思いたかったのだ。

 二十二年だ。ミズリを風化させるには充分な時間が流れた筈だ。ミズリへの思いはゆっくりとルーファスの中で消えて、アリサだけを愛してもいいだけの時間が流れたのだ。


 遠慮などしている場合ではない。確かめずにはいられなかった。

「もう、アリサを愛してないのか?アリサへの思いは残っていないのか?」


 ルーファスとアリサを見るまでは至高の愛など信じていなかった。ルーファスのアリサへと向ける愛は成熟されてミズリへの思いを遥かに凌いでいたのではないのか。それがこんなにも儚く消えるのか。ルーファスの中にアリサへの愛を探した。


「愚かな事を聞く。私がアリサを愛さなかった事があったか?」


 ルーファスの言う通りだった。ルーファスは全身全霊をかけてアリサを愛していた。愛する以外を選べなかったのだ。その本当の悲哀をバージルは一つも理解していなかった。


「神子は死んだ。だから王族である私も死んでいいんだ」

 そう言って歪に仄暗く笑う。


 バージルは自分の犯した罪の深さに指先が冷たくなる。ルーファスの瞳は深淵のようだった。悲鳴をあげ続けて歪んだ心がそこにはあった。殺し続けたルーファスの心。



「………憎んでいるのか」

 呆然と呟けばルーファスが冷笑した。

「アリサ以外の全てを」

「!」


 殴られたような衝撃だ。長い年月の中で出来たバージルの勝手な思い込みが粉々になる。

 いつしかバージルはこれが正しいのだと思うようになっていた。ルーファスの真の幸せはミズリではなく運命であるアリサであり、バージルがした事は正しいと、傲慢にも思っていたのだ。ルーファスのミズリへ向ける思いが運命程強いわけがないと侮っていた。


 言葉を失うバージルをルーファスは可笑しそうに見つめる。

「運命を、聖女で在り続けたミズリを、運命に抗う術のない自分を、何一つ思い通りならない現状を。あげればきりがない。………だが、それももう、どうでもいいんだ。運命は死んだんだよ、バージル。私は自由になる」


 昏い喜悦に満ちていながら、ルーファスは気が触れたわけではない。バージルにはそれが恐ろしい。

 身震いしながらバージルはひしひしと感じていた。ルーファスはミズリ一人のために全てを切り捨てる気なのだ。王である事も、守護者であることも、アリサと築き上げてきたもの全て。

 信じられなかった。この二十二年は言葉で言う程簡単ではない筈だ。本当にルーファスには捨てられるのか。未練がないのだろうか。アリサと築き上げたものに対しての。


「子供達はどうする?」

 この際他の事はどうでも良かった。子供達を切り捨てる事は出来ないないだろう。

 バージルの思いと裏腹にルーファスは動揺一つ見せなかった。

「私は死んだと言えばいい。成人を過ぎて親を恋しがる年でもないだろう」

 冷淡だと罵られても仕方がないもの言いだった。愛している子供に言う言葉ではない。ルーファスの中の子供達との距離感の変化を感じてバージルはたまらない気持ちになる。

「母親を失くした後だぞ、酷な事を簡単に言うな」

「アリサの子だ。心配はいらない」

 それはあまりに身勝手な言い分だ。ルーファスは子供達に対してだけは親としての責任があるはずだ。

「お前の子供でもあるんだ。あの子達はアリサとは違うんだぞ。話し合えばいい。家族だろうが」

「あの子達は私が何を語ろうと受け入れないし許さないだろう」


 子供達は母親に傾倒していた。特にマリアは崇拝と言っていいかもしれない。ルーファスはさぞ恨まれるだろう。


「恨まれても、向き合うべきだ。何も知らないまま見捨てられるよりずっといいだろ」

「恨まれるのは問題じゃない。理解を求めているわけでも許しが欲しいわけでもない。私が危惧しているのはあの子達が私を阻む事だ」


 マリアとケントがルーファスの出奔を許すだろうか。怒り狂って、マリアなら母親の名誉のためにルーファスを幽閉しかねない。


「私は時間が惜しい。もう一秒だって我慢出来ないし、したくない。邪魔をする者は許さない。子供達だろうと傷付けるだろう」

 そんな事が出来る筈がないとは思えなかった。それは最も最悪な未来だ。子供達が被る傷は計り知れない。

「子供達は私を憎むだろう。悲しむかもしれない。だが、あの子達の唯一は私ではない。子供達の伴侶がついている。やがて私の存在はあの子達の中から薄まっていく」

「そんな事、わからないだろう………」

 往生際悪く言いつのれば、ルーファスは首を横に振りはっきりと宣言した。

「私は、ミズリを選ぶ」

 そのためになら、ルーファスは迷わない。残していく子供達への非道な行いも何もかも承知の上で決めてしまっているのだ。


「………ミズリには他に相手がいるかもしれないぞ。地方の神官は還俗して結婚する者が多くいる」


 当初ミズリの還俗には条件がついていたが、ミズリが還俗を望まない時点でミズリの願いをなるべく叶える方向で事態が動くようになっている。そして、ある程度の年月が経てば無条件でミズリが還俗出来る暗黙の了解があったのだ。

 二十年以上も経ったのだ。バージルはそれを密かに願ってもいた。ルーファスとアリサの幸せを見る度にミズリにも同じ幸せが訪れるのを願った。


 ルーファスは薄っすら凄絶に微笑む。瞳は剣呑そのものだ。

「殺されたいのか。私を不愉快にさせるな」

 さわさわと神聖樹の枝が大きく揺れる。ルーファスの殺気に反応しているのだ。

 バージルは負けずに睨み返した。これはあり得る現実だ。その現実を前にルーファスの反応が知りたい。


「………ミズリはお前を忘れているかもしれない」

「あり得ない」

 即答だ。ミズリに対して自信がないルーファスが。

「ミズリはアリサの相手がお前で良かったと言ったんだぞ」

 少々意地が悪い返しになった。昔、ここでミズリと二人で話した。

「そうだな。その後私を一番信頼しているとも言っていた」

「聞いていたのか!」

 あの場はバージルとミズリしかいないと思っていたのだ。

 ルーファスは神聖樹を見上げた。

「ただもう一度だけミズリに会わせて欲しいと願った」


 アリサに意識を奪われない、まともな自分でただもう一度一目だけ、ルーファスのミズリに会いたいと。あの時の心の痛みをルーファスは一生忘れないだろう。


「ミズリの強がりにお前でも気付いたんだ。私が気付かないわけがないだろう?」


 そうだ。ミズリはとても綺麗に笑っていた。ルーファスに対するどんな気持ちも表に出すまいと懸命に笑っていた。ルーファスとアリサの幸せを願いながら、決して言葉には出来ないミズリの愛の告白だと思ったのだ。そして、ルーファスはミズリの愛を今も疑っていない。


 その強い思いがどこから来るのか。二十二年前の記憶を封じた時にもバージルは疑問に思っていたが、問う事自体を恐れていた。


「運命でもないミズリのために何故そこまで必死なんだ?」

 知ってしまえば、破滅しかないのではないかと思っていた。今なら受け止められるのかもしれないとじっとルーカスを見つめる。

「‥‥‥ミズリは、運命ではなかったが」

 ルーファスは片手を胸に当てて俯きながら柔らかに口角を上げた。久しぶりに見る、昔のルーファスらしい表情だった。


「ミズリは、私の真ん中なんだ」

「真ん中………」

「私と言う人間を形作る中心」


 もっと簡単な愛の言葉で返ってくるものと予想していたバージルは少しばかり混乱した。ルーファスは一人で納得して、それ以上語る気はないようだ。



 不意にもういいのではないかと思った。

 ルーファスは自分の役割を全うしたのだ。アリサがいないのにそれをこれ以上続ける意味がどこにある。守護者としてルーファスを縛り続ける事は第三者の都合でしかない。

 一方で、ルーファスは王だ。だが一生王で在り続けるわけではない。いずれはケントが後を継ぐ。退位の時期の違いなだけだ。


 アリサがこんなに早く逝かなければ、ルーファスは一生気持ちを殺し続けた。それを思えば、後に残る問題は些細な事のように思える。バージルは二人の味方になろうと決めた。ルーファスに対する償いでもある。


「………ミズリがどうしているのか俺は知らないぞ。聖女じゃない女を探すのに俺達の能力は無力だ」


 この国は広い。大小様々な神殿が各地にあるし、中央神殿が把握しきれていない末端の神殿も多いと聞く。おまけに神殿は王族がミズリに関わる事を厭い、ミズリの行方を王族に洩らさない。ミズリが神殿に所属しているかどうかすら分からないのだ。


「神聖樹の根は国全土に広がっているんだ。それを辿って行けばいい。それに、私はミズリを探すのが得意だ。知らなかったか?」

「いや、ミズリはもう聖女でないから無理だろ」

 いくらルーファスの力が突出していようとも。

「バージル、もしかしたらミズリも勘違いしている。私は聖女だからミズリを探せるわけじゃない。最初にミズリと出会った時、ミズリは聖女ではなかっただろう」


 確かにあの時はまだミズリは聖女に選ばれていなかった。ルーファスはただ胸騒ぎに誘われて森に入って行った。


「ミズリが聖女だからじゃない。ミズリがたまたま聖女になっただけだ。私にとっていつでもミズリはミズリでしかない」


 ルーファスが見つけたのだ。あの小さくて可愛らしい、愛さずにはいられない魂を神よりも早く。あの瞬間が全てを決定付けたのかもしれない。

 ルーファスにとって、守護者も聖女も神子もどうでもいいのだ。ただミズリでありさえすれば、ミズリがルーファスのものであるならば。何者にも邪魔はさせない。それが他ならないミズリであっても。


「邪魔をするなら、バージルでも容赦しないが」

 バージルに冷たい目を向けた。

 バージルはむっと眉間に皺を寄せた。今のルーファスならどんな強引な事もやってのける気がして、ミズリが心配になる。

「ミズリに無理強いはするな。傷つけるな」

「ミズリを傷つけていいのは私だけだ」

「ルーファス!!」

「冗談だ。ミズリが私の手を取れば問題ない」

「なにが冗談だ!目が本気なんだよ!問題だらけだ!!」

 怒鳴って、空を仰ぐ。歪んだ愛だと思った。重く醜く歪で救いがたい。


(こんなのをミズリに押し付けていいものか………)

 困ったことに、ミズリがルーファス以外の者の手を取る想像が一つも思い浮かばない。同様にルーファスを拒めるミズリも思い浮かばない。


 バージルは空に向かって長い息を吐き出すとルーファスに視線を戻した。ルーファスの目の前に指を三本突き出した。

「………三か月だ。三か月だけ時間が欲しい」

 全てを整える時間だ。これくらいの猶予は妥協してもらわねば。

 ルーファスは焦れた顔をしたが結局頷いた。


 本当は、ミズリの傍に一刻も早く行きたくてたまらない。失望が胸に広がるが、その奥には希望が隠されている。

 ルーファスはいつもするように神聖樹の幹に額を当てた。思いを封じられてもミズリの無事を祈り神聖樹に力を流し続けていた。きっとどこかでミズリと繋がっている。ルーファスの力がミズリを守るだろう。

 そのままそっと青紫の瞳を閉じた。瞼の裏に色褪せる事のない鮮やかなミズリの笑顔を浮かべて。

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