2-10

 神子は守護者であるルーファスとの出会いにより心身共に落ち着き、強過ぎる力も安定するようになった。最初失敗をした神聖樹への力の譲渡もルーファス達に伴われ、恙無く完遂した。


 祈りの場である神聖樹の中には神子とミズリの二人しか入れない。ルーファスとバージルは神聖樹の傍に立ち待っている事しか出来ない。

 神子は随分と緊張した顔をしていた。前回の失敗が堪えているのだろう。


 神聖樹に神力を灌ぐ時間や頻度は聖女によって異なる。これは聖女の力量による。力だけならば神子は歴代聖女が束になっても敵わないだろうが、神子は強大な神力を一度で灌ごうとして神聖樹から拒絶されるという珍事が起きた。


 力のコントロールは本来幼少期に自然と身に付くものである。四苦八苦した神子の力のコントロールはルーファスとの感覚の共有で上手く行くようになっていった。




 二人が入って行って、まだ十分も経っていないだろう頃に神聖樹から光が溢れた。枝の先、葉の一枚一枚に及ぶまで、一瞬神聖樹が光で覆われた。

 目を瞠って呆気に取られる。これまでにこんな事は一度も起きなかった。神聖樹を包んだのは圧倒的な神力だ。力の奔流に鳥肌がたった。


 その直ぐ後に神子とミズリが立っていた。神子はルーファスを見つけると満面の笑顔でその胸に飛び込んだ。

「私、ちゃんと出来たかな?」

 初めて成功出来た事で興奮して大胆な行動をとる神子の黒曜石の瞳がキラキラと輝く。いつにない子供のような行動にルーファスは微笑みを浮かべ、神子の乱れた前髪を優しく梳く。神子の頑張りと不安をルーファスが一番知っている。

「充分過ぎるくらいに。君を誇りに思う。ありがとう、アリサ。疲れてはいない?癒しを行わないと」

 ルーファスの手が神子の体を労わるように滑って行く。神子はくすぐったそうに身を捩りルーファスの手をぎゆっと握り込む。

「ううん、平気だよ。力が漲ってるの。まだ何回か出来そうな気がする」



 バージルは咄嗟にミズリから二人が見えない位置に立った。ミズリの体が傾いたのでミズリの腕を掴む。その青白い顔を見て癒しの力を灌いだ。抱き上げようとした時、ミズリの手がバージルの手を掴んでそっと外した。

「大丈夫です。アリサ様の力にあてられただけです」


 今のミズリにアリサの力は強過ぎる。ミズリの器の限界はもう直ぐなのだろう。


 バージルの顔を見てミズリは仕方がないなぁと笑う。

「そんな顔はしないで下さい。色男が台無しですよ」

「生意気な口を効くじゃないか。お子様には俺の魅力はわからないんだよ」

 バージルの大きな手がミズリの頭を乱雑に撫でる。ついでに癒しの力も追加する。


 バージルの手を逃れてミズリは自分の足でしっかりと立ち神聖樹を見上げた。バージルもミズリに倣う。神聖樹はいつもよりも艶が良く瑞々しい生命力に溢れていた。

「凄まじいものだな」

 バージルがポツリと零せば、ミズリが頷いた。

「ええ。流石です。………これで私もお役御免ですね」

 ミズリの横顔はとても静かで、その瞳は遠くを見つめていた。




 神子の出現は熱狂的に国民に受け入れられた。

 王宮は王子の婚姻を前に慌ただしさを増している。大規模な祝賀となるためどこも仕事に忙殺されている。ルーファスは王宮と神殿を行ったり来たりしており、ルーファスの窓口となるのがバージルだった。神殿に行けるだけルーファスの方が仕事は少ないかもしれない。顔だけは日に何度も合わせるが、落ち着いて話せるような時間はなくバージルも余裕を失っていた。


 バージルの日課はまず回って来た仕事をルーファスに回す案件とバージルで処理出来る案件を仕分ける事から始まる。そうしてルーファスの仕事は優先順位をつけて分ける。緊急のものがある場合はルーファスを探して持って行く事になる。


 バージルはルーファスを探して書斎に使用している部屋を訪ねた。

 ルーファスの完全なプライベートな書斎はそれ程広くはない簡素な部屋だ。片側の壁には書棚があり、窓辺に人が一人横になれる長さのソファがあり、ソファの隣に小さな丸い机が置かれている。扉から入れば部屋の全てが視界に入る広さしかない。正面の窓には薄い生地のカーテンがひかれ薄暗かった。


 扉を開けてバージルはどきりとした。人の気配はない。ただ、床に紙が散乱している。それが殺風景な部屋の秩序を著しく乱しているのだ。バージルは足を踏み入れて床に散らばる紙を手に取った。書類や手紙に使用するような薄い紙ではない、厚手のものだ。


 散乱した紙はどれも乱暴に破かれ、白い無地のままのものもあれば、幾重もの線で黒く塗り潰されたものもある。何か意味のある言葉や絵が描かれたものはないようだった。この量からして一日二日で出来た事には見えない。


 少しざらつきのある紙はルーファスが愛用していたスケッチブックと同じものだった。ルーファスがミズリと会えなくなってからルーファスがスケッチブックを持っているのを見た覚えがない。ルーファスが絵を描いていたのは趣味だからではない。必要に駆られて、という方が正しい。ルーファスが絵を描く意味を失くした今は無用になったものだ。


 バージルは何か空寒さを感じながら侍女に片づけを命じるに留めた。


 この日以降少しずつルーファスの奇行が目立ちはじめるようになった。


 普段のルーファスは正気に見える。王太子として政務をきちんとこなし、アリサとは仲睦ましい。二人の距離がどんどん近づいているのがわかる。若い神官は二人の様子をよく噂している。頻繁に口付けに耽っていればそうなるだろう。まさかバージルがルーファスに慎みのなんたるかを語る事になるとはと呆れていれば、背筋の寒くなるような事をやらかす。


 ある日、ルーファスが倒れた。聞けば寝不足が続いたところに制止を聞かず過度な訓練を行って気を失ったようだ。訓練に付き合った騎士には気の毒な事をした。

 ある日、割れたコップを手に持って握り締めていた。滴る血が床を穢す。侍女が悲鳴をあげて、バージルが慌ててコップを捨てさせた。

 ある日、ルーファスの私室の鏡が粉々に割れていた。ルーファスの手は血まみれで、散乱した鏡の破片の上を裸足で平気で歩いていた。


 やる事に反してルーファスは泰然としている。その異様さをルーファスは理解していないようだ。バージルが叱っても、こんな事は大した事ではないだろうと聞き流す。今はまだ人の口にのぼっていないが時間の問題だろう。バージルの焦りは日に日に募っていった。


 バージルが執務をしている時だった。ペーパーナイフをルーファスが借りに来た。貸した後で嫌な予感に襲われ、ルーファスの部屋に飛び込めば手首にペーパーナイフを宛がう姿があった。


 呼吸をするのも忘れてルーファスに飛び掛かりナイフを取り上げた。ルーファスは無表情にバージルと取り上げられたナイフを見つめた。

 バージルは肩で息をした。背筋が凍る感覚はなかなか去らない。


「バージル、どうかした?ペーパーナイフを返して」

 何もなかったようにバージルに手を差し出す。手首には極浅く皮膚が裂けた箇所がある。

「‥‥‥これは紙を切るための道具であって、人を切るためではない」

「もちろん、わかってる」

 バージルの視線は傷付いたルーファスの手首に落ちる。

「ああ、これ?大した事じゃないだろう?少し切れ味を試してみたくなったんだ」

 何でもない事のように言って、薄っすらと微笑んでいる。


 バージルは思い違いをしていた。

 ルーファスは割り切れているものと思っていた。苦しみをバージルに見せなかったから。ミズリを話題に出さなくなったから。アリサを大事にしていたから。王太子としても守護者としても完璧に振る舞っていたから。

 ルーファスは心の整理をつけて前向きに運命を受け入れたと、そう思っていた。いや、そう願っていたのだ。ルーファスが壊れていくとは思いたくなかったのだ。


 運命とは祝福ではなかったのか。運命という唯一無二の存在を与えられ、重い枷を背負うかわりに至福の中で人生を歩むのが聖女と守護者なのだ。それ故に王族は守護者に強い憧れを抱いて育つ。


『王族は一途な者が多い』


 そう言った王妃の言葉が思い出される。ルーファスは間違いなくその性質を継いでいる。幼い頃からミズリを、ミズリだけを思っていた。

 でも、ミズリは運命じゃなかった。ルーファスの正しい運命は神子だ。これは覆せない真実だ。それなら、ルーファスの一途にミズリを思う気持ちは何処へ行けばいいのだ。同時に二人を思う器用さをルーファスは持っていない。処理できないのだ。その矛盾は苦痛でしかない。


 運命じゃないミズリを思う気持ちと運命であるアリサに惹かれる気持ちはルーファスの中でせめぎ合ってルーファスの精神を破壊して行く。壊れて行く事をルーファスは望んでいる。


「何故だ、何故そこまでっ…」

 ミズリへの思いは、まるで妄執だ。これ程苦しみながらも手放そうとしない。忘れてもいいだろう。それを誰も薄情だとは思うまい。運命と出会ったのだ。運命とやらの圧倒的な力にルーファスはひれ伏してもいいのだ。それが正しい筈だ。


「バージル、ペーパーナイフを返して」

 ルーファスはバージルの様子に頓着せずに、ペーパーナイフに魅入られている。


 どうしたらいい。どうしたらルーファスを止められるだろう。ミズリと逃げろというのか。国を捨てて、この国に住む全ての者の命を犠牲にして。


 バージルは歯を食いしばる。神子と言えども守護者を失えばミズリと同じ運命を辿る。同じ奇跡が二度起こるとは考え難い。ファストリアは結界を失えば雪と氷に飲み込まれるだろう。そんな事は許されない。王族としてはやや意識にかけるバージルでもそう思うのだ。ルーファスやミズリはその比ではないだろう。


 犠牲にすべきが何なのかよくわかっている。だから苦しい。


 ルーファスがペーパーナイフを取り返そうとしてバージルと揉み合いになった。ルーファスは自分が傷つくのを全く恐れない。ルーファスの手がナイフの刃を握った。ルーファスの手が赤く染まる。バージルがナイフを持った手を力任せに握ってもルーファスは刃を離さない。

 表情を変えないルーファスと違って、バージルは全身から汗が噴き出す。あの日、綺麗に笑ったミズリが頭を過った。


『ルーファスはわたしが世界で一番信頼している人です』

 わかっている。ミズリにとってルーファスは全てだった。語ってくれたミズリの、言葉には出来なかった心をバージルはわかっていると思う。

(だが―――ミズリ、すまんっ)


「ミズリを忘れてくれ!」

 夢中で叫んだ。それが唯一の方法だと思った。ルーファスがミズリを忘れさえすれば、ルーファスが思うのが神子一人であるならば、全てが上手く行く。


 残酷な事を言ってる自覚はある。バージルは当事者ではないから、どこまでも非道になれるのだ。バージルには相応しい役目だ。そのための配役だったと言ってもいい。


 無表情だったルーファスの眉間に皺が寄った。ペーパーナイフが手から滑り落ちて床に転がる。今日始めてバージルをまともに見た。

「ミズリを忘れる?」

「そうだ。俺には特殊能力がある。この能力のせいで爺は俺に目をつけたんだが。いいか、俺は人の思いを忘れさせる、正確には封じる事が出来る」


 極まれに王家には変わった能力を持つ者が生まれる。こういう能力の殆んどはあまり意味のない、有り体に言えば役に立たないものだ。そんな中でバージルの能力は興味深いものだった。


 恐怖や悲しみ等といった負の感情は時に人を蝕み苦しめて人生に濃い影を落とすことがある。バージルはその影を形作る思いそのものを封じる事が出来る。例えば溺れかけて水場には近づけなくなった子供の、溺れた記憶はそのままにその時の恐怖心を封じるのだ。そうすると子供には溺れた記憶の教訓は残るが水へ恐怖心がなくなる。


 貧民街で暮らしていたバージルはその思いを封じる事で金銭を得ていた。かける側とかけられる側の意思疎通が不可欠なので洗脳とは違う能力だった。


 バージルの母親は安易に人の思いを封じてはいけないと諭していた。思いはその人間を形作る大切なもので、それがどんなに酷くても、その事実を曲げてはいけないと言われて、バージルは治療以外に使用しないと誓わされた。

 バージルは地獄に落ちるかもしれない。母親に散々脅された。だが、それがなんだというのだ。


「お前の中のミズリの記憶を消す事は出来ない。だが、思いを封じる事は出来る」

「思い………」

「そうだ。その時にお前がミズリに感じた事、思った事を封じる。ミズリとの記憶、思い出は残る」

 ルーファスは一歩バージルから距離をとった。警戒も露わに唸る様な声を上げた。それがどんなに残酷な事かルーファスは気が付いている。


 記憶に色があるならば、色は人の思いだ。ルーファスの記憶は美しく豊かな色で溢れていた。ルーファスのスケッチブックに色がのる事はなかったけれど、脳裏にはいつも鮮やかな色で溢れていた。


「これ以上は、ダメだ」

「ルーファス」

 バージルが近づけばルーファスがまた下がる。バージルが恐怖そのものであるかのようにバージルから逃げる。

「ミズリを、僕から奪っておきながらっ、何故思いまで取り上げる!?嫌だ!奪わないでくれ!!これ以上僕からミズリを奪わないで!」

「ルーファス!」


 ルーファスは壁際まで追い詰められた。壁に背をつけてズルズルと座り込む。頑是ない子供のように頭を振る。

「嫌だ………いやだ…ミズリ………とりあげないで、いやだ…ミズリ、ミズリミズリ」

 ルーファスは何が最善かをわかっている。わかっていても抵抗せずにはいられないのだ。バージルが非情にならなければいけないように。

「このままじゃお前が壊れる。誰も幸せになれない!」

「………幸せになれない………?」

 ルーファスの虚ろな目がバージルを見上げる。何かを思い出したかのように視線が宙を彷徨う。無防備なあどけない仕草だった。

「僕は、アリサを幸せにしなくちゃいけないんだ………」

「そうだ、アリサは絶対に幸せにならないといけない」


 突然世界から切り離されたアリサ。この国の都合で無理を強いた女性だ。これ以上自分達の事情に巻き込むわけにはいかない。アリサだけは誰よりも幸せに。ミズリの最後の願いだ。


「アリサのためにミズリを忘れてくれ」

「アリサのために………」

 ルーファスの瞳が揺れている。苦しい苦しいと訴えている。その悲痛な訴えをバージルは断腸の思いで無視した。

「そうだ。アリサのためだ」

「アリサ………でも、ミズリが…………ミズリ……どうして、ミズリ‥‥‥」


 ルーファスは固く、震える程固く片方の拳を握り込み、もう片方の手で包み込む。大事な思いがその中にあるように胸に引き寄せた。傷ついた掌から鮮血が滴り落ちる。それはまるで血を流すルーファスの心そのものだ。

 バージルは無意識に唾を飲み込んだ。


 ―――ミズリのために。

 どうか伝わって欲しい。


 ルーファスの体から徐々に力が抜けて行く。震えは収まり、固く握りしめていた拳を開く。何も握り締めていない掌を呆然と眺めてそのまま両手で顔を覆った。


 静かな慟哭を見守り続けた。何度も思わずにはいられない。ミズリの目覚めがバージルの腕の中だったなら、もしくはアリサの運命がバージルだったなら、この不幸はなかった。

 替われるものならば替わってやりたいが、この碌でもない運命はバージルを選ばなかった。バージルはいつも傍観者の立場でしかない。その中で無様にあがくしかない。


 ルーファスが身じろいだ。壁に手を付いて立ち上がる。顔は血で汚れ狂気じみていたが瞳の揺らぎは消え光が戻っている。固唾を飲むバージルに苦笑する。

「みっともない真似をした」

 しっかりした口調だ。感情の揺らぎもない。

「ルーファス………俺を恨んでもいいんだぞ」

「恨む?そんな資格が私の何処にあるんだ?」


 ルーファスは自嘲した。ミズリがルーファス以外の人間に笑いかけても癒しを行わせても、ルーファスの前から居なくなっても、ミズリ以外の女性と幸せを願われても、それがどれ程嫌だと思っても。


 一つ大きく息を吐く。震える心を鎮めて。

 選べる道は一つしかない。ルーファスもミズリもアリサも。


「バージル。私は―――ミズリを忘れる」


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