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 ルーファスは自分なりにミズリを慈しんできた。それは守護者としては当然だと思われるのだろうが、意識して行ってきたのではなかった。出会った時からミズリが好ましく、一人になったミズリの家族になりたいと思ったのだ。


 父のようにも母のようにも兄弟のようにもミズリを愛してあげたかった。この気持ちは義務なのではなく、不思議とルーファスの胸に湧き上がる、誰にも感じた事のないとても尊い気持ちだった。


 ミズリの守護者に選定された時驚きや戸惑いはなく、当然だと思った。ルーファス以上にミズリを思える者はいない確信があったのだ。

 ただ、聖女と守護者は一生を共にする、その本当の意味を幼いルーファスは正しく理解してはいなかったように思う。


 守護者に選定されると同時に与えられる婚約者という肩書は将来婚姻して夫婦になるという事だ。家族の形でありながら子供であったルーファスには未知の領域である。

 ミズリが成人する十六歳で婚姻を結ぶ予定だから、後四年もない。それが嫌なわけではない。ただ、自分の感情の変化についていけないのだ。




「お前、何してんの?」

 王子相手にこんなもの言いが出来るのはバージルだ。幼い頃より公私にわたりルーファスの補佐をしてきたルーファスの片腕。国王と聖女の守護者となるルーファスにとってなくてはならない存在だ。臣下ではなく共に国を支えて行く同士だった。


 バージルはルーファスの手元を覗き込んでいる。ここは王宮の執務室、もうすぐ成人を迎えるルーファスは何かと忙しい。今も書類と格闘中なのだが、肝心の書類は上下逆さまだ。心ここにあらず、最近のルーファスの腑抜け振りは目に余る。バージルは書類を取り上げた。

 肝心のルーファスは書類を取り上げられて目を瞬くだけだ。バージルは書類でルーファスの頭を軽く叩く。


「ミズリと何かあったんだろう?話せよ、聞いてやる」

 昔からルーファスの不調や奇行の裏には大抵ミズリが関係しているのをバージルは知っている。振り回されるルーファスを面白がったりもしているわけだが、ちゃんと相談にも乗るのだ。

「………」

 無言のままルーファスは奪われた書類を取り返しながらじっとりとバージルを観察した。


 バージルは今23歳だ。強面ながら端正な顔に鋭い目つき、見た目クールで少し悪ぶった態度が女性達に受けている。現公爵の異母弟にあたるわけだが特に爵位を持たず元平民の気軽さか、適当に遊んでいて経験も豊富。そのくせ特定の恋人の話は聞いた事がない。


 方やルーファスは品行方正を地で行く王子様だ。女性と遊ぶなど考えたことはないし、それ以前にミズリ以外に身内ではない親しい年頃の異性と接触は皆無、興味もなかった。


 バージルが同じ年頃だった時でもルーファスのような悩みとは無縁だったと断言出来る。これはバージルを確実に面白がらせる案件だとルーファスの勘が告げている。


「バージルに話しても」

 この話は打ち切りとばかりに書類を広げた。その上にバージルが手を乗せて邪魔をして来る。睨み返せば、ぐっと顔を近づけてきた。

「今更ミズリとの結婚を意識して慌てだしてるんだろ」

「っ!!」

「俺としてはようやくって感じだがな。家族ごっこを卒業した祝杯でもあげたい気分だね」

 図星をつかれてルーファスの頬が紅潮する。バージルは口角を上げていやらしく笑う。

「夫婦になるんだぞ?ミズリを女として意識して当然だろう」

 悩みを簡単に見透かされた気恥ずかしさよりも、“女”などと生々しくバージルの口から聞くと大変不愉快で頭の芯が熱くなる。

「やめろ!ミズリが穢れる!」

 思わず叫んで我に返る。慌てて口を覆ったが後の祭り。バージルが腹を抱えて爆笑している。

「穢れるって!お前はどこの乙女だ!!」

 ゲラゲラと品のない笑いは高位貴族には見えない。ルーファスはこれ以上赤くはなれない程赤くなって、手元にあったペンをバージルに向かって投げつけたが、難なく受け止められた。


「お前ね、閨の授業は受けたんだろう?ミズリとやる事はわかってるのか?」

「ミズリで想像するなっ!!」

 自分以外の人間がミズリを性の話題に出すだけで殺気が湧く。頭に血が昇り過ぎてルーファスは破れかぶれだった。バージルは悪い顔をして腕を伸ばしてルーファスと肩を組む。

「あのな、こういうのは最初が肝心なんだ。処女と童貞だとキツイぞ。ミズリのためにもいい娼館を紹介してやろうか?閨は実践あるのみだぞ」

 我慢の限界を超えてルーファスが力でバージルを弾いた。ルーファスの髪が逆立ち、弾かれたバージルに外傷はないが酷く腕が痺れている。調子に乗ってからかい過ぎたようだ。

「僕は、ミズリ以外とする気はない!!」

 怒りのあまりルーファスは部屋を飛び出した。背後からバージルの笑い声が響いていた。




 バージルにも腹が立つが馬鹿な事を口走った自分にも腹が立つ。こんなにも感情的になったのはいつ振りだろう。冷静になれという声は怒りのせいでかき消える。


 大事なミズリ。ミズリの家族になろうと本気で誓ったあの日の純粋な気持ちに偽りはない。


 厳しい顔をして、いつになく乱暴な足取りで突き進む王子に王宮に努める臣下達が目を丸くしながら道を譲る。道行く者の視線を集めている王子が唐突に立ち止まる。そしてしゃがみ込んだので周りは驚いている。


(何だよ、穢れるって………)

 咄嗟に口をついて出た言葉は取り繕う事のないルーファスの本音だ。

 自覚している以上にミズリを神聖な存在だと感じているようだ。でも、それは仕方がない。ルーファスはこれ程に無垢な者を知らないのだから。


 ミズリを愛してる。バージルの言うように夫婦になるのだ。それが何の問題かと言われればルーファスの心にある。

 ミズリに対してどうやって接したらいいかわからなくなった。以前のように気軽に触れたりまして抱き締めたりなど出来ない。ここ最近の自分の酷い態度を思い返す。後ろめたい気持ちからミズリと目も合わせられなかった。



「ルーファス殿下?ご気分がお悪いのでしょうか?」


 廊下の真ん中で動かず蹲っているのだから、声を掛けられて当然だ。声を掛けて来たのは同年代のご令嬢だ。何度か会話をした覚えがある。月に一度臣下の妻と娘達の交流会を王妃主催で開かれているのを思い出した。

 この日ばかりはルーファスは王宮を無闇に闊歩するのを控えていた。何故ならこうやって捕まると非常に面倒だからだ。


 頬を染めて目を潤ませながらルーファスを見ている。その恥ずかしそうな様子に余程鈍くなければルーファスのへの好意が見て取れる。

「誰が人をお呼び致しましょうか?」

「いや、見苦しいところをお見せして失礼いたしました」

 手を差し出される前にルーファスは素早く立ち上がった。失態に失態を重ねている。これ以上はバージルが笑死してしまう。

 少し大げさなくらい令嬢は心配そうに眉根を寄せた。

「あの、お体は………」

「大丈夫です。体調が悪いわけではありませんから。ご心配ありがとうございます」

「お疲れなのでは?精力的にご公務に取り組んでいらっしゃると評判ですもの。あの、宜しければあちらのベンチで休憩をわたくしとご一緒になさいませんか?きっと良い気分転換になりますわ」

 ご令嬢はうっとりとルーファスを見上げて来る。親切心を装った下心が丸見えだ。

 ルーファスは引きつりそうな頬をなんとか動かして微笑む。

「いや、政務がありますので、失礼します」

 引き留められそうな雰囲気にルーファスはさっと身を翻した。


 令嬢が追ってこない事にほっとして溜息が出た。ああいうのは苦手だ。大体、ルーファスにはミズリという婚約者がいるのに、秋波を送ってくる令嬢の気持ちがわからない。


 年頃の娘にとって王子や守護者が憧れの対象だということをルーファスは分かっていない。しかも聖女と守護者が惹かれ合う運命だと知らされているのは王族でも一握りだけだ。

 自由な恋愛を楽しめるのは婚姻前だけだ。もう直ぐ成人するルーファスと違って、婚約者である聖女は未だ十二歳の子供。あわよくば、一時の思い出にと思う娘もいるのだ。


 男女間の色恋沙汰はミズリだけではなくルーファス自身も大変疎い。成長と共に交流の場が広がり、ミズリ以外の女性との接触も増えて来る。ミズリが基準であるルーファスにとって特にルーファスに好意を持っている令嬢は扱いに困る存在だった。


 恥ずかしがるだけならいいが、積極的に誘惑しようとしてくる者は閉口してしまう。

 先程のようにうっとりと見つめられても嬉しくともなんともない。それ以前にミズリにだってうっとりと見つめられた事はない。


 なんだろう、少し胸がざわつく。

 ミズリが脳裏に浮かぶ。ルーファスを見つけるといつだって全開の笑顔で出迎えてくれる。大好きだと隠す事のない開けっ広げの清々しい気持ちのいい笑顔だ。

 そういうミズリの笑顔が好きなのだが、もしもと想像する。


(もしもミズリがあの令嬢のように、頬を薔薇色に染めて未だかつて見た事のないような熱をあの若草色の瞳に浮かべて見てくれたら―――)

 想像するだけでルーファスの胸は動悸がして体が熱くなる。嫌悪感は微塵もない。無意識に零した吐息は甘く切なく、憂いに満ちたその姿を目撃した者達はやはり驚いた顔でルーファスを見ていた。




 自然な態度と思えば思う程不自然になっていくのは何故だろう。バージルには散々ヘタレだと言われた。人に言われるまでもない、ルーファス自身が一番知っている。


 器用だと思っていた自分はミズリに対してだけとことん不器用だった。ルーファスの態度は改善されず、始めの頃は訝しく思っていたミズリもいつの間にか追及をしてこなくなり、歯車が一つ外れたように噛み合わない関係に焦燥を募らせる毎日だ。


 それでもルーファスは守護者だ。ミズリの傍はルーファスのもので、ミズリを癒すのはルーファスの役目で誰かに譲る気はない。



 神聖樹の根元で眠るミズリは無防備だ。足を投げ出して背を幹に預けている。顎は少し上向きで前髪が横に流れていて可愛い額が見えている。


 神聖樹に呼ばれているような気がして、政務の合間にルーファスは抜け出して来ていた。


 ミズリの傍らに跪いてミズリの額に搔いている汗をそっと手で拭う。

 ミズリは深い眠りについているようだった。祈りの後で体力を消耗したのだろう。以前はこんな風に眠りこけるような事はなかったが、体の成長期には力が不安定になるのは珍しい事ではなかった。


 投げ出されたミズリの手を慎重に握り癒しの力を灌いで行く。

 以前は抱きしめて癒しを施していた。接触面積が大きければそれだけ早く癒せるのだが、今はそんな事は出来ない。

 力を灌がれてミズリの口元が微笑んだ。きゅっと絞られるような鷲掴みにされるような感覚に片手で心臓を抑えた。

 ミズリは嫌がっていない。意識がなくとも喜んでくれているようで、そんな些細な事に信じられないくらい幸福を感じてしまう。


 最近はまともに見られんかったミズリの顔を熱心に見つめた。

 少し疲れているのだろうか。頬の膨らみが足りないような気がする。そのせいでいつもより大人びた印象を受ける。

 少しだけ鼓動を速めながら、手の甲で優しくミズリの頬を撫でる。ミズリは一向に目を覚まさない。目を開けて欲しいような欲しくないような複雑な心境だった。


 バージルには直に戻ると言い置いて来たが、離れがたい。

 上着を脱いでミズリの足にかけると、ミズリの横に腰を落ち着けた。人の温もりがわかるのか、ミズリがルーファスの方へ寄りかかってきた。

 少し迷ってからミズリの体を横たえて頭がルーファスの膝にくるように調整する。ミズリの手は握って離さない。

 上を向いていたミズリは位置が落ち着かなかったのか、ルーファスの方を向いて横になった。ぐりぐりと頬を数回押し当てると満足したのか動かなくなった。


(ここは、天国だろうか………)

 少しだけルーファスは理性を飛ばしそうになった。馬鹿な己の思考に溜息を吐いて正気に返る。

 ルーファスの気もしらないでミズリは安らかな寝顔だ。スケッチブックを持ってくれば良かったと後悔する。

 ミズリの輪郭を辿る様に手を滑らせる。

 温かい。ミズリはいつだって温かい。ギュッと抱き締めていつまでもルーファスの腕の中に居て欲しい。

 茶色の髪の中から覗く可愛い耳。髪を流して露わにする。擽るように触れば嫌がって上を向いた。少しだけ開いた淡い色の唇。胸が体が熱くなる。


(キスがしたい)

 ミズリの唇に触れようとした指先を寸前で握り込む。衝動を逃がすために大きく息を付いてミズリから視線を剥がすために上を見上げた。さわさわと神聖樹の葉が揺れている。まるでルーファスを咎めているようだった。


 一番ミズリを穢しているのはルーファスだ。そしてそれを止められない。

 浅ましい欲望を誰よりも清らかなミズリに向ける罪悪感は思いの外強くルーファスを苛んだ。

 バージルなら馬鹿な事を言うなと言うだろう。夫婦になるのだ、穢す穢されるもあるものかと。バージルにはルーファスの葛藤はわかないだろう。


 ルーファスはこの世で最も尊ぶべきものは無償の愛だと思っている。例えば家族にむけるような愛。ただ相手に与える何の欲も含まない純粋な愛。

 幼い頃に感じたあの尊い気持ちと今のルーファスが抱くミズリのへのどうしょうもない欲は対極にある。その落差はルーファスを混乱させ、失望させる。


 誰よりも大事に慈しみたいミズリ。慈雨のような愛情だけをどうして注ぐ事ができないのだろう。ミズリが欲しくて堪らない。与えるよりも奪いたいのだ。無償の愛とは程遠い醜い思い。その上この獣じみた欲望は自戒をすればするほどに膨れ上がる。


 ルーファスは知っている。ミズリがルーファスに怯えているのを。きっと清らかなミズリはルーファスの醜い欲望を敏感に感じ取っているのだ。体は大人に近づいているが、俗世と隔離されたミズリの精神は幼く純粋だ。まだミズリの中に男女の情愛は育っていない。ミズリが求めているのは優しく温かい家族愛だ。


 ルーファスは焦れている。ミズリは唯一無二の相手だ。神にだって奪われない運命なのだから焦る必要はなく、ゆっくりとミズリの成長を待てばいい。そうわかっていても苦しい。

 ミズリがルーファスを慕う気持ちがあまりに純粋だからルーファスは苦しくて怖くなる。

 ルーファスの醜い欲をミズリが受け入れられなかったら?


 どんなに言聞かせても不安は無くならない。何度も夢に見た。ルーファスに穢されて、嫌悪と悲しみに崩れるミズリ。ミズリを手に入れて恍惚としながら、ミズリの信頼を失って絶望する自分。いつも絶望が待っているのに踏み止まる事が出来ない。

 ルーファスの欲にはきっと上限がない。ルーファスは自分を信用していない。だから、ミズリに触れるのは怖い。

 ルーファスのとった手段は褒められたものではなかったのだろう。

 

(ミズリを、傷つけている)

 納得したような顔をしていても、不自然に開いた距離はミズリを傷つけている。傷つけたくないと思って傷つけている。

(バージルに馬鹿だと言われるわけだ)

 情けなかった。それでも、気持ちを隠して完璧な家族を演じる自信はもうない。

(今だってこんなに苦しい。ミズリに触れたくてたまらない。同じ気持ちをミズリからも返して欲しいと願っている)

 家族という枠では到底我慢が出来ないのだ。

 ルーファスはミズリを傷つけているが守ってもいる。傍から見ればさぞ滑稽で愚かしく見えるのだろうと自嘲が零れた。




 眠るミズリは清らかそのものだ。ミズリに比べればルーファスは世界で一番醜い獣だ。その獣からミズリを守るのに手一杯で、ルーファスはミズリの変化を見逃す事になる。

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