1-12

 兇魔はどんな時間帯や場所でも現れるが、陽光は苦手なようだった。都合が良い事に今日は曇天だ。厚い雲が空を覆い、神殿の中も薄暗い。


 ミズリは初めて兇魔が訪れるのを待っていた。

 おかしなものだと思う。ミズリの人生の最後が兇魔の手に落ちる事なのだ。正気を疑われても仕方がないと思うが、ミズリは決断してしまった。


 決断した今もいつものように祈りを捧げている。ミズリの祈りはいつもシンプルだ。ただこの国の安寧を願い、結界を支え続ける者達に感謝を送る。

 ミズリのいないこの先の未来も長く続いてくれれば、空っぽなミズリの何かが満たされるのではないかと思えた。


 どれくらいの時間が過ぎただろう、いつの間にか人の気配を感じた。人が訪れる事の滅多にない神殿だ。ミズリの頭の中には兇魔しか思い浮かばない。結界に阻まれて気配が希薄な兇魔がこれ程に存在感を露わにするのは珍しく、不思議に思いつつもミズリはゆっくりと振り向いた。


 頭にフードを被った男の姿があった。距離もありフードの陰で男の顔は判然としない。男は無言のままゆっくりとミズリに向かって歩を進めた。


 ミズリは思わず後ろに下がった。誰何する声は出なかった。妙な迫力が男にはあった。

 ミズリが数歩後退すると男の歩みが止まった。首を傾げる仕草をした時、雷鳴が轟いた。直に強い光が一瞬当たりを照らす。静寂を破る雨音が響く。

 男は天窓を見上げた。その拍子にフードがずれて男の顔を露わにした。


 ミズリは目を瞠った。

 兇魔はいつもルーファスの色んな姿をとった。出会ったばかりの幼い姿だったり少年の姿だったり、凛々しい青年だったりと、ミズリが記憶しているルーファスの様々な姿を。

 目の前にいるルーファスはどのルーファスとも違った。

 

 目じりには少し皺がある。華やかだった金髪は今や白に近い。綺麗な青紫の瞳はそのままだが鋭さが増している。柔和だった口許は固く引き結ばれて厳めしい。体はミズリが最後に見た時より筋肉に覆われて大きいような気がした。どの記憶とも違ったが、これはルーファスだ。別れた後の年を重ねたミズリの知らないルーファス。


 ミズリは気分が重く沈むのを感じた。見たくなかったのだ。このルーファスは見たくなかった。最後に兇魔はミズリを動揺させる事に成功した。


 ミズリは立ち上がって兇魔に近づいて行った。兇魔の存在感は圧倒的だった。兇魔は瞬き一つせずに食い入るようにミズリを見つめる。一歩近づく毎に肌がざわめく。兇魔の尋常ではない存在感と緊張がミズリに伝わり、恐れを抱いた。


(恐れ?どうして………)

 ミズリには心がないのに、恐れを抱くのはおかしい。それとも惑わされたのだろうか、このルーファスに。まさかと思う自分もいるが、妙に落ち着かない。一刻も早くその擬態を解いて欲しかった。


 ミズリは初めて自分から兇魔に話しかけた。

「あなたには負けました。私の魂を差し上げます。好きにすればいい。」

 兇魔に向かって言霊が宿る誓約を口にした。これでミズリ自身でさえ違える事は出来なくなった。

 兇魔の瞳は驚愕に見開かれ、兇魔が意味を理解した途端にミズリの体が兇魔の腕の中に攫われた。

 ミズリの誓約が功を奏したのか、先日のように兇魔の腕は溶けなかった。熱い腕がしっかりとミズリの体に回っている。


 ミズリの視界は兇魔の胸元だ。拘束されて動けず、先程の言葉を守るようにミズリは抵抗をしなかった。大人しく頭を預けて瞳を閉じた。


 眩暈がするようなこの感覚はなんだろう。押し付けられた兇魔の体は熱く、冷えたミズリの心の芯を溶かすようだった。捕らえられた腕の中は何故だが泣きたい衝動をミズリに与える。それが堪らなかった。


「私をあげるから、その擬態を今すぐ解いて下さい。そのような真似は不要です」

「………ミズリ」

 体に響く深く昏い声だった。今までに聞いた事のない、幾重にも感情を抑えて重ねたような重い声。


 ミズリの胸がざわついた。ミズリを抱く腕に痛い程の力が篭る。押し付けられた胸元からは力強く早く打つ鼓動が聞こえる。人のように。


「えっ………」

 戸惑いが口をついて出た。密着する肌の感触や包まれる匂いまでもが急にミズリに迫って来る。体が、心が震えた。


「ミズリ」


 耳を犯すその声に失くした筈の心が悲鳴を上げた。息が出来ず視界がぶれる。そんな筈はない。何が起こっているのかわからない。


 男の手が震えるミズリの頬を包んで顔を上げさせた。二人の視線が絡む。男は仄暗く笑った。

「私のミズリ」

 魂を絡めとる執着に満ちた響きだった。ミズリは咄嗟に逃れようとした。だがそれを男は許さなかった。軽々と押さえつけ再びミズリをすっぽりと抱き込んで離さない。耳朶に唇が触れる程の近さで男は囁く。

「逃げては駄目だ。君は私にくれると言った。好きにしていいと」

 あまりの事にミズリは叫んだ。

「違うわ!」

「違わない」

「貴方に言ったんじゃないの!」

「私しかいなかった。ミズリが聖女でなくなっても言霊が宿れば誓約だ。ミズリはもう永遠に私のものだよ。神にも渡しはしない」

「そんなっ」

 反論しようとしたミズリを男が抱き上げた。咄嗟にミズリは男に縋りつく。

「何故こんなっ」


 ミズリには混乱しかない。気が遠くなりそうだった。だってこれはルーファスだ。兇魔ではない。ここにいる筈のない、一生会う筈のない本物のルーファスだった。


 ルーファスは自分の体にミズリを押し当てて、残酷な事実を告げた。

「王妃が死んだ。アリサが」

 暴れようとしたミズリの動きが止まった。恐る恐る顔を上げてルーファスの瞳を覗き込む。真実を知るために。

「嘘よ………。だってアリサ様は祝福された神子だもの。こんなに早く逝く筈がない」

「アリサは異世界人だった。我々とは時間の流れが違った。アリサの時間は我々よりも早く過ぎて、天寿を全うした」

 伏せられたルーファスの瞳には悲しみがあった。それが演技である筈がない。


 ルーファスの話が本当なら、この世界は最後までアリサにとって残酷だ。アリサから故郷と愛する者を奪い、最愛を与えておきながら同じ時間を生きられない。


 ミズリは顔色を失くした。

 ミズリのせいだ。アリサの人生を歪めた。ミズリが願わなければアリサの人生は違うものになった筈だ。この国が滅んでいたとしても、アリサは自分の幸福を願っていい人だった。


 死ぬのならミズリで良かった。聖女でなくなるその時に、ミズリの命をアリサに捧げれば良かったのだ。アリサは恨んで死んでいっただろうか。アリサを失ったルーファスがミズリを恨んで当然だ。

 ミズリは腑に落ちた。ルーファスがここを訪れた意味がわかった。


「わたしを気が済むように殺して下さい」

 ルーファスの腕から力が抜けた。地面に降ろされたミズリは両膝を床につけて両手を胸の前で組み、頭を垂れて首を差し出した。

 ルーファスの顔から表情が抜け落ちた。

「……そうやって、ミズリはまた私から逃げるのか?」

 冷淡な声は昏く沈んでいた。その奥底には怒りが潜んでいる。体を強張らせたままミズリは顔を上げた。

 ルーファスは断罪者のようにミズリを見下ろしている。

「あの頃もミズリは私から一生懸命逃げ回っていた」

「ルーファスには、アリサ様がいたから」

「アリサがこちらに召喚される前からミズリは私を拒絶した」


 拒絶したのはミズリから。都合よく忘れていたわけではない。ルーファスがミズリに過分な程心を砕いていた事も。たが、本当の運命を前にして、そんな事は問題ではなくなった。どんな思いでいようと、どんな思いがあったとしても運命でなかったミズリはルーファスにとって無意味な存在だ。


 ルーファスが何を言いたいのかわからなかった。


「ミズリは私の事などどうでも良かった?」

「違う!」

 どうでも良かったのはミズリではなく。

「そうだね。今なら私にもミズリの気持ちがわかる」

 ミズリの肩が揺れた。心もとない怯えた目でルーファスを見つめる。

 ルーファスは薄らと微笑んでいるような不思議な表情をしていた。

「ミズリは私を恐れていた。私に失望されるのが怖かった?責められると嫌われるとでも思った?」

 ミズリは答えられずに俯いた。空気が急に薄くなった気がして息が乱れた。

「そう、確かにそう思ってもいただろう。でも、一番恐れていたのはそんな事ではなかった」


 ミズリは溜まらず目を閉じる。それ以上暴かないで欲しかった。卑怯なミズリを暴かないで欲しい。けれど、ルーファスは容赦なかった。


「私が、邪魔だったんだ。だから、私から逃げ回った」


 ミズリの中にあの時の苦しい気持ちが一気に溢れ出る。国の滅亡を前にして己を殺した。

 ミズリにとって己とはルーファスだった。ミズリはルーファスを殺したも同然だった。


 ミズリにはそうする以外の方法がなかった。もしも、あの苦しい時にルーファスに会っていたら全てを投げ出して一緒に逃げて欲しいと縋っていたかもしれない。国の滅亡よりもルーファスとの未来を考えたかもしれない。アリサの運命だとわかっていても、ルーファスを諦めなかったかもしれない。ルーファスに請われていれば聖女である自分を捨てていた。


 ミズリがしてはならない選択をしないためにルーファスを避けていた。わかっている。ルーファスの気持ちを考えていない身勝手で臆病な選択だった。


 ――――でも、ミズリはルーファスの運命じゃなかった。


 この残酷な事実が、ミズリの葛藤も罪悪感も全て覆いつくした。


 噛みしめた唇にルーファスの指が触れた。跪いたルーファスはミズリの頬を包み込んだ。ルーファスの表情からは感情が抜け落ちていて心情が見えない。

「ミズリ、君はどこまでも聖女として正しかった」

 ミズリはただ息を飲んだ。


 恐れていた事はまだあった。ミズリは卑怯で醜いから、ルーファスとアリサを祝福する事は出来てもルーファスからだけは聞きたくない言葉があった。ミズリの言動を肯定する言葉、本当の運命と出会えた事への感謝。勝手だと言われてもきっとあの頃のミズリには耐えられなかっただろう。


 苦しかった。醜く歪んでいく顔を隠したくて身を捩るミズリをルーファスは許さなかった。

 大きな手はミズリを掴んで離さず、ミズリの目を覗き込む青紫の瞳は深淵のようだった。


「私はアリサを愛したよ。最後まで彼女は幸せだったと言ってくれた」

 ルーファスはミズリから少しも目をそらさずにアリサへの愛を語る。


 ミズリは微動だにせずその言葉を受け止めた。それを望んだのはミズリだった。アリサの幸せを願った。心は切り裂かれて鮮血を流し続けても。


 ルーファスの瞳には必死に苦痛に耐えるミズリの姿が映っている。昏く恍惚とした熱が灯る。

「運命に逆らわず、ちゃんとアリサを愛した。―――ミズリを忘れて、ミズリの願い通りに」

 

 ミズリの息が止まる。

 ルーファスは運命を失って気が触れたのだと思った。そうでなければ、ミズリは信じられないものを見ていた。ルーファスの瞳には兇魔と同じ、否、それ以上の狂おしい執着がある。それは運命であるアリサに向けられたものではなく、彼の目の前いる。


 ルーファスの指が優しくミズリの唇を擦り首筋を撫でてミズリの激しく脈打つ鼓動を確かめて、肩や腕をなぞりミズリの手を握り締める。額と額を触れ合わせて、見つめ合う。

 激しく動揺するミズリにルーファスは陰惨としながらも凄艶な笑みを浮かべた。青紫の瞳はミズリだけを映して狂気めいた喜悦が滲む。


「だから、もういいだろう?わたしはもう王ではない。王族である事も辞めた。ミズリも聖女ではない。だから、もういいだろう?」


 こんなルーファスをミズリは知らない。穏やかで優しいルーファスしか知らない。

 ルーファスの瞳には底のない昏い闇があった。それはルーファスの心の悲鳴だ。ミズリが欲しいと慟哭している。


 ミズリの心も体も震えている。何故自分が震えているのかわからない。ただルーファスだけを一心に見つめ続けた。


  ミズリは全てを受け入れて生きて来た。国の安寧のためなら、ミズリの払う犠牲は問題にはならないと思っていた。ミズリだけの犠牲だった筈だ。


 ミズリだけではなかったのだろうか?

 本当の運命に廻り会えて、真の幸せを与えれられたのではなかったのか。

 ミズリの救いはルーファスが幸せになる事だった。絶望と諦観の中でもルーファスが運命と幸せになる事が慰めだったのに。


 ルーファスがミズリを誰にも奪われまいと深く抱き込む。隙間なく触れ合う体から狂おしい思いが流れて来る。背に回る腕の力は痛い程で、ミズリと同じように震えている。

 ミズリの耳朶に触れるルーファスの唇。


「ミズリは私のもので、私はミズリのものだ」


 泣いていたのはミズリだろうか?ルーファスだろうか?

 苦しんでいたのは。傷ついていたのは。絶望にのたうち回ったのは。悲鳴をあげ続けていたのは。心を失くしたのは。 


 天窓から光が差し込み、抱き合う二人を照らした。王でもなく守護者でもなく、聖女でもない、何も肩書を持たない二人を。


 静寂の中でルーファスの声だけが響く。ミズリの心に深く響く。



「どうでもいいんだ。運命なんか。ミズリがいれば。二人であれば」






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