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 五年毎にミズリの着任地は変わっていった。


 ある程度の時が過ぎると、ミズリを中央へ戻す話が出てきたが、全てミズリは断り、より僻地のあまり神官が配属されない神殿を希望した。


 結界の範囲はその時の聖女の力によって左右される。アリサへと代替わりを終えてから結界の範囲は広がり国土は拡大し、初代聖女が張っていた範囲にまで広がりを見せている。

 結界外へと押しやられていた神殿がいくつも発掘されている。いくつかは重要拠点となる可能性のある神殿である。そういう神殿がミズリの着任地に選ばれた。


 ミズリの生活は平坦で静かだった。何にも心を乱されず祈りを捧げる日々はミズリから徐々に心を奪っていった。



 人里離れた森深い中にある神殿で日々凪いだ心で祈りを捧げる日々。そんなある日、ミズリを惑わす声が聞こえるようになった。

 滅多に訪れる人もいない神殿だ。訪れる人間は物資を定期的に持って来てくれる神殿と関係のある実直で無口な初老の男性で、悪戯は考えられない。


 始めは歌声のように聞こえた。徐々に耳に馴染み意味がわかるようになった。


『可哀そうに。貴方はこんなところにたった一人。神は何もしてくれない。私が貴女を救ってあげる』


 ひどく美しく魅力に溢れた声だった。声を聞いただけでその姿を一目だけでも見たくなる。いつまでも頭に残る声だった。

 人ではない。人の声はこれ程甘く響いたりはしない。神殿の教えにあるこの存在にミズリが遭遇するのは初めてだ。神の寵愛を受けていたにも関わらず神の教えに背を向けて、人を惑わし堕落させ魂を奪う。神と対極にある存在、兇魔だ。


 本来聖女の力は魔を寄せ付けない。結界に守られて、兇魔は立ち入れないと教えられている。だが、ここは国の一番端に位置する。神聖樹の根もそれ程張っていないため結界が薄い地域だからだろう。


 兇魔はとりわけ聖女の魂を好む。聖女が死を迎えると兇魔は聖女の魂を求めて現れると言われているが、聖女の魂を手に入れた兇魔はいない。必ず、守護者によって阻まれる。聖女の魂は守護者に守られて神の元へ帰るのだ。


 ミズリは聖女ではない。兇魔が好むような清純な魂を持ち合わせてはいない。


 間抜けな兇魔もいたものである。

 聖女でもなく、守ってくれる守護者がいるわけでもないミズリに対して、姿も見せず話かけて来るだけ。それ以上に何が出来るわけでもないようだと判断してミズリはすぐに興味を失い、神殿への報告も怠った。


 兇魔の甘言は飽く事なく続いた。


『神は何をしてくれた?神は貴方から奪うだけ。私はいくらでも与えよう。愛も快楽も望むだけ貴方に注いであげる。私の愛に溺れる貴方はどれ程美しいだろう』


 声は段々と力強くなる。やがて、その声に相応しい姿を露わにした。男とも女とも見紛う白皙の美貌。血のように赤い唇。欲を湛え淫靡に輝く黄金の瞳。背を流れる艶やかな赤い髪。しなやかで均整の取れた肢体。退廃した美を纏う圧倒的な存在。


 人は彼の姿を一目見ただけで狂う。ひれ伏し愛を乞いその体を開く。だが、ミズリは一瞥しただけで兇魔の存在を無視した。

 どれ程の誘惑もミズリの心が動かないと知った兇魔は面白がり次の手段を講じた。



『ミズリ』


 ミズリが一番親しんだ声で、ミズリが一番大好きだった姿で兇魔は現れた。

 唖然とするミズリにルーファスが微笑みかけている。


 ミズリの感情の揺れを兇魔は見逃さなかった。兇魔は毎日ルーファスの姿で現れ愛を囁くようになった。

 ミズリが返せるものは沈黙しかない。

 ミズリの反応を引き出すため、やがて兇魔の言葉には愛以外が混じるようになる。


『どうして私を頼ってくれなかった?君を愛していたのに』

『私が君を裏切ったんじゃない。ミズリが私をアリサに差し出したんだ』

『ミズリは私を愛していなかったのだろう?だから平気で婚約解消が出来た。誰よりも酷いのは君だ』

『ミズリを愛した事なんかないよ。君との婚姻は王族としての義務でしかなかったんだ』

『アリサこそが私の運命だ。アリサを愛している』

『君には感謝している。アリサを連れて来てくれた。本当の運命に出会わせてくれた。アリサさえいれば私は幸せだ。君の事なんてどうでもいい』

『初めて会った時から君は愛らしかった。私は一目で恋に落ちた』

『アリサとの愛は神に定められた偽りだ。本当は君だけを愛している』

『ミズリ』

『私のミズリ。君は私だけのもの』


 兇魔はミズリを堕落させるためにあの手この手と必死だった。ミズリの心を弱らそうとルーファスの姿を纏う。


 なんて愚かなのだろう。ミズリの心には何も響かない。最初からどれ程完璧なルーファスの姿を見てもミズリは何も感じなかった。心を失うとはこういう事なのだろう。傷つく事、嫉妬する事、悲しむ事もない。

 苦悩のない今がミズリにとっては一番幸福なのだ。幸福の中にいる人間は堕落しない。何を言われても見せられても甘言に惑わない。

 いい加減悟ればいいものを。呆れるばかりだったが、実害が出ない限り所詮それもミズリにとってはどうでもいい事だった。




 人里離れた辺境の神殿で、この兇魔との奇妙な生活はどれ程の月日が流れただろうか。ある時、焦れた兇魔がミズリに触れようとした。今までにない事だ。


『ミズリは、私のものだ。君を魅了するなど簡単な事だ。私を一度でも味わえば』

 ルーファスの顔でルーファスなら絶対にしない凶悪な顔で笑う。ミズリの眉が微かに顰められる。

 ミズリの不愉快そうな顔を見て兇魔は喜々として手を伸ばした。

 ミズリに触れる直前に熱が弾けた。白く昇る水蒸気と血肉を焼く匂い。

 何が起きたのかミズリには理解出来ない。ミズリは無傷なままだった。

 兇魔は苦痛に顔を歪め溶けた腕を抱えるようにしてミズリを見た。ルーファスがアリサに向けていた瞳だ。アリサが欲しくて堪らないと訴えていた。今度は無事な方の手を伸ばしてくる。やはりミズリに触れる事は叶わずに溶けて消えた。


 充満する異様な匂い。兇魔は悪態をつきルーファスの姿から本来の姿へと変わる。その黄金の瞳から狂おしい色が消えうせる事はない。

 両腕を失った兇魔の姿が徐々に溶かし消えるまでミズリは微動だにしなかった。消える寸前まで兇魔はミズリを焦がれる瞳で見ていた。


 ミズリは自分の体を見下ろした。聖女の力はとうの昔に失った。神経を研ぎ澄ましても神力の欠片も感じ取る事は出来ない。今のミズリはただの人だ。ただの人間に魔を撃退する力はない。


 長年不思議に思っていた。特に知りたいわけではなかったため確認していなかった。神殿はミズリに随分と自由を許している。監視を置くでもなくミズリを希望の神殿に送り出す。干渉が一切ないのはミズリの安全の観点からも奇妙な事なのだ。


(守られている?)

 アリサの力か、神聖樹の意志か何なのかわからない。自分の体に触れても違和感を感じない。兇魔がいなければ気が付く事さえなかっただろう。

 ミズリはそれを有難いと思うべきなのだろうが煩わしいと感じた。聖女ではないミズリに守りは必要ない。どういう意図で行われたにせよ、解放されたいと思った。

(聖女だった過去から解放されたい)




 魂への執着なのか、痛い目にあっても兇魔は懲りずに現れる。ミズリに触れて来る事は2度としなかったが、時折憎々し気にミズリを、恐らくミズリを守る“何か”を見ている。


 時折、ミズリは首を傾げたくなる。それほどミズリの魂が欲しいものなのだろうか?この出来損ないの魂を?


 ミズリには魂を見極める能力を持ち合わせてはいない。それでも自分の魂に価値があるとは思えない。

 ミズリ程度の魂に執着しなければならない程飢えているのだろうか。ミズリはこの兇魔が憐れに思えて来た。同時に自分の欲求に忠実なその姿には感心もした。


 ミズリには執着がない。それは自分の魂であっても命であってもそうだった。自分を惜しむ理由がどこにも見つからない。だから、そんな気になった。そんなにも欲しいのならミズリをあげてもいい気がした。


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