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 ミズリが神官になって四年目の冬だった。

 ソニアが体調を崩した。いつまでも若いつもりでいたが、年には勝てないとソニアは笑っていた。ただの風邪だと思っている内に病状が悪化し、珍しく雪が降り積もった冷え込む朝に静かに息を引き取った。

 

 ソニアの眠る顔は微笑んでいるように見えた。苦痛を感じずに穏やかに逝けたのだろうと医師が慰めるように言った。

 ミズリにとって近しい者の死は初めてだった。人は永遠ではいられない。その現実に頬を打たれる。死は呆気なく、圧倒的だった。


『ミズリ様、人には決められた寿命があるんですよ。中には理不尽に寿命半ばで奪われる者もおりますが、私は精一杯生きた良い例です。そんな者には悲しんではいけません。むしろ、褒めて下さい。ここまで良く生きましたと。えらかったと労って下さい。これはお別れではなく、旅立ちです。笑顔で送り出して下さいね。また出会えるように』


 ソニアのその言葉のように涙よりも笑顔が多い葬儀になった。全ての村民がソニアの元に訪れた。ソニアの傍らに付き添うミズリにソニアとの思い出を語って行く。ミズリが来てからソニアは本当に楽しそうだったと言われ幾人もの人にお礼を言われた。人々の温かい言葉は途切れる事無く、ソニアに悲しみに暮れるミズリに灌がれた。





 ソニアの葬儀を終えて落ち着きを取り戻したある日、ミズリはソニアの家に来ていた。家の整理とソニアの形見を貰い受けるためだ。


 ソニアはミズリが赴任して来てからは、ミズリを心配してほとんど神殿で生活をするようになっていた。ソニアには身寄りが無くミズリと同居生活を反対する者もいない身軽な身分だった。五十代で夫と死別し、息子夫婦と孫を事故で亡くしてからは一人だと語っていた。


 初めて入るソニアの家はこぢんまりとして、綺麗に整頓されていた。主のいない部屋はどこか物悲しい。必要最低限の家具と日用品が置いてある。余計なものがあまりない。


 好きな物をミズリに持っていて欲しいと言われていた。


 装飾のない中で壁に飾られた三枚の絵が目に飛び込んで来た。

 若い頃のソニアと思われる女性と気難し気な顔をした男性が着飾って寄り添っている。その隣にはソニアによく似た少年を真ん中に三人で描かれた絵がある。また、成長した少年と優しそうな女性との絵もあった。

 ソニアの家族だ。ミズリは良く彼らの話を聞いていた。


(旦那さんのワンダさんと息子さんのアルベルトさん。それに息子さんのお嫁さんで、スウエンさんだわ)


 スウエンに何となく既視感を感じた。ミズリと同じ栗色の髪と若草色の瞳だからだろうか?


 もう一枚絵があった。それは壁ではなく棚の上に立てかけられていた。

 立派な額に入ったとても精緻に描かれた絵だ。この絵だけ画家の力量が違うのがわかる。

 小さな女の子の絵だ。抱っこを強請る様に腕を広げて頬を上気させて愛らしく笑っている。あちこち跳ねている栗色の髪と若草色の瞳、先程の女性と同じ色彩を纏う女の子。鼻の上にそばかすが散っている。ミズリのように。


「………わたし?」


 ミズリは混乱した。ミズリに家族はいないとされていた。

 神殿に入ると共に聖女は家族との縁を切られる決まりだ。聖女には家族の情報は一切開示されない。家族も同様に聖女になった娘には二度と接触出来ない。非情とも思われるが、これは聖女と聖女を輩出した家系をあらゆる害悪や権力から守るための処置だった。


 ミズリは自分の本当の家族を探そうと思った事がなかった。ミズリの存在は聖女であっても無くても普通の家族には負担にしかならないだろうと考える事すら避けていた。


 ソニアはミズリにとても親身だった。本当の孫だと言ってくれた。一緒に居られて嬉しいと。

 ミズリはソニアに何を言っただろう。何が出来ていただろう。ソニアに同じだけの愛と感謝を返せていただろうか。知っていたらもっと、何かもっとソニアのために出来る事があったかもしれない。本当の祖母と孫のようにではなく、祖母と孫としてもっと二人で。


 瞼にはにこにこと笑っているソニアしか思い出せない。彼女は人生を愛していた。自分を覚えていない孫との生活を心から楽しんでいた。

 ぽろぽろと幾つもの涙が零れた。零れた涙の分だけソニアとの思い出が浮かぶ。


 いつだったのか、ソニアが言っていた事がある。

『どんなに深い悲しみもいつかは癒えるものです。そうすると後は幸せな思い出だけが残るんですよ。だから私は彼らの事を良く思い出すし、沢山お話もするんです。』


 その言葉通りにソニアは沢山の話をミズリにしてくれた。ミズリに家族を紹介してくれていた。


 ミズリは絵を壁から一つ一つ外していった。

「初めまして、気難し屋のおじい様。頑固な処に手を焼いたっておばあ様が仰っていましたよ。でも、おばあ様を大事にしてくれていたって。おじい様の不器用な優しさがおばあ様を射止めたのですね」

 次に若い夫婦の絵を手に取る。

「初めまして、お父様。おばあ様はずっと心配していましたよ。お父様は少し短慮な処があるって。でもお母様と出会って変わられたのですね。お母様の説得でおばあ様と連絡がとれたと聞きましたよ」

 ミズリはふっと一息つくと椅子に腰かけた。

「初めまして、お母様。わたしを産んで下さってありがとうございます。わたしの髪と瞳はお母様譲りだったのですね。お揃いで嬉しいです。いつもお母様の色を見ていたんですね」


 ミズリの大切な家族だ。ソニアが語った家族の話が自分の体験のようにミズリの中で息づく。彼らの中にミズリの欠片があるようにミズリの中に彼らの欠片がある。

 ミズリはいつまでも絵を見ていた。



 夕焼けが部屋を染める頃ミズリはようやく立ち上がった。長い夢から醒めたように瞬きを繰り返す。胸が一杯で今日は何も出来そうになかった。名残惜しいが帰ろうと部屋の中を見渡していると棚の中にスケッチブックが何冊もあるのを発見した。


 鼓動が跳ねて目が吸い寄せられる。スケッチブックならどこにでもある。見覚えがあると思うのは珍しくない。言い聞かせても胸の鼓動は速まるばかり。



 ルーファスは時間がある時はよくミズリの絵を描いた。特別上手くないのに飽きもせずに。ミズリにはあまり見せてくれなかった、あのスケッチブックはどこへ行ったのだろう?


 これ以上は知らない方がいいと知りたくないと心は警鐘を発している。

 きっと後悔する。わかっているのに我慢出来なかった。勝手に体が動く。震える手で色褪せた一番古そうなスケッチブックを手にした。


 もしかしたら、ソニアは絵を描くのが趣味かもしれない。ミズリが知らないだけで。この中にはソニアの絵がある。新たなソニアの一面に触れて微笑ましく思うだけで今日が終わる。


 恐れを抱きながらスケッチブックを開いた。


「………ああっ」

 思わずうめき声が漏れた。

 下手な絵だった。線があちこち暴れて辛うじて小さな女の子だとわかる。小さな子供が描いただろう絵。


『こんなのミズリじゃないよ?』

 子供の無邪気さでそう言ったらルーファスは拗ねてしまって、ミズリにあまり絵を見せてくれなくなった。ずっとミズリを描き続けていたルーファス。


 何冊も何冊も同じ女の子だけを愚直に描いている。絵の中の女の子が成長するにつれ絵も上手くなって行く。

 日常の何気ない絵だ。拗ねたり、怒ったり、照れたり、満面の笑顔。近しい人にしか見せない自然な表情。絵の才能は問題ではない。そういう何気ない様子を大切に丁寧に描いているのがわかる。描き手の気持ちが伝わってくる絵だった。


 絵の中の女の子はいつも一人だ。でも、ミズリは知っている。女の子視線の先にはいつも大好きな人がいる。信頼と愛情が小さな体一杯に溢れていた。


 ミズリにはルーファスの気持ちが分かった。

 聖女になれば家族を失う。どんな接触も許されない。成人するまでミズリが公の場に出る事も出来ない。ルーファスが考えたのだろう苦肉の策だ。一人残されたソニアのために、ミズリのために出来る事を考えた。


 ミズリの胸の一番奥に、誰にも暴かれないように隠した柔く脆い心が剝き出しにされる。

 痛かった。その絵はとても痛い。


 気が付けば、スケッチブックがミズリの周りに散乱している。それは思い出の欠片だ。何気ない日常だった、泣きたいくらい懐かしい、二度と戻らない慕わしく恋しいミズリの宝物。


 失いたくなかった。叶うならずっと抱き締めて離さないでいたかった。

 ミズリは胸を押さえて蹲る。無数の欠片がミズリの心を刺し貫く。


 ルーファスはミズリの全てだった。全てだったミズリはなんて幸せそうに笑っているのだろう。これから起こる未来を知らず無邪気に無防備に全ての心をルーファスに捧げている。


 どうしてと思う。どうして今更それを見せつけるのかと。

 ミズリは正しい事をした。ミズリは聖女だった。聖女として出来る事をしたのだ。後悔はしていない。充分だったのだ。


 ―――ミズリはルーファスの運命じゃない。


 わかっている。だから、全てをちゃんと受け入れて諦めたではないか。ルーファスの愛はアリサのもので、ミズリは求めても思ってもいけない。笑顔で二人を祝福したではないか。


(どうして、今更思い知る事になるの)


 優しい人々に囲まれて、友人も出来た。本当の家族だって知る事が出来た。ミズリは上手に生きていける。そう思っていたのに。


(何も代わりにはならない)


 これから先出会うどれ程の幸福も、あの幸福な日々には代えられない。ルーファスの代りにはなれない。あの愛しい日々は零れ落ちて二度と戻らない。


 ミズリは何度も何度も絶望を思い知るのだろう。

 今更見たくなかった。

 痛かった。痛くて辛かった。心も体も辛くて辛くて辛くて、こんなに辛いならいらないと思った。



 ―――心などいらない。


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