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 ルーファスとアリサの噂は瞬く間に広まっていったが、ルーファスとミズリの事を口にする者はほとんどいなかった。


 ルーファスとミズリの婚約解消はアリサと出会う前の話であり、ミズリの強い希望もあって二人の関係はアリサに秘される事となった。神殿からは異を唱える声は出なかった。神殿関係者の聖女に対する崇拝と結束は強く、ミズリの意向とアリサの安寧を優先した結果である。


 国民への説明は左程難しい話ではなかった。これは聖女が成人まで表舞台に顔はおろか名前さえも秘匿される仕来たりが幸いした。

 ルーファスが聖女の守護者である事は広く知られた事実で、これは覆しようがない。そこで付け加えられた真実が発表された。


 当代聖女は神子が異界を渡るまでの間、神が遣わした使徒であり、神子召喚の功労者である事。歴代の聖女とは異なり聖女の力は神子召喚と共に消え、守護者を持たなかった事。ルーファスの運命は真の聖女である異界から召喚された神子であった事実。

 これらは熱狂的に人々に受け入れられた。


 時の人となったアリサは神殿に手厚く保護されて、世の喧騒と切り離されて穏やかに過ごしている。

 突然の異世界召喚と自分の世界からの別離、課せられた役割に戸惑い不安定になっていた精神もルーファスとの出会いにより安定するようになった。


 アリサの目下の課題は力の調整である。アリサの神力は巨大でコントロールが難しい。一度祈り場に連れ立った時にあまりに大量の力を一度に神聖樹に灌ごうとしてはじき出された。アリサには蛇口がない状態なのだ。力の調整を覚えなければ聖女の役目は果たせない。今はその調整をルーファスに支えられながら覚えている。


 守護者を得た聖女にミズリは必要ない。聖女のお世話もミズリの仕事ではなく、本職の神官へと引き継がれた。

 まだ聖女の力を失っていないミズリはアリサに代わって祈りを行う日々に戻った。





 祈りを終えて、その日もミズリは神聖樹の根元で気を失っていた。温かい水の中を漂うような癒しの力を全身に感じて意識がゆっくり浮上する。


 いつも目を開ける瞬間を恐れている。もう慣れてもいい頃なのに、いつまで小さな期待を抱き失望を繰り返す。己の懲りない愚かさが嫌で、目を開ける前に口を開く。

「バージル様」

 ミズリの額にあった大きな手が離れるのを確認してミズリは目を開けた。

 そこには思い描いたとおりの見事な銀髪を一つにまとめ鋭い銀色の瞳をした青年が少し厳めしい顔をしてミズリを見下ろしている。

「まだ起きるな。顔色が戻ってないぞ」

 素っ気無く言いながらも遠慮を知らぬ手がミズリの額を押し、起き上がろうとするのを阻止する。

 ミズリは吐息を零して体の力を抜いた。大きな手がミズリの頭を撫でてまた額に戻る。


 バージルが気安いのはルーファスが子供の時はお目付け役として、成人してからは片腕としてルーファスの傍にいて、小さい頃からミズリの面倒も見てくれていたからだ。ミズリにとっては兄のような存在だった。

 ルーファスが成長するにつれて会う頻度が減り、ミズリがルーファスを避けるようになればバージルとも疎遠になって行った。神子との顔合わせが久しぶりの再会であったのだが、バージルの身分を気にしない、乱雑ともとれる態度は昔と少しも変わっていなかった。


 神聖樹の許しがなければ守護者であるルーファスでさえ勝手には入れない禁域に、バージルがいるのは神聖樹に招かれたからだろう。彼には王族の血が流れていて、聖女を癒す守護者の能力にも恵まれている。もう何度もこうしてバージルに癒して貰っていた。


 バージルには申し訳ないと思う。祈りには気力と体力を消耗するが、必ずしも癒しが必要なわけではなかった。時間さえかければそのうち回復するのをわかっているのに、神聖樹が招いてしまう。


 バージルとて忙しい身だ。ルーファスがアリサに時間を割いているので余計にバージルの負担は増えている。ルーファスに用事があって神殿を訪れれば、こうやってミズリの面倒まで見させられる。


 放置でかまわないと言ったら、凄まれた。彼は一見冷たそうなその外面からは想像も出来ない程に面倒見が良く情に厚い。昔から変わらないその性質が嬉しい。ミズリは子供の頃彼の伸ばした銀髪をよく引っ張り遊んだのを思い出してくすりと笑った。


「何がおかしいんだ?」

 目ざとくミズリが笑ったのを見てバージルは不思議そうだ。

「バージル様の頭が剥げなくて良かったと」

「ん?」

 バージルが自分の髪に手をやって破顔した。


 昔の事をバージルも思い出した。神官は髪を長く伸ばさないので、ミズリにとって長いバージルの髪が珍しかったのだ。引っ張るし三つ編みにもするし、花で飾りつける事もした。剥げたらミズリが責任を取ってミズリの茶色の髪で鬘を作る約束をしていた。


「責任を取らずに済んでよかったな」

 軽口を叩く間もバージルはミズリに力をそそぐのを止めない。


 ミズリは心地の良い力に身を委ねながら、不思議な気がした。ルーファス以外の人に癒される日が来るとは思ってもいなかった。想像もしていなかった現実を受け入れている事がとても不思議だった。


「バージル様、もう大丈夫です。ありがとうございます」

 今度は止められず起き上がれた。それから暫く二人で神聖樹が作る木漏れ日を見ていた。風が揺らす枝の音や鳥の囀りが心地良く緩慢で平和な時間が流れて行く。



 バージルがおもむろに呟いた。

「随分と育ったな」

 バージルの視線は神聖樹の周りで群れをなしている植物に向けられている。ミズリの膝丈くらいある植物は主軸の茎が長く伸び、そこからいくつもの柄が出て柄の先に蕾をつけている。

「そうですね。蕾も大きくなりました」

 そう言ってミズリは微笑んだ。


 神からの贈り物である神花だ。

 聖女は成人までの間は神殿で隠されて育ち、成人すると世間に正式に披露される。同時に守護者と婚姻を結ぶので2重の慶事である。この慶事の際に神は、聖女のために祝福を送る。それがこの神花だった。


 最初の一株は神聖樹の祈りの場に生える。それを聖女が摘むと、神花は聖女の手の中で花弁を散らし、子房を成熟させて沢山の種に変わる。

 種は各地の神殿に送られ栽培される。神花を育てるのは土や水、太陽ではなく、聖女を祝福する民の心である。大切に育てられた神花は婚姻の日に花開く。


 この神花には特別な効能があった。花弁が散る時に芳香を放ち、場を浄化する。浄化の際にはちょっとした怪我や病気なら治癒したり、人の心の陰りを払うので、各家や道路はもちろん国中に飾られるのだ。


 神花の花弁の色は毎回異なる。一説には聖女の魂の色だと言われるが、真偽を知る者はいない。アリサの神花は幾重にも重なる花弁は白だが、中心にある花弁が薄紅色をしている可憐な花だ。単色ではない神花は珍しい。それも規格外であるアリサには相応しかった。


「婚姻式の日取りが正式に決まった」

 バージルは冷静を心掛けていたが、やや硬い口調になった。今日バージルがここへ来たのはこれを伝えるためだった。


 幼い頃からミズリとルーファスを知るバージルにも思うところはある。ただバージルの立場からは心のままに無責任な発言は出来ない。


「そうですか」

 ミズリは小さく頷くだけだった。素っ気無く聞こえただろうか、バージルの瞳が陰った。

 バージルが心配してくれているのもミズリのために心を痛めている事もわかっている。けれど、ミズリの心は穏やかだった。

「………還俗する気は、やはり無いか?」

 ミズリは少しだけ眉を下げて困った顔をした。この話は何度もされている。バージルだけではなく、神官長達からも説得を受けたが、ミズリの答えは変わらない。

「これは、わたしの我儘です。外の世界を見てみたい。聖女のままでは一生知る事のなかった世界が知りたいのです」


 神殿は聖女を守るためのものであると同時に檻でもある。安全な神殿の中で外の世界を夢想する日がなかったとは言えない。罪深い願いを口に出さない分別がミズリにあっただけだ。


 本来のミズリは好奇心旺盛だ。一人でも無防備に突き進むような処があった。そのせいで転びそうになればルーファスが支えていた。ルーファスがいれば何も心配することなどなかったのだ。


「世界か。還俗しても見れると思うぞ」

「王族の末席では、そう違いはないでしょう」

 バージルはしかめっ面をした。


 聖女でなくなるミズリへの対応は前例がないだけに慎重にならざるえず、そんな中でミズリの処遇には二つの選択肢が用意された。このまま神官として神殿に留まるか、王族との婚姻を条件に還俗するか。


 ミズリの本来の身分は平民だ。ミズリの情報は殆ど秘匿されているとは言え、このままただの平民に戻るのは安全面を含め問題が多いと判断された。

 アリサという神子を得た今、ミズリは聖女としての役割は終えている。ルーファスがミズリの守護者でなかった事は衝撃をもたらしたが、ミズリが守護者を持たない聖女であったのか、真の守護者がいたのかは追及されていない。他ならないミズリがそれを望まなかった。


 王族との婚姻は、ミズリの守護者が見つかる可能性を考えての事だ。

 ミズリは誰にとっても一番いい方を選んだつもりだが、バージルには違ったようだ。

 バージルはミズリにも幸せになる権利があると思っている。ミズリは運命に出会えるかもしれない。それでなくても王族は聖女との親和性が高く、大事に愛されるだろう。ようやく十六歳を迎えて成人したばかりの、これからの長い人生を神官として生きるのは不憫でならないのだろう。しまいにはバージルとミズリの偽装結婚を画策しそうな勢いだった。


 バージルは勘違いしている。ミズリはもう充分だった。


 神花が風に揺れている。蕾は膨らんで花開く日を待っている。神花が町中を飾る光景は圧巻だろう。雪のように白い花弁と優しい薄紅色の花弁が祝福のように舞う様は。

 ミズリはアリサが神花を手折った時の事を思い出した。神花の種を大切に包み込んでアリサは泣いたのだ。


『私、本当に、ここにいても、いいんだね』


 ルーファスを得て、アリサは安定したと思っていた。それでも異世界から来たアリサには拭いきれない憂いがあった。その最後の憂いを神花が吹き飛ばした。

 ミズリは自分の役割が終わった事を知った。


 ミズリの願いは叶った。これ以上の幸福を望むのは僭越だ。二人の結婚を見届けたら、ミズリは王都を離れて地方の神殿に身を寄せる予定だ。

 もう何も心配する事はない。聖女としてミズリが出来る最善を尽くした。


 神はミズリの願い通りに光を与えてくれた。ミズリに代わってアリサがこの国を守ってくれる。犠牲になったアリサはルーファスが誰よりも幸せにしてくれるだろう。ルーファスは本当の運命の相手と廻り会えた。

 人智の及ばない神の采配は上手く出来ている。もう充分だった。




 婚姻式の日は見事な快晴だった。空の澄んだ青に神聖樹の青葉が映えて美しかった。幸福に包まれた二人は太陽よりも眩しく輝いていた。


 歓喜と共に迎えられたアリサはルーファスに支えられ聖女であり将来の王妃になった。

 ミズリはこの日聖女の称号を外れ一神官となった。あまりにも短い在位と成人までは民衆の前に姿を見せない仕来たりのため、人々の記憶には残らない聖女だった。


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