1-6

 あれからアリサは必要最低限しか部屋から出て来ない。ミズリの希望でアリサの世話はミズリ自身が請け負った。祈りの時間以外の全てをアリサに捧げたが、アリサが心を開く様子はなく、この世界を静かに拒絶していた。


 泣き喚くわけでもなく怒り狂うわけでもない。アリサはほとんど口を開かず日中ぼんやりと過ごす。夜中魘される事もあれば泣き出す事もある。

 ミズリはアリサの部屋の扉に背を預けてそれを聞いている。その場から離れられず、かといって慰める言葉も見つけられず、一晩中立ち尽くす事も一度や二度ではなかった。


 突然人生を奪われたならどういう気持ちになるのだろうか。


 アリサのすすり泣く声を聞きながらミズリは思う。

 例えば病気や事故。人生を奪われる可能性は誰にでもあるがアリサの状況は極めて特殊だ。基盤となる世界から切り離されて二度と帰れない恐怖。元の世界への愛郷の念や愛着は諦めきれるものではないだろう。

 アリサが築いてきた人生がこの国の滅亡より軽いとはとても言えない。

 

 アリサには元の世界に沢山の愛する人がいたのだろう。人の抱く愛情に違いがないのなら、ミズリにも想像出来る事はある。


 アリサは恋人がいると言っていた。家族も友人も。アリサの真っ直ぐな目を見れば、アリサがとても愛し愛されていたのだろう事はわかる。

 アリサの愛する人達は消息不明になったアリサをどう思うだろう。今頃アリサを心配して探しているだろうか。突然愛する人を奪われて平気な人がいるのだろうか。アリサを奪われた人達の人生が、その後も安穏と続いて行くだろうか。

 アリサだけではない。ミズリが人生を奪ってしまったのはアリサだけじゃなく、アリサを愛している人の人生も奪ってしまったのだ。


 息が出来ない。冷えていくばかりの体を抱えて途方に暮れる。罪が重すぎて償う方法がわからなかった。





 食事の乗ったトレーを見てミズリは立ち尽くした。

 食事は出された時のまま一つも手をつけられていなかった。アリサはもともとそうなのか、食欲がないだけなのかわからないが食が細い。いつも完食をしないが、今日はとうとう全て残してしまった。


 ずっとアリサを見守っていた。心が落ち着くまでは見守っていようと思っていたが、その結果がこれだった。


 声を掛けずにアリサの部屋に押し入った。アリサはベッドの上で掛け布に包まりその姿を隠していた。ミズリの気配を感じて息を潜めている。ミズリがトレーを机に置くとアリサはピクリと小さく反応した。


「アリサ様」

「………」

「お食事を召し上がって下さい」

「………」


 アリサがここへ召喚されて何日が過ぎただろう。

 ミズリがアリサのまともな姿を目にしたのは初日だけで、自分の姿を見られたくないのかアリサはこうやって自身を隠す。

 アリサのために用意された部屋は貴人用で浴室や不浄処もあるため、この部屋から出ないアリサはミズリ以外の人間と言葉を交わす機会がない。

 アリサのために用意された食事は、食の細いアリサのために神官達が試行錯誤を重ねて作っている。部屋から出ないアリサのためにと花を毎日摘んでくれる神官もいる。少しでもよく眠れるようにとアリサの枕には神官達が作った匂い袋が仕込まれている。


 どれ程ミズリ達が尽しても、ここはアリサにとって許容しがたい現実なのだ。責める事は出来ない。ミズリに許されるのはアリサが受け入れてくれるのを待つ事だけだが、このままではアリサの体が悲鳴をあげる。

 

「これ以上お食事を抜いては体が持ちません」

 いくら部屋に籠りきりだと言っても限度がある。外に出ない事も健康には良くない。

 アリサの気持ちを慮り強引な手段を取らずに来たミズリだ。アリサに何かを強要する事のなかったミズリの断固とした口調にアリサが警戒する。

「………そんなの私の勝手でしょ」

「ご自分を痛めつけるような真似は止めて頂きたいのです。貴方が痛めつけるべきはご自身ではなくわたしであるべきです」

 それはとても良い考えであるような気がした。すアリサの心が晴れるならミズリに躊躇いはない。

 アリサは掛け布の中からじっとミズリを見ている。

「………なんとでも言えるよね?私はこの国に必要な人間のようだし。取りあえず死なれては困るって思っているだけでしょ」


 咄嗟に返す言葉は思い浮かばない。アリサがこの国を救える唯一の光である事実は揺るぎ様がなく、決して失えない存在だからだ。まさかアリサは己の死をもって拒絶の意志を表明するつもりなのだろうか。


 その考えはミズリを愕然とさせた。

 絶対に駄目だ。アリサがこの国に必要な人間だからではない。アリサを愛している人達がいるからだ。

 これだけは愚かなミズリでもわかる。一生会う事が叶わなくとも、愛している人の死を願う者はいない。そんな選択をアリサに選ばせてはいけない。


「全ての原因はわたしにあります。わたしが出来損ないの聖女だからです。本当は聖女の資格すらなかったのかもしれません。だから力を失って………アリサ様がこの世界に召喚されたのも、帰れないのもの、愛する人との別離も全てわたしが」

 絶望か怒りか、アリサの体が小刻みに揺れる。


 アリサが憐れだった。彼女には怒りをぶつける人間が必要で、誰よりも相応しい人間がここに居る。


「被害者でしかない罪のない貴方が死ぬのはおかしいでしょう?死ぬべきは加害者であるわたしです」

 うっすらとミズリが微笑むとアリサが息を飲む。


 ミズリは窓の方へと歩いて行くと窓を開け放つ。風がミズリの短い髪を弄ぶ。

 ここは四階だ。眼下には神聖樹のある聖域の一角と遠くに王城が見える。空は染み入る様に青い。どこからか神官達の話声が聞こえる。


 ミズリが窓枠に腰掛け身を乗り出して下を見た。この高さから落ちれば命はないだろう。

「これでわたしの罪が清算されるとは思っていませんが、多少は慰めになるのではないしょうか?」

 ミズリが窓枠を掴んでいた手を離そうとした。

「やめてっ!!」

 鋭い叫び声をあげ掛け布を跳ね除けてアリサがベッドから飛び降りる。禄に動かしていなかった体は足をもつれさせて転がった。


 ミズリが窓枠から降りてアリサに駆け寄った。打ち所が悪かったのかアリサが起き上がらない。慌ててミズリが屈みこみ手を伸ばす。

 アリサは近づいてきたミズリの袖を片手でぎゅっと握り顔を上げないまま苦し気なうめき声を零した。

「………やめ、てっ」

 華奢な肩が震えている。頼りないその肩にミズリは触れた。随分と痩せてしまったように思われる。


 ミズリに胸が激しく痛む。アリサはもっと痛かっただろう。


「アリサ様のつらいお気持ちの半分もわたしはきっと理解できません」

 アリサがノロノロと顔を上げ自力で体を起こして床に座り込む。肌艶が悪く目元には隈が出来て頬もこけている。出会った時の溌溂とした生命力は鳴りを潜めていた。

 ミズリは目を反らさなかった。

「貴方をこのような状況におしやったわたしにお慰めするような資格はありません」


 加害者の慰めはさぞ空々しい言葉に聞こえるだろう。アリサのミズリを見る目は精彩を欠いてはいたが無関心ではなかった。アリサはミズリと向き合おうとしている、それを感じて緊張に声が震えそうになる。ミズリの手に汗が滲んだ。


「だから、わたしを憎んで下さい。怒って下さい。貴方はわたしに何をしても許されます。罵っても殴ってもかまわない。死ねというのなら死にます。ご自分を傷つけるくらいならわたしを傷つけて下さいっ」

 ミズリは床に手を付き額が床に付く程に頭を下げた。

「わたしに出来る事は何でも致します。でも、貴方を元の世界へ返して差し上げる事だけは出来ないっ。それだけはっ、どうかっ」


 酷く都合のいい話だ。厚顔無恥と罵られても構わない。ミズリは無力だ。どれ程力尽し望んでも、アリサしかこの国を救えない。


 アリサが立ち上がる気配がして、ミズリの腕が上に引っ張られた。上体が持ち上がりアリサがミズリの腕を掴んでいた。アリサの顔が苦し気に歪んでいる。そのままミズリを立たせる。ミズリの服に付いた埃を払ってくれる。

「アリサ様」

「こんなことしないで。する必要なんかない」

 ミズリの腕から手を滑らせてそのまま掌を握る。二人とも緊張で手先が冷えていたが、互いの体温がほんのりと伝わる。握り合った手をミズリが戸惑うように見つめた。

「………貴方も酷い顔色だね。それに私に負けず劣らず痩せてる」


 ミズリも食事が喉を通らない眠れない日々を過ごしていたのだ。

 アリサは自分だけが辛く苦しいのだと思っていた。挙句投げ遣りになって、自分よりも年下の女の子を追い詰めてしまった。


 後悔を吐き出すようにアリサは大きく息を付いた。

「………本当は分かってる。今回の事は誰のせいでもない、天災みたいなモノだって。嵐にあったら家を壊されても命を失っても誰にも文句なんかいえないの。ああ、運が悪かったなって思うしかない。神さまなんてそんな理不尽な存在で、だから、私にとってこれは天災なの」

 出来るだけ軽く聞こえるように話しても、その声は震えている。ミズリが握っている手に力を込めた。

「でもね、直には受け入れられなかった。だって私は、死んでないもの。元の世界が恋しいし、大事なものが沢山ある。それを簡単に諦められるようには達観出来ない。人を異世界転移出来るくらい理不尽な力があるなら、せめて説明の一つもしてからにしろーって腹が立ったの。説明されても嫌だったとは思うけど、行方不明にはならずにすんだかもしれないから」


 悲嘆にくれる黒い瞳は目の前のミズリではなく、遠い世界の別れを告げることも叶わなかった人達を見ている。


「私って凄く親不孝者だわ。皆にきっと凄く心配をかけてる。ありもしない理由で自分達を責めていたらと思う居たたまれないの。せめて、誰のせいでもない事を知らせたいけど………」

 アリサの望みを叶えてあげたいと思う。ミズリにその術があればと歯痒い。

「異世界に接触出来る方法はありません。あるいは、祈りだけなら神様に届くかもしれません」

「神様?」

 アリサの眉根が寄る。声にも不信感が強く出ていた。

「神様ならばアリサ様の祈りを受けて、あちらに何らかの干渉が出来るかもしれません」

「私、ここに来る前も来た後も神様とは会った事も話した事もないのだけど、貴方はあるの?」

「いいえ」

「やっぱりね。神様を信じないわけではないんだけど………」

 信じていないわけではく、信頼していないのだ。流石に人が信仰している神に対し不敬であると思ったのか、アリサが言い淀む。

「アリサ様の懸念はもっともだと思います。全ての祈りが神様に届くのかはわかりません。届いたとしても叶えられるかも。それでも、祈りは無駄にはならないのではと思います」

「やらないよりかはマシって事かな?」

 ミズリは少し視線を漂わせ躊躇した。アリサにとっては皮肉な事実に他ならないからだ。

「………アリサ様が、今ここにいらっしゃるので」

 アリサが目を見開いて驚いた後にくしゃりと顔を歪めた。

「そっかぁ、そうだね。こんな非常識をやってのけたくらいだもの、これくらいの祈りは聞いて貰わないと割に合わないよ」

「申し訳ありません」

 そう言って再び頭を下げようとしたミズリをアリサが止める。

「もういいの。私も甘えて八つ当たりしちゃったもの。ごめんなさい」

「わたしはそれだけの事をしました。もっと責められるべきです」

 アリサは否定するように顔を横に振った。

「違うの。誰かのせいにしてはダメなの。私が帰れない事も私に役目がある事もちゃんと受け入れるなら、誰かのせいにはしたくない。でも………もう後少しだけ時間が欲しい。逃げたりしないから、ちゃんと向き合えようになるまで」

「お一人で苦しまないで下さい。わたしに沢山八つ当たりをして下さい。悲しみも怒りも憎しみも全部引き受けます。だからどうか、わたしがお傍にいる事を許して下さい」

 アリサは微笑んだ。それは初めてミズリに見せてくれた笑顔で、少し歪んでいて笑顔とは言い難い不格好なものだったけれど、美しかった。

「うん、ありがとう。凄く心強いよ。あのね、この国の事、聖女の事を教えてくれる?私、何も知らないから、ちゃんと知りたいと思う」


 強くてとても優しい女性だ。聖女は清らかな女性が選ばれると言われているが、ミズリは自分が紛い物である事を知っている。真に清らかな女性とはアリサのような人物を言うのだ。


 心からの尊崇と恭順を示す為にミズリは跪いた。

「アリサ様、ありがとうございます」

 アリサはやっぱり慌てているが、ミズリはどうしてもそうしたかった。アリサのスカートの裾に額を付けた。


(この人のために尽くそう。失ったもの以上のものを返せるように。彼女の強さと優しさが陰る事のないように。わたしの全てを捧げよう)

 アリサ以上の人はいない。本気でそう思ったのだ。





 それからアリサは徐々に口数が多くなって外にも出るようになり、声をあげて笑う様にもなった。アリサがこちらに来て一か月以上が過ぎていた。


 国への報告は神官長が全て行ってくれていた。ミズリやアリサが矢面に立つ事はなく、神殿の中で守られていた。

 ミズリの処分は保留のままだが、今回の騒動におけるミズリの責任は免れず、聖女としてではなく国母としての資格を損なうとして、ルーファスとは婚約解消となる事がほぼ決定している。

 ミズリは当然の事として受け入れているが、受け入れられない者もいる。

 ルーファスからは何度も手紙が来ていた。ルーファスは納得していない。会って話がしたいと書かれた手紙にミズリは返事を返せずにいる。

 ミズリはルーファスからの手紙を手に取って、文字をなぞる。


『親愛なるミズリ』

 いつもこの言葉から始まる。右上がりになる癖はミズリと一緒だ。ミズリに読み書きを教えたのはルーファスだから当然かもしれない。


 無意識にミズリの指は何度も親愛の字をなぞる。

 日を追う毎に手紙の内容は簡潔になって、それがかえってルーファスの焦燥を表しているようだった。

 神官長からは幾度となく話し合う場を設けるべきだと忠告を受けているが、ミズリはまだルーファスと向き合う勇気が持てなかった。

 アリサを家族にも恋人にもこの先一生会えない境遇にさせたミズリがのうのうとルーファスに会えるのかという思いも確かにあるが、それ以上にもっと利己的な理由でもってミズリはルーファスを拒絶しているのだ。


 ルーファスの手紙にはミズリへの文句は一言も書かれていない。只会いたいのだと、ミズリを心配するルーファスの気持ちに溢れていた。

 いつまでもこのままというわけにはいかない。愚かなミズリでもそれはわかっている。アリサのお披露目の事もある。


 アリサはこの国の事を少しづつ受け入れてくれるようになった。こちらに馴染もうと努力もしてくれている。

 アリサには一人でも多く心を許せる人が出来て欲しい。

 最初に国王達と対面させるのはハードルが高いと考えていた。神子の地位は国王と同等かそれ以上だが、身分差が殆どなかった世界で生きて来たアリサは気後れするだろう。ルーファスなら穏やかで優しい気質だ。アリサと最初に対面するなら王太子でもあるルーファスは適任だった。


 ミズリはペンを手に取った。何を書けばいいのか何時間も迷って、神子を紹介したいと言う事務的な手紙をしたためた。

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