1-5
神の御業によって現れた女性は、この国には珍しい黒髪黒目を除けば、この世界の人間と何ら変わらない。教養もあり意思疎通も出来る、話が全く通じない相手ではなかった。
見開かれた黒曜石のごとき瞳には混乱と戸惑いと不安が綯交ぜになって表れていたが、表面上は取り乱すでもなく落ち着いているように見えた。強い女性なのだろう。このような場面でも自分を律する術を知っている。
「ここは本当に異世界?私は、今朝出勤するために家のドアを開けただけですよ?それが異世界………」
女性はワタベ・アリサと名乗った。何故自分がここにいるのかわからないと言った。見慣れない部屋に見慣れない人達。神官達の髪や瞳の色を見て、それは天然なのかと聞いたところによると彼女の世界ではこちらのように多種多様な色を人々は纏わないようだ。
異世界と聞いて動揺したのはアリサだけではない。ミズリも又混乱の中にいた。アリサがこの国の、ましてやこの世界の人間ですらないと誰が予想出来ただろう。
グラグラと視界がぶれる。理解を拒みたいのに鈍く痛む頭がそれを許してくれない。
(事情を知らない、全く関係のない人間を巻き込んでしまった………)
その事実がもたらした衝撃は凄まじかった。
まさか異世界からミズリの希望がやってくるなんて思いもしない。けれど、それを願ったのはミズリだ。神は願いを叶えてくれただけだ。
一人の人間の人生を奪う、それはどれ程の罪になるのだろう。ミズリの罪はどこまでも深くなる。まるで、奈落の底だ。
ミズリはぐっと奥歯を噛みしめた。今は動揺してはいけない。目の前にいるアリサに集中した。
「仮にここが異世界だとして、何故言葉が通じるのでしょうか?私は日本語をしゃべっていますし、皆さんの言葉も日本語に聞こえます」
アリサの疑問に答えたのは神官長だ。
「私達には逆に聞こえます。アリサ様がこちらの言語を話されている。この齟齬はアリサ様が神の祝福を受けておられるからでしょう」
「神の祝福………」
アリサはピンとこないのか不思議そうだ。
「神官長様、ここからはわたしが説明を致します」
黒曜石の瞳がミズリを捉えた。その透徹とした眼差しに見据えられ、怖気づきそうになる自分を叱咤した。
「わたしはミズリと申します。どうかこれだけは信じて頂きたいのですが、わたしどもはアリサ様を傷つける事は決して致しません。神に代わってアリサ様をお守りすると誓います」
大袈裟な物言いにか、自分よりも明らかに年下の小娘に言われたからかアリサは驚いた顔をした。
「アリサ様にも沢山の疑問や不安がおありでしょうが、まずは、この国についてお話しさせて頂けないでしょうか?」
「国について?なんだか話が大き過ぎる気がするけれど、それが必要なのね?」
「はい、アリサ様の身に深く関わる話になります。」
アリサはミズリの話を興味深く聞いた。アリサの常識では考えられない世界なのだろう。
アリサの世界では神は空想上の存在に等しく心の支えとしての役割が強いそうで、アリサ自身は無神論者という事だ。
実際に神聖樹があり、アリサ自身が神聖樹の中から現れたと知ると心底驚いた様子だった。
「なんだか凄い世界だわ。本当に神力があるの?この国は今まで一度も他国との武力衝突や戦争がないって事よね」
「ファストリアは閉ざされた国です。結界の外は永久凍土。他国との交渉が一度もないとは申しませんが、生きてファストリアへ入国出来る者はほとんどいません」
「聖女が国を物理的に結界で守っているなら、聖女はもの凄く尊い存在なのね。一度も聖女がいない時代はなかったの?病気とか事故で亡くなったりは?」
「世代交代の数年の空白を覗いてはありません。聖女が存在しない時代がないように、寿命を全うしない聖女もおりません。わたし共にはそれが神の采配なのだと」
「聖女は神様の代理人みたいなものなのかな?神聖樹に神力を渡す以外に何か出来るの?神力を使って」
アリサは異世界人なだけあって、ファストリア人には考えた事もないような質問が浮かぶ。ミズリと神官長はさり気無く目と目を見合わし、ミズリが頷いた。
「わたしは、聖女は神力を受け取る器だと考えています。神の代理人などとは言えないでしょう。神から授かった神力を神聖樹に受け渡すだけで、聖女は神力を使う事は出来ない。」
「私の勝手なイメージだけど、‘聖女’と言われると怪我や病気の治癒が出来たりとか、悪しきものを滅ぼす力があったりするのだけれど」
「そのような話は聞いた事がありません」
ミズリの後を神官長が引き継ぐ。
「神力は神聖樹へ渡すために神からお預かりしたもの。神力を使うという発想が私共にはありませんが、聖女の祝福は神力の一部でしょう。神聖樹に渡す力からすれば極微々たるもので、人に強い影響を与えるものではありませんが。聖女の出来る範囲は、この二つに限られます」
アリサは好奇心の赴くままに口を開いた。
「じゃ、守護者の能力は神力じゃないのですか?」
「守護者の力は神が授けたものか、神に選ばれた初代か元々持ち合わせていたものかは定かではありませんが、神力ではありません。超常的な力、聖女により強く作用する力だと認識されています」
「例えば?」
「結界の維持補強や神聖樹に神力を灌いだ聖女の体力を回復させる能力が一般的ですね」
「一般的でないものもあるのですか」
「ええ。人によっては特殊な能力を顕現させる者もおります。すべからく守護者の能力は聖女のためにあるのだと思って頂ければ良いでしょう」
「聖女をサポートしてくれるという事ですね。守護者がいるなら聖女の負担は軽くなるのでしょうね。良かったわ」
無邪気に感想を述べる。アリサは御伽噺を聞いている気分なのだろう。もしくは、アリサの常識からかけ離れ過ぎていてここが現実であるという認識が薄いのかも知れない。
異世界に突然連れて来られて直に順応出来る人間はいない。アリサのこの反応は現実逃避の手段だろう。ミズリ達はそれを許してあげるわけにはいかなった。
「聖女によってこの国は長らく平和と繁栄を享受して来ました。けれど、当代聖女においてその限りではなかった」
「聖女に何かあったのですか?」
神官長が言い淀む様子を見てアリサの視線が神官長からミズリに移った。
この美しく澄んだ黒曜石の瞳に、ミズリはどのように映るのだろうと思う。
「聖女は幼い頃に神の選定を受け、その身に神力を宿します。神力は聖女の器に満たされ続け聖女のまま一生を終えるのです。わたしが聖女の選定をうけたのが四歳の頃でした」
ミズリが聖女と知ってアリサが目を丸くする。空想上の生き物に遭遇した、そういう顔をした後に少しばつが悪そうに身じろぐ。アリサの戸惑いは当然だ。こんな時でなければ微笑ましく感じただろう。
「十二歳くらいの頃に神力の衰えを感じ始めました。歴史をみても力を失くす聖女はいません。原因も未だ不明のまま。今ではわたしの神力は昔の一割程もありません」
アリサの手前冷静な態度を崩しはしないが、この告白にアリサよりも驚いたのはむしろ神官長の方だろう。ミズリの力の喪失がそれ程進んでいるとは思っていなかっただろう。ミズリは一人破滅という深淵を覗き続けていた。ミズリにとってアリサは正しく光だ。深淵を照らす強烈な光なのだ。
「それって凄く大変な事なんじゃ」
「その通りです。聖女の力がなくなれば、結界が失われ国が滅亡します」
「滅亡………」
ミズリから飛び出した不穏な言葉にアリサの背筋が伸びる。
「ですが、神が奇跡を授けて下さった」
「ちょっと待ってっ」
ここへ来て話の流れが何処へ向かうのか察したアリサが手を上げて制止をかけた。徐々にアリサの顔が強張り、歪な笑みを口許に浮かべる。
「まさかその奇跡が私だなんて言わないよね?私はただの一般市民だよ!?絶対そんな大層な者じゃないから!」
「いいえ、貴方は聖女しか入れない祈りの間に出現しました。何より貴方から圧倒的な神力を感じます。聖女、いいえ聖女を凌ぐ神の愛し子です」
笑おうとして失敗した、アリサはそんな顔をして早口に捲し立てた。
「ありえない。神力って何?そんなの一つも感じ取れないし信じられない。そもそも私はこの世界の存在すら今まで知らなかったのよ?それが、国を守れって、そんな無茶苦茶な………」
言いながらアリサは顔色をどんどん白くして言った。事の重大さは平静でいられる方がおかしい。
「待って、待って待って待って、私、元の世界に帰れるの……‥?」
部屋に居る誰もが息を止めた。
虚偽を告げる事は得策ではない。アリサを絶望に叩き落とす事実は覆らない。ならばそれを告げるのはミズリでなくては。
ミズリはぐっとお腹に力を入れ、震えそうになる声を制御した。
「神以外にこの世界のどこにも貴方を元の世界に戻す方法を知る者も戻す力のある者も存在しません。わかっているは、この国は貴方がいなければやがて滅びます」
「わからないよ!そんな事を言われても!私は部外者だもの!恋人がいるの!家族がいるのっ友達だって仕事だってあった!それを、関係のない世界のためにどうして取り上げられなきゃならないのっ」
答えを返せる者はこの場にいない。ミズリは虚しく開いた口を閉じるしかなかった。
「こんなの、おかしいよ‥‥‥‥‥」
悲鳴じみた声を上げてアリサは崩れた。理不尽な現実を前に辛うじて保っていた心が折れたのだ。
ミズリが差し出した手をアリサは拒絶した。強い感情に彩られた涙の滲む目に射抜かれてミズリは動けなくなった。
「触らないで!………今は駄目、これ以上何も聞きたくない。お願いよ、一人にして」
「アリサ様」
「お願いだから!酷い事を言う前に、消えて」
両手で自分の体を抱くように蹲るアリサ。
呆然とするしかないミズリは神官長に促されて部屋を後にした。胸にはいつまでも蹲るアリサの姿があった。一人の女性の人生を歪め、奪った事実がいつまでも重く圧し掛かった。
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