1-4
神聖樹に神力を灌ぐ祈りの場は神聖樹の内部にある。その内部は不思議な空間だ。扉や入口があるわけではなく、内部に入るにはミズリが幹に手をかざせばいい。
幹の中はかなり広い空間になっている。頭上から光が降り注ぎ、足元には柔らかい草が生えている。四方は木肌に囲まれ中央に泉がある。聖女はこの泉の中に身を沈めて力を解放する。
ミズリは泉の中央に立った。泉と言っても水の実感はなく衣装が濡れる事はない。ゆらゆらと纏わりつく水は澄んでいて清浄だ。
ゆっくりと呼吸を整えている時に、それは突然始まった。
風もないのに草がさわさわと揺れ始めた。空気の帯電を感じる。初めての事にミズリの集中が霧散する。
何が起きたのか理解する前に泉のほとりの一株が驚異的なスピードで成長し始めた。人の身長くらいまで育ったかと思うと瞬く間に花をつけた。薄紅色の何枚もの花弁を持つ花は美しいがまずその大きさに驚かされる。
息を詰め見守る内に花は落ち実がなった。拳くらいのだった実は見る間に大きくなり、唖然と見つめるミズリの目前でそれは光を放ち徐々に大人の女性の姿へと変貌を遂げて行く。
見た事もない衣装に身を包んだ女性らしい柔らかな曲線を描く肢体、美しく伸ばされた艶やかな光沢を放つ黒髪。完璧なアーチを描く眉に、閉ざされた瞼には扇のように美しく並ぶ睫毛。淡く彩られた唇は瑞々しい。
精緻に描かれた白皙の美貌よりも何より、ミズリの心を捉えたのは彼女の内側から感じる濃く強い神力。
意識のない女性の体が傾く。ミズリは咄嗟に抱き留めたが、自分より重い体重を受け止めきれず二人もろとも泉に倒れた。
泉の水が衝撃を吸収してくれたお蔭で痛みはなかった。ミズリに圧し掛かる形になった女性の瞼は固く閉じたまま動かない。人形のようにも見えたが、ミズリの腕の中には確かな温もりがある。豊かな胸が上下して微かな息遣いが感じられる。
(なんて純度の高い圧倒的な量の力)
肌が粟立つようだ。この女性は人間なのだろうかと疑問が過る。恐る恐る触れた手はしっかりとした人の肌だった。何とか泉からその体を引き上げた。その間も女性の意識は戻らない。深い眠りに囚われているように見えた。
何者かと問うのは愚問だろう。ここは聖女しか入れない聖域だ。そしてこの神力。
ミズリの瞳から涙が盛り上がり、頬を流れ落ちる。
ミズリの願い。毎日狂う程に願い続けた。
(彼女は、光だ。この国の希望の光そのもの)
聖女ではない。聖女を遥かに凌ぐ力。今までの選定では在り得ない神の強い介在を感じる。神の愛し子と呼ぶに相応しい。
ミズリの体が崩れ落ちる。地面に蹲り華奢な肩が震える。抑えきれない嗚咽が零れる。
途方もない安堵がミズリを襲った。涙が溢れて止まらない。嗚咽はやがて泣き声に変わり、ミズリは幼い子供のように声を上げて泣いた。涙が枯れて気が済むまで声を上げ続けた。
次にミズリが気付いたのは自室のベッドの中だった。痛む頭と重い瞼を持ち上げ、状況を理解出来ずぼんやりと視線を彷徨わせた。
ミズリのベッド傍らに神官服に身を包んだ白髪の年配の女性が腰かけていた。
「ミズリ、気分はどうですか?」
「神…官……長、様」
酷くしわがれた声が出た。体を起こしながら自分の喉を抑え小さな咳をする。体が渇いていた。無意識に水を求めていると神官長がコップを差し出す。有難く受け取り飲み干すと神官長が話し出す。
「昨日貴方と黒髪の女性が神聖樹の傍で倒れていました」
頭の中に奇跡の光景が蘇る。ミズリの夢ではないのなら神子が顕現したのだ。黒髪の美しい女性だった。
「彼女はっ!?彼女はどこにいますか、無事ですか!?」
ベッドから飛び出しかねないミズリを神官長がやんわりと押し留める。ミズリが握ったままのコップを取ると水差しから水を注ぎ、もう一度ミズリに手渡した。促されるままミズリはコップに口付けた。
「彼女はきちんと保護しました。未だ目を覚ましませんが、体に異常はなく、今はただ眠っているだけです」
「よかったぁ………」
安堵のあまりミズリは力が抜けて再び倒れそうになった。
「彼女は、聖女ですね?」
神官長の問いに居住まいを正して頷く。
神官長は薄いながら王族の血を引く女性だ。彼女の中の神力を感じ取れるのだろう。ファストリアの歴史の中で同じ時代に2人の聖女は存在しない。神官長の驚愕と困惑は相当であっても表に出すような真似はしなかった。或いはここ数年の今までと違う聖女と守護者の関係があるからかもしれない。
「彼女は素晴らしい力をお持ちです。聖女とお呼びするのは烏滸がましい、神の愛し子と呼ぶのが相応しいかと思います」
神々しく鮮烈で圧倒的な力だった。思い出すだけでミズリの体が震える。ミズリが小川なら彼女は大河だ。それ程に違う。
「そうですか………それ程の」
神官長が思考に耽るように言葉を一旦切るとミズリを見つめた。神官長は聡明な女性だ。ここ数年のミズリの異常と今回の神子の出現を無関係とは考えていない。
「これは前代未聞の出来事です。全て話してもらえますね?ミズリ、貴方が何に悩み、苦しんでいたのかも全て」
ミズリは深く息をついた。
ようやく、ようやく全てを明らかに出来る。鉛のように重い恐怖を一人で飲み込み続けて来た。窒息しそうな中でこの瞬間をずっと待ち望んでいた。躊躇う理由はない。
ミズリは洗いざらい話した。ミズリの力が衰え出し、遠からず聖女でなくなる事。あらゆる文献を漁り必死に力を取り戻す方法を探し、国の滅亡の可能性を知りながら誰にも打ち明けられなかった事。神に縋って祈り続けた日々。
今ならわかる、自分の未熟で愚かな行動の数々が。到底聖女には相応しくない臆病で矮小な心しかミズリは持てなかった。
全てを神官長は口を挟まず黙って聞いていた。ミズリは叱責を覚悟していた。
どれ位の時間が過ぎただろう。ミズリが全て話終えると神官長がそっとミズリの手を握った。無意識に固く握り締めていた手は血の気を失い白くなっていた。その手を神官長が優しく解く。冷え切ったミズリの手を神官長は温かな手が包み込む。
「ずっと一人で苦しんでいたのですね。私達が不甲斐ないばかりに貴方には辛い思いをさせました」
何を言われたのか分からなかった。これはミズリの罪の告白で神官長から出る言葉はミズリへの断罪が相応しい。
「違いますっ、これはわたしがっ」
「ミズリ、私達神官は聖女のために存在します。貴方が私達に話せなかったのは私達が不甲斐なかったからに他なりません。貴方が罪だと思うのならば、それは私達の罪でもあります」
ミズリは激しく首を振った。そんな理屈はとても受け入れられない。
「違います!わたしが愚かだったのです!」
神官達はいつもミズリを助けようとしてくれた。差し出された手を頑なに拒んでいたのはミズリだ。こんなにも温かい手だったのに。
恐れに何も見えなくなっていたのだ。聖女の力が戻るかもしれない一縷の望みを本当はどこかで捨て切る事が出来なかった。ルーファスを失う恐怖があった。聖女でなくなれば無価値になる自分を憐れんでいた。何より国を滅ぼすかもしれない恐怖は大き過ぎて、とても口出す事さえ出来なかった。全てミズリが愚かしく弱かったからだ。
これはミズリの罪だ。ミズリだけの罪だ。
「いいえ、貴方は良く耐え頑張りました。だからこそ、神は貴方の願いを叶えて下さったのです。それでも貴方が罪を背負うのならば、一人で背負う必要はありません。私達全体の罪なのです。貴方は聖女としてそれを許さなければなりません」
そんな事は一つも望んでいなかった。ミズリのせいで神殿が責に問われる可能性を考えていなかった。どうしていいのか分からず後悔ばかりが押し寄せる。
神官長は乱れたミズリの髪を梳いた。その仕草は優しく、ミズリを見つめる眼差しは慈愛に満ちていた。
優しくされればされる程ミズリは自分の愚かさを痛感する。
「神官長様、申し訳ありませんでした」
このような謝罪だけで許されるとは到底思えなかったが、深々と頭を下げずにはいられなかった。
「その言葉はルーファス殿下にこそ必要でしょう。殿下も随分と心配しておられたご様子です。国にも報告せねばなりません」
事の重大さを思えば一刻も早い方がいい。神官長は気遣わし気にミズリを伺う。
長い間ミズリとルーファスの関係は拗れたままだ。ミズリに拒絶されたルーファスはそれでも神官長は勿論、ミズリの世話をする神官に至るまでミズリの様子を事あるごとに報告させていた。
ミズリが眠れていないようだと知れば安眠に聞く薬湯を、食欲がないと知れば珍しい果物を、疲れていれば滋養に良い食材を取り寄せる。ルーファスのかいがいしい様子に絆される神官が多くいた。
ルーファスの中でミズリの存在は揺るぎようがない。今こそルーファスはミズリに必要なのだと神官長はごく自然に思っていた。ミズリは厳しい立場に立たされるだろうが、ルーファスが必ず守ってくれると。
(そのためにも、二人を至急会わせなければ)
神官長が頭の中で二人の再会の算段をつけている処で、ミズリが頭を上げて口を開いた。
「神官長様、一つだけお願いがあります。」
自分で思うよりも落ち着いた声が出た事にミズリは胸を撫でおろす。
ずっと決めていた事がある。この先ミズリがどうなろうとこれだけはしなければいけない。ミズリが聖女ではなくなるその時は。
「全てをお話するその時にルーファスとわたしとの婚約の解消をお願いして頂きたいのです」
神官長は驚きの声を上げた。それも当然だろう。聖女と守護者の別れは死別しかありえない。長い歴史の中で結ばれなかった者などいない。
「ミズリ、彼は貴方の運命ですよ。それを」
「わたしは最も不名誉な聖女になるでしょう。ルーファスは稀に見る力の強い守護者です。その血筋を穢す事は出来ません。聖女ですらないわたしにルーファスは相応しくありません」
「相応しいか否かは問題ではありませんよ。聖女と守護者を引き離そうとする者がこの国にいる筈がありません」
それは神が定めたシステムを否定する事だ。守護者の資格を有する王族は国を治めはするが、守護者は国のために存在するのではない。神の代行者たる聖女のためにこそ存在するのだ。
ミズリは静かに首を振った。
「いいえ、いずれ気が付くでしょう。わたしが聖女でなくなるのなら、守護者にも同じ事が起こってもおかしくない筈だと」
「ミズリ………」
神官長は否定の言葉が出なかった。これまでの出来事が前代未聞で今までの常識が当てはまらない。現時点で断言できる事は一つもないのだ。
「こうも考えられます。わたしとルーファスの不和は、わたしが聖女の力を失っていったように、ルーファスも守護者でなくなっていっているから起きたのではないかと」
「ミズリ、それは違います」
珍しく神官長が慌てている。
第三者から見れば、あの頃のルーファスの態度は過度な愛情の裏返しに過ぎないのだが、聖女と守護者の間に他人が首を突っ込むような野暮な事をする者がいなかったがために、ミズリは誤解したままなのだ。
「彼は王になる者です。聖女ではないわたしではルーファスの隣に立つ資格はありません」
ミズリが一番理解している。そしてこれはミズリから言わなければいけない事なのだ。
王家直系の唯一の男子だからではなく、王になるために努力を絶えまずしてきたからこそ、ルーファスは誰よりも王に相応しく国に必要な存在だ。その彼の隣に立つには同等の資質が求められる。ミズリのように身勝手に国を危険に晒す愚者では務まらない。
「殿下がミズリだけを選ぶ可能性もあるのですよ」
それはつまり、ミズリが王妃になれないのならルーファスが王にならないという可能性だ。許されるかはともかく、ミズリと結ばれるためならばルーファスがそんな決断をしてもおかしくないと神官長は思える。
「わたしは今まで告白も出来なかった卑怯な臆病者ですが、自分がした事の重大さはわかっています。それに伴う責任もわたしが負うべきものです。この国の未来の王を取り上げる様な真似は決して出来ません」
ミズリに迷いは見られなかった。若草色の瞳は僅かな揺れもなく神官長を見据えていた。
神官長は頑なにルーファスを拒絶し始めた頃のミズリを思い出していた。神子が召喚され思い付いたのではく、もっと以前から考えていたのだろう。ふっと重い息を吐く。
「貴方の決意の程はわかりました。けれど、殿下とは一度話し合うべきです」
「………」
「聖女と守護者は神が定めた運命の相手です。二人で一つになるように定められた者なのだと私は思っています。二人の事をミズリ一人で判断する必要はないのですよ」
何よりもルーファスがそれを許しはしないだろうと思うのだ。
口を閉ざしてしまったミズリに尚も言葉を重ねようとした時、扉がノックされ、神官が顔を出す。
「失礼致します。あの例の女性が目を覚まされました」
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