1-3
ミズリは意識的にルーファスを避けるようになった。平然とした態度をとれなくなっていた。ルーファスの態度のおかしさは、もしかしたらミズリの力の衰えやミズリの臆病な心を何かしら感じているのかもしれないとさえ思えてきて、時折感じるルーファスの視線が怖かった。
相変わらず祈りの時間は伸びている。日々不自然でない程度に伸びているので周りの者は案外気が付かない。一層気が付いてくれれば告白も出来たのだろうが勇気が出なかった。
ミズリの体も変調を来すようになった。消耗が激しく祈りの後は崩れるように倒れ込む回数が増えるようになった。
夜が明けきれぬ早朝。ミズリは神聖樹の根元で座り込んでいた。眠れずに祈りを一晩中行い疲れた体が思う様に動かなかった。無茶をし過ぎた事は十分に分かっている。
空が徐々に明るくなっていく様を眺めていた。高く澄んだ鳥の囀りが聞こえる。やがて太陽の光がミズリの視界を焼いた。眩しさに目を瞑る。
ミズリは目を開ける事が出来なかった。開けた先に広がるのは真っ暗な世界かもしれないと、そんな恐れを抱く。
暫くそうしていたが、恐る恐る開いた視界にはいつもの世界が広がっていた。
知らずに止めていた息を吐き出して立ち上がった。そろそろ自室に戻らなければいけない時刻だった。
聖域を抜けた処で、数人の神官の話声が聞こえた。なんとなくミズリの気が惹かれてそちらへ足を向けた。
まだ年若い神官が3人、水瓶の前で話をしている。
「ですからっ、私は昨日ちゃんと水瓶に水を補給しましたっ」
「それならば何故、水が溜まっていないのです。これは昨日私が確認した時と同じ量しか入っていませんよ」
「でも、私はちゃんと仕事をしました」
二人の神官が言い合っている。もう一人の神官はそれを困ったように見ていた。
「どうして、そのような嘘をつくのです。神官として恥ずかしくないのですか」
「嘘など付いておりません!本当です!」
平行線のまま言い合いが激しくなる。そんな中黙って水瓶を観察していた神官が声を上げた。
「あっ!ここを見て下さい。ヒビですよ、ヒビが入っています。こっち側も結構入ってますね。これのせいではないですか?」
二人の神官も身を屈めてヒビを確認し出す。ヒビから水が滲み出していたのだろう。水瓶の周りが水浸しになっていないのは時間が経って乾いてしまったから。
「………」
「………」
責めていた神官は気まずいだろう。それでも身を起こすと頭を下げた。
「申し訳ありませんでした。貴方を疑って」
「いえ!そんな、止めて下さい!疑われるのも無理もない事ですよ。ヒビが入っているなんて誰も思いませんし、私も少しも気が付きませんでした」
険悪なムードから一転する。もう一人の神官が二人の肩を叩いた。
「もう宜しいではありませんか。原因もわかった事ですしね。それにこの水瓶はもうダメでしょうね。何時割れるかわかりませんし。新しい水瓶に取り替えないと」
「そうですね、私、業者とお話しておきます」
「宜しくお願いします」
一件落着して3人はそれぞれの持ち場に戻って行った。
ミズリはどうやって自室に帰ったのか覚えていない。気が付いたらベッドに腰かけていた。色々な考えが頭を廻る。
口元を抑えて体を倒す。吐き気に襲われてきつく瞳を閉ざす。
聖女の力は神力だ。神から授かった力。力を使い果たしてもいつの間にかまた力に満たされる。聖女はあの水瓶だ。神の力を宿す器。普通なら決して壊れる事のない器なのだ。そう思えば、全ての事に上手く説明がつく。
その器が、何故かミズリの器が壊れて来ている。神力が弱まったのではない。ミズリの器が神力を溜め込む事が出来なくなって来ているのだ。いつか神力を宿せない程に壊れる、あの水瓶のように。
爪が肌に食い込むくらいに己を抱き締めた。
壊れた水瓶は新しい水瓶に替えればいい。明日には新しい水瓶が用意されている。聖女も同じだ。新しい聖女が選定される。
聖女の選定は先代聖女が亡くなった後に行われる。ミズリの器が壊れれば次の聖女が選定される筈だ。
そこまで考えてミズリは混乱した。
途中で聖女でなくなる前例がないのだ。どうしてミズリの器が壊れたからと言って次代の聖女が選定される保証があるのだろうか。わかっているのは先代聖女が亡くなってから必ず次代の聖女が選ばれる。決して二人が重なる事がないという事実だ。
器を失っても自分は生きているのか。生きていた場合聖女の選定は正しくされるのか。選定は神の御業で人間には到底及ばぬ範疇である。
最悪のパターンが頭を過る。ミズリが生きている限り選定がなされない場合だ。
聖女が力を神聖樹に灌ぐ事で、国全土に張り廻った神聖樹の根が力で満たされて結界の役割を果たす。聖女が亡くなり選定が行われるまでに長くて3年。この間は王族が失われていく力を根に留めるように補修を行う。
それはいつまで有効なのだろう。聖女を失って3年目ともなると多少気候が狂うようになると文献には書いてあった。この国は結界を無くせば不毛の大地に飲み込まれてしまう。
ミズリの聖女としての価値など余りにちっぽけだ。あれ程恐怖したルーファスを失う事さえも。
国の滅亡、それは一人の小娘が背負うには重過ぎる。
ミズリは毎夜悪夢を見る。
夢の中でミズリはいつも一人だ。雪がミズリを襲い、視界を白く染める。寒さに凍え痛みに変わり、何も感じなくなるとミズリの肌に無数のヒビが広がる。やがてミズリの体が崩れ落ち始める。必死に止めようとしても崩壊は止まらない。足が崩れ落ちて膝をつく。そこで自分が氷の上にいる事に気が付いた。
不純物のない透明な氷。氷の中に閉じ込められているのは。
街、国、人。ファストリアがミズリの眼下にあった。
街も人も全てが凍って。
凍って――――――。
ミズリの尋常でない様子に周囲は心配したが、誰にも、ルーファスにさえ打ち明けられなかった。口を開けば喉を絞められたように声が出なくなる。臆病で醜い己の心と強過ぎる恐れ故にとても話せるものではなかった。
ミズリは聖女の器が戻る方法を必死に探した。探しても探しても見つからない。絶望だけが積み上がって行く。
そうしてとうとう意図的に考えないようにしていた解決策に目を向けざる得なくなった。
確実に国の滅亡を阻止するなら―――ミズリの生存が選定に影響を与えないように聖女の器の喪失と共にミズリを殺せばいい。
事が露見すれば、いずれ誰もが考えるだろう。そして、ミズリの周囲にこんな事を冷静に実行出来る者はいない。ならミズリが出来る事は一つ。
―――自分を自分で殺す。
体が震え出す。自決も国の滅亡と同様に恐ろしかった。恐ろしくてもそれが最後に出来る聖女の勤めなのだろう。それでもミズリが死んでも次代の聖女がちゃんと現れるのかは不安が残る。
この頃になるとルーファスに嫌われても構わないと、嫌ってくれたらいいと思うようになっていた。聖女と守護者の関係が上手く行っていない事は周囲に隠せなくなって来ていた。
神殿の一室。ミズリの前には神官長が難しい顔をして座っている。かなりの高齢だが、まだまだ壮健で普段はとても温和な方だ。神官長は実質神殿のトップであり、多忙を極める。そんな人にまで聖女と守護者の不和の噂が届いているのだ。
「一体何があったのです?皆が心配しています」
ミズリは俯き押し黙る。
「ミズリ………何か思い悩む事があるのなら言葉にしなければ伝わりませんよ。私達では役に立ちませんか?それ程に我々は不甲斐ないでしょうか?」
ミズリはただ首を振る。神官長は溜息を禁じ得ない。最近のミズリの頑なさはどうした事だろう。神官ばかりかルーファスでさえ神官長に助けを求めてきたことには正直驚いていたが。
「殿下が大変心配しておられます。まともに話もしないそうですね。私達に話せなくとも殿下にはお話出来ないのですか?殿下は貴方の守護者、片翼です。守護者は聖女のために存在する者なのです。」
「………」
このように拗れる聖女と守護者は聞いた事が無い。少なくとも神官長が直接知る先代聖女と守護者は鳥の番いのように始終仲睦まじい様子で幸せそうであった。
「貴方が何に悩み苦しんでいるのか私にはわかりません。でも、これだけはわかります。ミズリ、貴方が助けを呼ぶべき相手は殿下です。聖女と守護者は唯一無二の一対。貴方が苦しんでいれば殿下も苦しんでおられます」
そこで初めてミズリが顔を上げた。若い娘が宿すには不釣り合いな苦痛を湛えた眼差しに今度は神官長が言葉を失う。
「………ミズリ、何故、そんな………」
ミズリは覚悟を持って深く頭を下げた。
「お願いです………わたしに時間を下さい」
ミズリの器が壊れたその時は、誰にも知られず死ぬ覚悟を。
それからも何度も神官長からはルーファスと話合うようにと説得を受けた。ミズリの思いを感じて神聖樹はルーファスを拒絶するようになり、一日の大半を神聖樹の元で過ごすミズリとは会わなくなった。
ミズリは毎日気が狂う程に神に願った。ミズリの器は何をしても戻らない、それを思い知った今、神に縋るしか方法がない。
(光が欲しい。この国を滅亡させない強い光が)
ミズリが死んだ後も、この国が存続出来るという確証が。
命などいらない。何を犠牲にしても何を奪われてもかまわない。この願いを叶えてくれるなら。
願って願って願って、神が願いを叶えてくれたのはミズリが成人する少し前の事だった。
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