第23話
その後は案外あっさりとしたものだった。
早朝、俺とメリーの街の間にある大きな都市の警察署に駆け込み、俺は事情を一部始終話した。
数時間の調書を取り終えると、警察は各方面への手続きと調査に乗り出した。
当たり前の話だ。
何せ証言だけなどではなく、実際に虐待を受けたメリー自身がその場にいたのだから。
メリーは警察署から病院に搬送されると、手厚い保護を受けたようだった。
というのも、俺自身体力の限界だったのか、病院に着いてメリーの無事を見届けた後に気を失ってしまったのだ。
目が覚めると病室には母親がいて、こっぴどく叱られた。
けど、ひとしきり怒り終えた後には、よくやったと褒めてくれた。
今回の事件はその内容の異常さだけでなく、地方自治体にまで発言力のあるメリーの家柄もあって、ちょっとしたニュースにもなった。
もっとも、多くの政治ネタやスキャンダル問題などにすぐに埋もれてしまったが。
世間からその話題が忘れ去られた後も、事態が完全に収束するまでは時間がかかるらしく、おばさんを始めあの家の人間が裁かれるのも幾つかの裁判を経てからのことらしい。
俺は何度も事情聴取で警察に呼び出され、母親には詰問され、大学で幾つかの単位を落とすことは最早確定的だった。
メリーもメリーで大変だったらしく、新しい後見人のことや、怪我の療養、事件の顛末の調査など、しばらくはバタバタとしていた。
――後から聞いた話だが、メリーの身体の傷は、打撲や骨折などが多くを占め、裂傷などは少なく、大人になっても残るような傷跡は極々一部とのことだった。
俺が見たあの数々の大きなアザも、これから成長と共に次第に消えていくらしい。
俺はその報告を聞いて胸を撫で下ろすような気持ちになったが、僅かとはいえ傷跡は残ってしまうことと、メリーが受けてきた精神的外傷を考え、頭を振った。
不謹慎で、他人事のような考えだなと、自己嫌悪に陥った。
事態の収束に時間がかかるのは、何も対外的なことだけじゃない。
あいつが味わってきた経験は、あまりにも辛く、重い。もしかしたら死ぬまで付き纏う問題なのかも知れない。
メリーと再び会うことが出来たのは、年も明けあの夜から一カ月近くが経った頃だった。
久しぶりに話したメリーは俺の緊張などを吹き飛ばすぐらいに明るく、いつも通りだった。
俺が知っているメリーのままで、それを見てどこかホッとした。
その後、時期を見てメリーと共に再びあの屋敷へと訪ねることになった。
入口には相変わらず仁王のような警備員が立っており、強ばる俺を余所にメリーは明るい調子で話しかけた。
「おじさん、久しぶり!」
「……ええ、お久しぶりです」
「ずっと立ってるの疲れない? 大丈夫?」
「……今は昼間だけなので大丈夫です。お気遣いありがとうございます」
「なら良かった!」
メリーが一点の曇りもない笑顔でそう喜んでみせる。
俺は、そのメリーと仁王様の距離間を不思議に思いつつ、軽い会釈をした。
警備員はその会釈に何の反応もしなかったが、敷地に入る時、すれ違い様にボソッと呟いた。
「……学校に通われているときも、同じように毎日心配してくれていたんだ」
メリーにはその声が聞こえていなかったらしく、俺だけが振り返る。
言葉を溜めるような話し方をする警備員が、振り返った俺にさらに言葉を溜めて一言だけこう言った。
「…………ありがとな」
俺はその言葉を聞いて、先ほどの会釈と違い、深々と頭を下げた。
門をくぐると、家の人間はもうその屋敷には住んでいないそうで、代わりに使用人達が勢ぞろいで迎えてくれた。
以前来た時は気付かなかったが、結構な人数がいるように思えた。
その中には当然、あの仏頂面の家政婦の姿もあった。
メリーはその姿を確認すると、すぐに彼女の元へと駆けて行き、まるでじゃれる子犬のように嬉しそうにしていた。
――今回の件で、家政婦が俺を手引きしたことは、彼女たっての希望でメリーには内緒にすることにした。
何故かと俺が訊ねると、彼女は少しだけ暗い表情をした。
「お嬢様は、ただでさえ辛い思いをし、ご自身の遺産についてなど、人間の汚い部分をたくさん見てこられました。これ以上、私のしがらみや画策など、大人のくだらない事情などを知ってほしくないのです。それに、あなたはああ言って下さいましたが、やはり私はお嬢様が辛い思いをされていたとき、それを止めることが出来なかったのですから」
そう言った彼女は、まだ自分のことを責めているのだろう。
メリーがじゃれてくることに対しても、どことなく遠慮がちというか、どう接していいか困っている節があるように見えた。
きっと、真面目すぎる人なんだろうと、素直に思った。
真面目すぎて、だから不器用で、気の毒にさえなる。
しかし、メリーはそんな彼女を気にも止めずに懐き、そして礼を言った。
「ありがとう、お姉ちゃん」
「何がでしょうか?」
「ふへへ、色々だよ」
「はあ。いまいち理解しかねますが」
彼女は、メリーが何を言っているのか分からない様子だったが、俺には何となくそれが分かった。
メリーはおそらく知っているのだ。それこそ色々と。
「お兄ちゃん、それじゃあちょっと待っててね」
そう言うとメリーは、先に来ていた自分を預かっている施設の人間と弁護士と共に屋敷の中へと入っていった。
その後の事後処理で、まだやることがかなりあるらしい。
俺はというと、屋敷の中に入る気にはなれず、無駄に広い庭のこれまた無駄に大きな池の前で、しゃがみ込みながらボーっとしていた。
水面に自分の顔がぼんやりと映り、そして、いつの間にか背後に誰かが立っていることに気付く。
もはや俺は驚くことも振り返ることもせずに呟いた。
「なぁあんた、その人の後ろを取る癖なんとかしろよ」
「私は鯉に餌をやりに来ただけですが」
そこには、変わることのない無機質な顔があった。
世間話をするような間柄ではなかったのでしばらくは二人とも無言だったが、ふと気になったことがあったので訊ねてみた。
「そういえばあんた、かなり準備してくれてたみたいだけど、俺があの日来なかったらどうしてたんだ?」
「私はあなたが来ると確信していましたよ」
「何でだ? あんたは俺に会ったこともないだろ」
「お嬢様が、あの檻から出られたからです」
「どういう意味だよ?」
相変わらず言葉が足りない。
俺は説明を求めるように彼女の方を向いた。
「学習性無力感、というものをご存知でしょうか」
「……いや?」
「生き物は、自分では抜け出し難い過酷な状況下に置かれると、そこから抜け出すこと自体を諦めるのです。苦痛も理不尽も孤独も受け入れて、ただ耐え続けるようになります。それは、虐めや家庭内暴力、犯罪被害者や奴隷、実験動物などが陥る症状です」
「……」
誰の、いや、誰と誰のことを言っているのか、分かった。
俺は何も言わず彼女の言葉に耳を傾けた。
「抗うということは、それだけで途方もない労力が必要になります。継続する理不尽は思考と精神を麻痺させ、次第にそういうものなのだと、囚われた考えを擦り込みます。状況を変えようとすることで、より酷い目に遭うのではないかと恐怖します。耐え続ければいい、苦痛が過ぎ去るのを待てばいいと受け入れます。或いは、自分の全てを諦めてしまうのかも知れません」
彼女が淡々と話しながら、池の鯉に餌をやる。
それを聞きながら、俺はメリーがあの場所に戻ろうとしていたことを思い出した。
「あなたにとって、あの檻から出る際の一歩は、何気ないものだったかも知れません。お嬢様を探し続け、助け出す、その過程のほんの一歩に過ぎなかったかも知れません」
確かに、意識なんてしていなかった。
そんなことを考える余裕なんてなかったから。
「けれど、お嬢様がたった一人であの檻から出ることに、その一歩を踏み出すことに、どれほどの勇気がいったでしょう。どれだけの、恐怖や葛藤を振り切る必要があったのでしょう。それまで経験された暴力を、否定され続けた言葉を、様々な苦痛を、今まで以上に浴びる覚悟がなければ決して叶いません。それは、結局私には踏み出すことが出来なかった一歩です」
最後の一言は、メリーへの尊敬と自分への戒めが入り混じったものだった。
俺にはメリーと彼女が置かれていた状況が、どれだけ過酷なものだったのか想像も付かない。
どれだけ話を聞いても、どれだけそれに心を痛めても、分かるだなんて、口を裂けても言ってはいけない気がした。
「ですから、お嬢様が連れ戻され、あなたに会えたのだと分かったとき、私はいつか必ずあなたがこの屋敷に訪ねてくるだろうと確信していました」
「なんでだ?」
「お嬢様を外へ踏み出させた存在があなただったからです。その一歩がどれだけ重かったのかを、私は知っています。それほどまでに縛られていたお嬢様を動かした人間を、信じないはずがないでしょう。そんな存在が、ここに辿り着かないなんてことは有り得ません」
「……あんたもメリーも、俺を買い被りすぎだ」
本当に、買い被りすぎだ。
俺は、そんなメリーや彼女の覚悟や苦悩すら想像出来ていなかったのだから。
「買いかぶってなどいません。なにしろ、お嬢様が戻られた翌日に来られる考えなしだとは思いもしませんでしたから。しっかりと助け出す計画と準備を行った、優秀な方が訪れるものだと思っていました」
「そ、それは……」
「蓋を開けてみれば、奥様の言葉を鵜呑みにし、当てもなく一日中街を彷徨って、挙句お嬢様を幽霊だなどと思い込んでいたどこか抜けた男でした。おかげでこちらは準備に急を要しました」
「うっ……。わ、悪かったよ。あの日は本当に助かった」
「いえ、それでも私が出来たことは、そう大したものではありません。それに、実際にあなたはお嬢様を助け出したのですから。あの日、初めてあなたに会って、あなたがどれほどお嬢様を想っているか、分かりました。何故、お嬢様があなたに会いに行ったのか、あの一歩を踏み出せたのか、分かった気がしました」
ここで彼女は、眉根を寄せながら薄らと笑った。
それは、安堵とやるせなさが同居する、儚げな微笑みだった。
「――もしかしたら私は、あなたに嫉妬しているのかも知れませんね」
自嘲するように零したその一言が切なくて、俺は自然と口が開いた。
「……なぁ、もう一つ聞くけど、何であいつがあんたに助けを求めなかったか分かるか?」
「それは、私が不甲斐なかったせいでしょう。私は所詮この家の言いなりです」
「違うよ。そんなはずないだろ」
「何故そう言えるのですか?」
「自分を助けたら、助けた人間が同じ目に遭わせられる。あいつがそう言ってたんだ。多分、俺の家から出て行ったのも同じ理由だと思う」
「お嬢様はそれだけあなたを大切に思っていたのでしょうね」
「俺だけじゃないだろ。俺の家に来る前から、自分と同じ目に、酷い目に遭ってほしくないって思っていた相手がいるんだよ」
そう言われた顔は、無表情というよりもキョトンとしたものだった。
どうやら、本当に分かっていないらしい。
本当に、メリーといい、この人といい……。
「あいつが、作り笑いであんたに接してたと思うか?」
「なんのことでしょうか」
「自分で言ってただろ。あんな場所にいても、あんたにだけは笑いかけてくれてたって。なんでそんなあんたに一度も助けを求めなかったか、考えてみろよ」
俺は立ち上がると、家政婦の目を見ながら告げた。
「……酷い目に遭わせたくなかったからだろ。そして、自分と同じ目に遭わせたくないってことは、助けを求めたらきっと、あんたは助けてくれちまうって、そうあいつは分かってたんだ。だから何も言わなかったんだ」
「――っ」
細く白い手から、鯉の餌がトシャリと滑り落ちた。
そのまま言葉を返すこともなく、微動だにせず固まる。
「わ、わたしは……」
辛うじて一言だけ絞りだし、けれどその後は、まるで情報を処理しきれない機械のように、途中で完全にフリーズしてしまった。
本当に、どうしようもないぐらい不器用だ。ちょっと考えれば分かることなのに。
この家の人間がメリーに助けを求めないよう擦り込んだのは、当然だけど疎遠になっていた俺を想定してのものじゃない。
もっと身近な人間が、情にほだされないようにだ。
そして、助けを求められずとも葛藤していたのは、自分を責めていたのは、メリーが口を閉ざして守っていた相手は、紛れもなく彼女だった。
未だにフリーズしているその顔を見やる。
瞬き一つもせず、放っておいたらそのうち頭から煙が出てきそうな様子だったので、俺は呆れて声をかけた。
「自信を持てよお姉ちゃん」
「お姉ちゃん?」
「そう呼ばれてただろ。あいつがあのだらしない笑い方をして見せるのは、きっと俺とあんただけなんだと思うよ」
「お嬢様はだらしなくなどありません」
「そうだな。あいつは強くて優しくて立派だよ。だから、そんなお嬢様に好かれてる自分のことを、もう少し許してやったらどうだ?」
「……」
「あいつはきっと、負い目を感じられるより、もっと距離を縮めたいって思ってるよ」
「……そう、でしょうか」
それ以上俺は何も話しかけなかった。
彼女には考える時間が必要なのだと思う。
今この瞬間のことだけではなくて、この先長い長い間、失ったものを取り戻すために。
それから俺たちは、一言も言葉を交わさず、ぼんやりと二人で池を眺めていた。
やがてメリー達が屋敷の中から戻ってきたので、俺たちは帰り支度を済ませた。
まだ日は出ているが、距離が距離なため家に着く頃には夜になっているだろう。
改めて家の人間たちに挨拶をし、門のところまで見送ってもらった。
最後に家政婦の彼女がメリーを呼び止める。
「お嬢様……、あの……」
その後の言葉は続かなかった。先ほどと同じように停止してしまい、何を言おうとしたかは分からない。
ただ、遠慮というか、色々計りかねていることだけは見て分かる。
けれど、その距離をメリーは簡単に埋めてしまった。
彼女に一歩近付くと、その棒立ちになっている身体に思いっきり抱き付いたのだ。
「へっ!?」
「お姉ちゃんは優しいね。私、大好きだよ」
「めっ、滅相もありません! 勿体ないお言葉です!!」
戸惑うようにしながら、珍しく家政婦の頬が桜色に染まる。
メリーと一緒で色白だから分かりやすいことこの上なかった。
そしてメリーは俺と彼女の手を取って間に立つと、交互に俺達の顔を見比べながら朗らかに笑った。
「私メリーさん、今大好きなお兄ちゃんとお姉ちゃんに囲まれてるの!」
ご機嫌といった様子で繋いだ手を前後に振る。
正直、俺も相当恥ずかしかったが、家政婦が赤い顔をしながらうろたえる様子が面白かったので、しばらくそのままメリーに付き合った。
結局、屋敷を後にするときまで家政婦は顔を赤らめていて、俺は終始吹き出しそうになるのをこらえていた。
帰りのバスの中で、俺は気になっていたことをメリーに訊ねてみる。
「この屋敷に来るの、嫌じゃなかったのか?」
「えっと、あまり好きな場所じゃないけど、お姉ちゃんにどうしてもお礼が言いたかったから」
何気ないその言葉には、彼女への信頼が詰まっているように思えた。
おそらく二人には、俺なんかには分からない絆があるのだろう。
「それに、お兄ちゃんが一緒に来てくれたから!」
そうこっちを向きながら、パッと笑った。
俺も笑顔を作って返し、メリーの頭に手を置いた。
あの屋敷の敷地は、数か月の後、売却することが決まっているらしい。
メリーの新しい後見人が付けた弁護士がそう提案してきたのだ。
あの地下室も、家の者が建てた新しい建物ごと壊される予定だ。
使用人達は、メリーのお爺さんの知り合いなどの計らいで、新しい就職先が決まっている。
あの家政婦はというと、どうやら大学に進むことを考えているらしい。
どこの大学とは教えてくれなかったが、メリーに進んで勉強を教えていたぐらいだ、頭はいいのだろう。
それぞれの行く末が決まり、現実は動き始めていた。
俺はといえば、特に変わることはなく、バイトと大学生活に勤しむ、あの古いアパートでのいつも通りの生活に戻っていた。
――そしてメリーは、新しい後見人である祖父と共に、母親の祖国へと帰ることになった。
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