第22話

 長い長い道を、一歩ずつ踏みしめるように歩いていく。

 あの後、俺は屋敷の裏口を出て、昼間と同じようにひたすら歩き続けていた。

 ただ一つ違うのは、今は背中にメリーがいるということだった。

 坂を下り、この街に来た時とは違う道筋を辿る。


 屋敷を出た後のことだが、あの仁王のような警備員と鉢合わせしたときは肝を冷やした。

 しかし、蛇に睨まれた蛙のように固まる俺に、警備員は毛布とパンとメモを差し出してきた。

 どうやら、最初から家政婦と通じていたらしい。

 一言だけぶっきらぼうに、『風邪ひくなよ』と言っていたのが印象的だった。


 俺は礼を言いながら毛布をメリーに被せると、そのメモを開いた。

 中には、家政婦が書いたであろう綺麗な女性の字で、屋敷を出た後にどうするべきかが書いてあった。

 メリーが一度抜け出したため、家中では以前より警戒しているらしい。

 そのため、万が一にメリーが再びいなくなったことが即時発覚したときに備え、通常通る都市部に出やすい道順は進まないようにとのことだった。

 見付からないよう、敢えて分かりづらく、遠回りの道筋が記されていた。

 また、一番近い大きな街はあの家の影響を強く受けるため、念の為にもう少し離れた街で保護を受けるようにとも書いてあった。


 石橋を叩いて渡るかのような慎重さだった。

 ただ、その内容を見たときに思ったことは、表面上は分かりにくいけれど、彼女がそれだけあの家の存在と力を大きく感じ、恐れているのだろうということだ。 

 俺はそんな彼女に言われたことを素直に受け入れ、遠回りの長い道筋を歩き続けている。


 どれぐらい歩いただろう、俺は目が掠れそうになるというのを初めて体験した。

 昨日は、いなくなったメリーのことを考えて殆ど眠れなかった。

 昼間は、メリーの手がかりを探すために歩き続けた。

 あの場所に行くため、家政婦の彼女との約束を果たすため、寒空の下で何時間と待ち続けた。

 そして、今、探し続けたメリーを背に、再び俺は歩き続けている。


 正直、体力は限界だった。

 足先の感覚はとっくになくて、ちょっとした道の起伏や小石にさえつまずきそうになり、思わず転んでしまいそうになる。

 上着をメリーにかけたことで、容赦なく風が体温を奪い、芯まで凍えてしまいそうだ。

 けれど、立ち止まろうとは、腰を下ろそうとは、欠片も思わなかった。

 俺たちを送り出してくれた、彼女のために。

 背中に吐息を感じる、メリーのために。


 その後も山道を登ったり下ったりしながら、ようやく大きな道へと出た。

 彼女の書いた手紙によると、このまま真っ直ぐ進めばバス停に辿り着くらしい。

 朝焼けが近いのか、道の先に広がる空が白み始めていた。

 俺はそこで初めて一度立ち止まった。

 そして、歩いてきた背後を振り返る。

 空を見上げると、そこには未だに昨日の夜が広がっていて、けれど、確かにその闇が今日の朝に塗り変えられていく。

 揺れかけている膝に力を入れ、メリーを背負い直すと、俺は再び前を向いて歩き始めた。


 幸いにも、バス停には始発前に辿り着くことが出来た。

 簡素な作りの停留所は木製の小屋のような作りで、お世辞にも綺麗とは言い難い。

 それでも今の俺には十分すぎるほどありがたいものだった。


 古びた椅子の上にメリーを寝かせ、毛布と上着をかけ直し、その小さな頭を自分の膝の上に乗せる。

 朝日が斜めから差し込み、僅かながら温かみを感じた。

 腰を下ろしたことで溢れた疲労から、遠のきそうになる意識をなんとか繋ぎ止め、メリーへと視線を落とす。


 すると、陽の光が眩しいのか、瞼に縁どられた長いまつ毛が細かく震えていた。

 少しうなされるような寝息に心配しながら、その顔を見つめる。

 安心させたくて触れた頬は冷たくて、けれど柔らかかった。

 そのまま見守っていると、やがて、その瞳がうっすらと開く。


「……私メリーさん、今、……どこに、いるの……?」


 小さな唇からそう声が漏れる。

 まだ憔悴しているのだろう、その様子は頼りなげで、意識も混濁しているように見えた。

 差し込んだ光に目を細め、俺のことも満足に分かっていないようだ。


「バス停だよ。今から、街の方に出るんだ」

「………おにい、ちゃん?」

「あぁ」


 少し驚いたような様子で、半ば呆然としながら、それでもはっきりとメリーは俺の顔を見た。


「夢じゃ、なかったんだ……」


 うわ言のようにメリーが呟く。

 その様子から、あの地下室で再会したことを現実だと思っていなかったらしい。

 ただこれは、夢なんかじゃない。

 メリーが生きていたことが、再び会えたことが、今ここにいることが、夢であってたまるか。

 もし夢だというのなら、メリーの両親が亡くなったときから、全部夢であってくれ。


 しかし、再会出来たというのに、あの場所から抜け出すことが出来たというのに、何故かメリーの顔は浮かないものだった。

 疲れた様子で、曖昧に俺に訊ねる。


「……どうして?」

「お前に、会いに来たからだよ」

「……なんで?」

「どうしても、もう一度会いたかったから」

「……そっか。私も、お兄ちゃんに会いたかった」


 その主語のない問いかけに、俺は出来る限り素直に答えた。

 自分の気持ちを隠したくなかった。

 伝わってほしかった。

 けれど、メリーが続けた言葉は、俺の予期しないものだった。 


「でも、私、戻らなくちゃ……」

「……え?」


 その言葉の意味が分からなくて、一瞬思考が止まった。

 戻る? いったいどこに?


「な、何言ってんだよお前。戻るって、あの屋敷にか? あの地下室の、あの檻の中にか?」

「うん……。あそこに帰らなくちゃ……」

「なに馬鹿なこと言ってんだよ!? なんでまたあんなところに行く必要があるんだ!」


 メリーの意図がまったく分からなくて、思わず声を荒げる。

 帰るって、いったい何言ってるんだ。


「あんな場所、家なんかじゃねぇよ! 帰るっていうなら、俺の家に帰ってこいよ!!」

「……お兄ちゃんは、優しいね。……だから、困っちゃう」


 そうやってメリーは弱々しく笑った。

 俺が嫌いな、悲しんでいるような、何かを諦めているような、そんな微笑みだった。

 けれど、俺はもう知っている。なんでそんな風に笑っていたのかを。

 こいつが置かれていた状況を。

 どう生きてきたかを。


「お前の世話をしてたっていう女の人から、全部、聞いたよ。今までお前が、どうやって過ごしてきたか。どういう風に扱われてきたか」

「……そうなんだ」

「だから、もう隠さなくていいんだよ! 全部知って、あんな場所に帰させるわけないだろ! なんでだよ? なんであんなところに戻ろうとするんだよ?」


 メリーが語らなかったその背景を、俺はもう知っている。

 だからもう、隠さなくていいんだ。

 もう、抜け出すことが出来るんだ。

 素直に助けを求めていいんだ。

 それを分かってほしかった。


 メリーは俺の顔を見上げながら、少し瞼を伏せると、やっとその口を開いた。


 そして、ずっと閉ざし続けていた、その胸の内を開いた。


「……確かに、あそこは嫌い。寒いし、暗いし、お腹が減るし、クモも出るから」

「それだけじゃ、ないだろ」

「……うん。あそこ、狭いんだ。どこにも行けないから、なにもすること出来なくて、どこにも逃げられなくて。おうちの人が来るとね、すごく怖かった。……痛くて、苦しかった」

「じゃあ何で」

「それでね、おうちの人が私を叩きながら言うんだ。お前はいらない人間なんだって。いない人間なんだって。ずっとここから出られないんだって。もしおうちの人以外が私のことを知ったら、その人も私と同じ目にあわせるって」

「――っ」


 その言葉を聞いて、一瞬で全てが繋がるよう衝撃を受けた。

 メリーはそんな俺の様子にも気付かず、疲れたような様子で、それでも言葉を続けた。


「ここから逃げたとしても、無駄だって。誰かが連れ出したとしても、また絶対に連れ戻すって、そう言ってた。外の人は誰もあのおうちに逆らえないからって、誰に言っても、助けてなんかくれないって、……そういう人がいたら私と同じ目にあわせるって、そう言ってたの」


 やっと、やっと意味が分かった。

 メリーは、こいつは……。


「私はもういないって皆思ってるし、誰も私のことを見付けられないし、死んじゃうまで、私は一生ここから出れないんだって。だからね、あの扉が開いてたとき、思っちゃったんだ。もしこのまま死んじゃうなら、その前に、もう一度だけでいいから、お兄ちゃんに会いたいなって……」


 そう言って、メリーは申し訳なさそうに笑った。

 まるで、悪いことをしてしまったとでもいうかのように。

 わがままを言ってしまったとでもいうように。

 俺は、メリーの額を撫でるようにして、その視界を遮った。


 今までの歯がゆさや、苛立ちを感じていたことの浅はかさを知る。

 何でメリーが、自ら俺の前から姿を消したかが分かった。

 一緒にいても、頑なに口を閉ざし続けていた理由が分かった。

 諦めているかのように、困ったように笑う、あの表情の本当の意味を理解した。

 あれは、俺を不甲斐なく思っていたわけじゃない。拒絶していたわけじゃない。


 ――全部、俺を、守るためだったんだ。


 辛いからこそ、苦しいからこそ、俺を同じ目には遭わせたくなかったんだ。

 なにより自分がその痛みを知ってるから、自分一人でいいんだって、巻き込みたくないんだって、そう決めて、こいつは何も話さなかったんだ。


「……」

「どうしたのお兄ちゃん? 手、どけて? 何も見えないよ?」

「……朝日、眩しかっただろ」


 どけられるわけがない。

 とても、こいつに見せられるような顔をしていないだろうから。


「まだ身体も痛むだろうし、疲れてるだろ。このまま寝ちまえよ」

「だけど、私、戻らな」

「戻らなくていい」


 出来るだけ優しく、けれど、はっきりと、メリーの言葉を断ち切った。 

 全てを知ったから、だからこそ、今度こそ、俺を信じてもらいたかった。


「お前が戻るっていうなら、俺も一緒に戻る」

「そんなのダメだよ!! ……お兄ちゃんは、おうちに帰って。私は一人で戻れるから」


 起き上がろうとするメリーをそのまま抑え、俺は静かに呟いた。


「一緒にいたいって、そう言ってくれただろ」

「それは……」

「お前がまたあの場所に戻るっていうなら、俺も一緒に閉じ込められてやる。寂しくないよう、痛くないよう、俺がずっと一緒にいてやる。……だけど、それじゃ意味はないから、今度は、今度こそはお前をあんな場所に帰さない」

「……」

「もう二度と、勝手に消えたりなんかするなよ。もうお前を、一人にしたり、傷付けたくないんだ」


 俺の手に覆われたその小さな顔が、呆けるように、少しだけ口を開けていた。

 まるで、考えもしなかったことを言われたように。


「お前は、俺とあの家の人間、どっちのことを信じる?」

「お兄ちゃん」


 訊ねたこちらが驚くほど、躊躇のない即答だった。

 だから俺も、迷いなく言葉を続けた。


「だったら、あの家の人間の言うことなんて、全部忘れちまえ。全部嘘なんだって、お前はあそこから抜け出すことが出来るんだって、これからは外で生きていけるんだって、俺が証明してやるから」

「……」

「俺の言うこと、信じられないか?」

「……ううん」

「そっか。だったらもう、寝ちまえ。起きたら、きっと今までとは違う世界が広がってるはずだから」


 そう言いながら、俺はメリーの額を撫でた。

 そのまま少しだけ何か言いたげにしていたが、けれど、その言葉は飲み込むことが出来たらしい。


 お互いに無言でいると、やはり疲弊していたせいか、やがてメリーは寝息を立て始めた。

 それは、先ほどまでと違って、どこか安らかな響きをしているような気がした。


 膝にかかる小さな重みが、その吐息が、胸を熱くさせる。

 顔を上げると、遠くの稜線が朝日に照らされ、ぼやけた視界にきらきらと瞬いていた。

 メリーの目元から手を外し、そして今度は自分の目元を抑える。


「……本当に、人には見せられないな」


 俺はバス待つ間、いつまでも、メリーの頭をなで続けていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る