1-1-3 「昏睡の末に」

 理性が火の手に壊されることを恐れ、本能を押し殺して無事に摩天楼から抜け出すことができた。疲れ知らずの体が功を奏した。


 延焼を続ける摩天楼を眺め、なんとなく持って帰ってきてしまった模造品の足を右手に、空を眺める。

 凍てつく鋭い風が吹き荒れ、煤に変わった木材が群青色と黒色の空に重なり、満点の黒い星々が存在を煩わしいほどに主張していた。


 冷え込んだ世界を冷点が捉えた。


 燃え続ける上層から目を離せず、その場に座り込む。もう追われていないという確信は無いので一刻も早くここから離れるべきなのだろうが、どうしても立ち去りたくない。


 寄る辺の無いこの世界で、今にも焼死しそうな摩天楼だけが頼りだった。いや、頼りだった訳ではない。愛着を感じてしまったのだ。


 壊れてしまえば、動かなくなってしまう。

 壊れた町で、手に届く場所に生物が現れた。


 そうこう思案している内にも一つ、また一つと木が骨折していく。

 死の音が心地良い不規則なリズムを作り上げる。


「あったかい……」


 熱源へ手をかざすと、温点が熱を掴んだ。

 肉の焼けた臭い、燻ぶった臭い、彼らの臭い、微かな油の匂いが頭を支配する。


 殺されないために、相手を屠った。殺した。


 肉塊に掴まれた足と手のひらを恐る恐る交互に見ると、どちらにも煤のような黒色の血痕が残っていた。それは、上っていく最中に付着したものだ。

 もしくは、逃げてくる途中で。血痕であるはずがないのに、錯覚が襲う。


 拙い思考を破棄する。

 言葉に成らず処理された音が空気に溶けた。


 三度船を漕いだ後、それは倒れるように意識を失った。



 何もない世界を歩いていた。視覚情報の混濁に混乱していた記憶系の処理が終わり、いつでも整然とした記憶として思い出せるようになっていた。

 自分は、何かを殺した。


 もちろん手足にその感覚は残っていない。

 第三者目線から非日常を体験したことを理解して、絶望的な死の淵を走り切ったことに胸をなでおろした。


「このまま、放り出されたらどうしよう」


「いや、放り出さないよ」


 知らない声に飛び起きて、声の主を探す。しかし探すまでもなく、いつのまにか実体は目の前にいた。黄緑色の瞳を輝かせ、こちらの顔をまじまじと見つめ興味深そうな笑みを浮かべている。

 白く短い髪に不釣り合いなお下げが揺れている。白い丸底眼鏡に、黒いリボン。どこかの制服だろうか、やはり白い洋服を着ている。

 ほとんど白に包まれた実体が現れた。


 実体は戸惑い無くそれの頬に触れる。


「おやあ、珍しい。実体があるね、ご主人様?」


 執拗に身体に触れ、眼球に指が近づいたとき驚いたように強く実体の手を掴んだ。眉を顰め、もの言いたげに視線が衝突し、すぐにそれは口を開く。


「ご主人様じゃない」


「いんや、君はご主人様だよ。だってここにいるじゃない」


 強く掴まれているはずの手首がするりと逃げ出していく。満足したのだろうか、触れることを諦めていつからか用意されていた椅子に座った。

 あなたもどうぞ、そう言いたげに手振りで着席を促されてそれは自分用の椅子に座った。


「改めまして、ご主人様。ボクはご主人様と契約を結びに来た。分かっていると思うけど、ボクらは今お互いに欠けた同士なんだ」


 欠けた同士。つまりは相互補完を目的とした取引を持ち掛けていると察する。確かに自分には無いものだらけだ。知っていることのほうが少ない。

 だが、同時にこの怪しい存在を心から信じ切ることができなかった。


「ボクは君に、この身体の意識下での永住権を請求する。その代わりにボクは君に情報を与えよう。もちろん、ボクが知りうる範囲に限るけどね」


 「例えば、」と続けながら右の手のひらの上に紅色の結晶を乗せる。静聴するそれに見せつけるように、実体が手首の角度を変えると結晶が反射して嗜好品の輝きを放っていることに気づく。


「これはスチータス。オートマタの核、心臓だ。」


 ふいに結晶を差し出され、受け取ると色が変わり続けていることに気づく。深い紅色から鮮やかな牡丹色や朱色に変化する。四角錐を二つ組み合わせた形をしている結晶を目を離さずに観察していると、実体は言葉を続ける。


「これはご主人様の複製なんだけどさ、向こうの出来事に反応して逃げ出したり噛みついたり色ヘンしちゃってさ、最初に作ったときはボクも笑っちゃったよね。ヒトのそれみたいでさ。それにね、――」


 喋り続ける実体はこちらに興味を示していない。自身の経験談を一生懸命に話して、ついに自分の世界へ行ってしまった。

 むしろ交渉よりこの知識披露が目的ではないのか、というぐらいお喋りな実体は最初の一言からここに至るまでこちらに発言権を渡さなかった。


 力を注ぐと振動が大きくなり、ついにスチータスは崩壊してしまった。

 緩やかな風化と共に脱色していく灰色の欠片を眺め、突然受け止めてしまった逆光に目を逸らし、自身の手を眺めると力を加えすぎたことを後悔した。


 「ああ」と残念そうに言葉を漏らす実体に多少申し訳なく思いながらも回る口が止まったことで、すかさず実体に質問する。 


「信じられない、と言ったら」


「言える立場じゃないでしょ?」


 まだ分からない? そう言いたげに首をかしげる。


「君は今、武器や防具なしに荒くれ者が横行している荒野に立たされている。ボクの手を取れば、最高の装備を手に入れて最強なスタートで始めることができる。でも、もし仮にボクの提案に乗らなければ」


「乗らなければ?」


「ま、次の目覚めで破壊されて終わりだね」


 人差し指を立てて、笑う。

 それが確定事項であるという自信を持って、不気味な実体は笑っていた。

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