第四回 孫策、乱世に立つ

 孫策そんさく。字は伯符はくふ孫堅そんけんの子である。

 孫堅は海賊退治で名を馳せ、奸賊かんぞく董卓とうたくと渡り合い、それを打ち破った英雄だ。しかし、彼は袁術えんじゅつの部将に過ぎず、生涯において基盤を持つことはなかった。孫堅の死後、息子に遺されたのはその武名のみである。

 また、ややこしいことに、孫家の家督は従兄の孫賁そんふんが継いでいた。孫策はその才能と覇気を持て余しながらも、親友である周瑜しゅうゆとともに江東に割拠する案を胸に秘める。


 余談ではあるが、字について述べたい。古代中国において名は軽々しく呼ぶべきものではないとされた。孫策の場合は策、太史慈の場合は慈が相当する。そのため普段使いするために字が用いられた。

 太史慈たいしじ子義しぎの場合、「子」は敬称であり、「義」は「慈」との関連でつけられたものだろう。

 それに対して、孫策の場合、「伯」は家族関係を表している。日本語でも「伯父」「伯母」といった言葉に名残はあるが、「伯」とは長男を示す言葉だ。彼の弟の孫権そんけん仲謀ちゅうぼうであり、孫翊そんよく叔弼しゅくひつである。「仲」は次男を指し、「叔」は三男を示している。これもまた、「叔父」「叔母」という言葉に名残が残った。

 この後は「李」「幼」と続いていく。


 閑話休題。

 孫策は父の死後、袁術の下に身を寄せ、孫堅の兵の返却を求めた。戻ってきたのは千余名ほどであり、寡兵であったが、袁術の下でたびたび功績を立てた。袁術配下の部将のことごとくが孫策に心酔し、袁術もまた「孫郎のような息子がいれば心残りはないのに」とたびたび漏らす。しかし、袁術はその手柄に報いようとはせず、孫策は彼に失望した。


 そんな時である。伯父の呉景ごけいと従兄の孫賁が劉繇りゅうように苦戦し、揚州を追われる。本来の揚州刺史ししは劉繇であり、呉景らは袁術が勝手に任命したに過ぎないのだが、乱世においてはそれほど重要ではない。これは孫策にとって好機であった。

 孫策は彼らの救援に向かうと宣言し、袁術の下を出立した。千余名に過ぎなかった孫策の軍勢には行軍するごとに人が集まり、五千、六千と膨れ上がっていく。


 孫策は電撃的な用兵で、瞬く間に劉繇の支配する揚州を切り崩していった。

 渡河戦では船の代わりに葦でイカダを作って強襲し、自身が負傷すると、それを逆手にとって自分の死を宣伝して籠城する敵をおびき寄せた。

 また、孫策軍は軍紀が行き届いており、僅かな暴行や略奪も許さず、孫策に占領された町はこぞって彼を歓迎したという。


 そんな中、徐々に追い詰められていったのは劉繇である。

 彼は斉の孝王の末裔であり、叔父は漢の太尉、兄は兗州刺史という、生まれながらのエリートだ。また、十九歳の時、賊に捕らえられ人質になった叔父を奪い返したという武勇伝もあり、血統だけではなく、確かな実力を持った人物であった。


 劉繇は揚州刺史となるが、揚州には赴任せず、呉景や孫賁に睨みを利かせるため、曲阿きょくあに居を構えた。揚州は長江が天然の要害として機能した土地である。その守りを効果的に利用すべく、樊能はんのう張英ちょうえいといった水軍の扱いに長けた部将を任用した。

 また、次代の覇者である曹操そうそうと盟約を結んでおり、先見の明もある。


 三国志演義や講談では孫策に対するやられ役となってしまうものの、劉繇は有能な人物だった。実際、呉景や孫賁相手であれば優位に立ちまわっていたのだ。

 しかし、孫策は規格外に過ぎた。彼の天才的な軍略の前にはただ敗北が積み重なっていくのみである。


 そんな絶望的な状況の中、太史慈は劉繇の麾下きかに加わった。

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