第二回 孔融、奇人を貴ぶ

 孔融こうゆう。字は文挙。青州郡の曲阜きょくふ県の人である。

 孔融とは何者か。

 それを語る前に、彼の先祖に当たる孔子が始祖となった儒教とは何かを説明したい。


 古代中国にあって、宗教とは道教か儒教であった。

 道教の始祖は老子とされているが、その存在自体が真偽不明であり、そのせいか土着の宗教すべてを含んで道教と語られることが多い。単純に理解するならば、仙人になることを目指す宗教というところだろう。


 なお、仏教は後漢時代にはすでに流入が始まっているものの、まだ新興宗教に過ぎず、やはり道教の一部あるいは亜流と目されていた。仏教が本格的に広まるのは、有名な三蔵法師の西遊を待たなければならない。


 それに対して儒教は先進的な教えとして捉えられていた。聖賢の政治を理想とし、社会秩序を守ることを教義とする。


 わかりやすい例を出したい。宗教における使命の一つに死の克服がある。

 道教では仙人になるために厳しい修行をすることで死を克服することを示している。

 それに対し、儒教は神になることで死を克服するが、その方法は至って明快である。それは先祖を神として祭ることだ。祭られた先祖は神となるが、同じように子孫が自分を神として祭れば、今度は自分が神となる。それを繰り返せばいいだけだ。


 儒教は儒学として学ばれ、儒学を習得したものは儒家として尊敬された。彼らは孔子の教えを規範として社会に大きな影響を与え、後漢時代の政治は儒教を大きく意識したものである。しかし、規範を重視するその教えは愚鈍さを生む。後漢末期の腐敗と停滞において、儒教の影響があった面も否定できない。


 そんな時代にあって、孔子の二十代目である孔融はそれだけで大きな存在であった。さらに頭脳明晰であり、学問好きなため博識であり、若くして異才を示している。だが、同時に欠点も多く、儒家の腐敗を象徴する人物でもあった。

 彼には厄介な性分がある。一つには直言居士であり、時の権力者であろうと厳しく詰め寄った。それが彼を死に至らしめるのが、それはまた別の話である。

 もう一つは奇人を貴ぶことであった。


 三国時代の覇者、曹操そうそうを人材コレクターだという人がいる。曹操は有能だと見込んだ人物には声をかけ、自身の配下に迎え入れた。それは敵対陣営の人物に対してもそうであり、時には非情な手段を用いても招き入れている。

 それに対し、孔融は変人コレクターと呼ぶべきだ。彼は風変りな人物を好み、真っ当な人物は遠ざけていた。代表的な例として、彼が友誼を結んだ禰衡でいこうという人を挙げたい。


 禰衡は若くして並外れた才能を持っていたが、それを鼻にかける傲慢な人物でもあった。そんな禰衡を孔融は絶賛し、大得意で曹操に推薦した。

 そうして呼ばれた席で禰衡は曹操に対して、散々に無礼な振る舞いをする。曹操の右腕である荀彧じゅんいくに対して「顔がいいから葬式の挨拶に行くのにピッタリだ」と皮肉を言ったのを皮切りに、泣く子も黙るの語源となった恐ろしい張遼ちょうりょうに「太鼓でも叩いていろ」、曹操の従兄で隻眼であることに劣等感コンプレックスのある夏侯惇かこうとんに「五体満足なのは彼だけだね」と言ってのけた。

 残忍で知られた曹操も無礼だというだけで禰衡を殺すことはなかった。だが、権力者の間をたらい回しにされ、やがて洒落の通じない相手を怒らせてしまい、その命を散らすのである。


 そんな変人マニアの孔融に太史慈たいしじは見染められた。これは太史慈もまた奇人の類に過ぎなかったということかもしれない。

 時は流れ、太史慈と孔融の運命が交差する瞬間が近づいていた。

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