第一回 太史慈、使者になる

 太史慈たいしじあざな子義しぎ東萊とうらい郡の黄県の人である。


 東萊郡は現在の山東省に当たる。中国大陸と朝鮮半島に囲まれた黄海にあって、突き出るような形をした山東半島の先端付近がこの場所だ。


 太史慈の出自は寒門であり、その貧しさを嫌ったのだろう。彼は学問に熱中し、やがて郡の役所に仕え、奏曹史そうそうしとなった。この役職がどのようなものであったかは詳しくわからない。


 ただ、彼がこの役職を務めてほどなく問題が起こる。東萊とうらい郡と青州の間に確執が起こり、どちらが正しいのか揉めた。互いに事体を朝廷に報告する必要があったが、あまりに込み入っていたためか、先に上奏したほうが有利な状況である。

 しかし、青州の使者はすでに出発しており、東萊郡は後れを取っていた。焦る郡の上層部が使者に選んだのが太史慈だ。この時より太史慈は歴史の舞台に上がる。二十一歳であった。


 太史慈もまたこの事体を克服することに強い使命感を持つ。昼夜を構わずに歩き続け、都である洛陽らくように到着した。そして、ちょうど青州の使者が上層のための取次ぎを願い出ているのを目の辺りにする。

 これは間に合わなかったことを意味していた。太史慈が今から取り次いでも、青州の後になることは明白である。だが、太史慈の強い使命感は――あるいは野心は、ここで諦めることを良しとしない。

 一計を案じて、青州の使者に近づいた。


「あなたは上奏の取次ぎをしているのかい?」


 青州の使者は素直に頷く。それに対し、太史慈は「上奏文はどこに置いてあるんだ?」と尋ねた。これまた素直に「車に置いてあります」と使者は答える。

「上奏文の表書きに間違いはないかね。結構あるんだよ、間違えてて、上奏を撥ねられることが。今一度、見直したほうがいいんじゃないかな」

 太史慈がそう言うと、使者は不安になった。太史慈が敵方の使者だとはつゆほどにも思わず、上奏文を取り出す。それを見計らい、太史慈は上奏文を自然に使者から奪い取った。そして、懐に忍ばせていた小刀を抜くと、上奏文を切り裂く。


「こいつ、俺の上奏文を台無しにしやがった!」


 使者が大声で叫んだ。周囲の視線が太史慈と使者に集まった。

 しかし、太史慈はそんな反応は予想済みだ。車の影に使者を引っぱって行き、ゆっくりと言い聞かせる。


「いいかい、私は確かにあなたの上奏文を切り裂いたよ。だけどさ、それができたのはなぜだと思うんだい。

 それはあなたが私に上奏文を手渡したからだろ。私だってそれがなければ破ることはできなかったんだ。

 つまり、この問題にはあなたと私、どちらにも過失がある。私が捕まれば、いずれあなたも捕まるだろう。どっちも捕まるんだったら、お互いに協力し合ってこの場を逃げたらどうだろう?

 そうすれば二人とも生き延びることができる。処刑されて、命をむだにすることなんてないじゃないか」


「あんたは東萊とうらい郡の使者じゃないのか?」

 さしもの使者も太史慈の暴挙を前にして、郡の使者だということに気づいた。そして続ける。

「郡のために上奏文を破いたのだ。目的を達成して逃げる道理がどこにあるんだ?」

 案外に鋭い。そう思いつつも、太史慈はわざと焦った声を出した。


「俺の元々の役割は上奏文が届いているか確認することだけだったのさ。それが気がはやって、ついつい青州の上奏文を破ってしまった。これは俺の役割を超えたことなんだ。このまま帰れば、俺も刑罰を受けることになる。だから、あんたと一緒に逃げたいのだ」


 この焦燥感のある物言いに使者は「なるほど、その通りだ」と思った。いや、思ってしまった。

 二人はともに逃げ出す。だが、太史慈は洛陽の城門を越えたところで姿をくらますと、すぐさま引き返して、東萊郡の上奏文を提出した。


 青州はこの事体に気づき、上奏文を提出するための使者を送りなおすが、もう遅い。

 すでに東萊郡に有利に事は進み、青州は不利な処分を受けることになった。


 こうして、太史慈の名は一躍有名となるが、それは悪名というべきものだっただろう。青州のものたちは恨みを抱き、太史慈の行動は正統性がないだけに、東萊郡も庇ってはくれない。やがて太史慈はまともに生活することさえできなくなった。身の危険を感じて逃げ出すことになるのである。


 だが、彼の悪名を聞いて一目を置くものもあった。

 孔子の二十代目の子孫である孔融こうゆうだ。当時、北海国を支配するしょうであり、中央でも活躍した実績を持つ。

 しかし、彼は孔子のような聖人とは程遠い。むしろ、厄介な性分を持ち、奇妙な癖を持つ人物である。彼はなぜ太史慈を評価したのだろうか。

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