太史慈伝

ニャルさま

まえがき

 太史慈たいしじという男がいる。彼について語る前にいくらか前置きが必要だろう。


 太史慈の生年は西暦166年から206年。後漢時代の人物であるが、三国時代の人物と言ったほうが通りはいいかもしれない。彼が仕えた孫権そんけんは江東六群に割拠する領主に過ぎなかったが、のちに呉の大帝となるためだ。

 一般的には、呉の武人として知られる部将であるが、その実態はどのようなものであったか。本作を執筆した動機はそれに迫りたい一心からである。


 三国志演義やそれを元にした作品(吉川英治や横山光輝の「三国志」が代表的だろうか)において、彼のキャラクターは真面目さや義心が強調される。

 近年の三国志観に大きな影響を与えた「蒼天航路」や「真・三國無双」シリーズでもそれはあまり変わっていない。「蒼天航路」では出番はほとんどがない。「真・三國無双」シリーズでは最初期から登場してはいるものの(あるいはそれゆえか)、目立った個性の少ない真面目な男である。正史では武芸について詳しく書かれた数少ない人物だけに、史実とは違う双鞭で武装しているというのも残念な点だ。


 それでは、史実において、太史慈はどのように記述されているのか。

「正史 三国志」の呉書では四巻に、劉繇りゅうよう士燮ししょうと並んで伝が置かれている。一巻から三巻までは歴代の皇帝の伝であるため、かなり早い登場といえる。


 太史慈らの伝である四巻に続いて書かれるのは、妃嬪伝きひんでんであり、次に宗室伝そうしつでんとなる。妃嬪は主に歴代皇后のことであり、宗室とは孫堅そんけんや孫権の兄弟とその子孫のことであるが、今回は主題としない。その後、功臣の伝となる。

 皇帝の一族に先んじて、太史慈らを載せた理由は何であろうか。劉繇は江東を支配していた人物であり、孫策は彼を打ち滅ぼすことで自身の支配基盤を築いた。もう一人の士燮は交州(現在のベトナム北部)の支配者であり、孫権は彼の死後にその地を支配下に置いた。


 だが、太史慈は彼らとは異なり、身一つで流浪し、武力のみで名声を得た人物である。領地を持っていたわけではない。なぜ彼はその特異な位置に伝を残すことになったのだろう。本作では彼の生涯を追うとともに、その謎を解き明かしていくこととしたい。


 余談ではあるが、「正史 三国志」では蜀書に対してある種の配慮がなされている。劉備りゅうび劉禅りゅうぜんを先主、後主と呼び、しょく簒奪さんだつしたことを伝の順番によってやんわりとしたものにしている。

 これは「正史 三国志」作者の陳寿がもともと蜀の人だからである。しかし、執筆のタイミングはの流れを汲むしんの時代であった。まずは魏を立てねばならないが、可能な範囲で蜀も立てる。これに対し、呉の皇帝はそのまま氏名であり、敬意も何もない。


 陳寿にとって呉書はどうでもよかったのだろう。執筆途中からやる気をなくし、呉の臣下であった韋昭いしょうの「呉書」を丸写ししたとも取れる記述が多くなっていった。

 しかし、だからこそ、呉書は面白いのだともいえる。晋の臣民でもなければ、蜀の遺臣でもない。呉という国を生きた人物たちの生の息遣いが伝わってくるのである。

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